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タカとマサとぴよ助

「兄ちゃん、お願いっ」

 いつもは「兄ちゃん」なんて言わない癖に。

 突き出されたピンクのケージと、小学校を卒業して来たばかりの弟の必死な顔を冷ややかに見つめる。

「…マサさぁ、何で連れて帰って来た? 母さんに駄目って言われてたろ。そんで、オレに丸投げか? 勘弁しろよ」

「うー、だって…」

「だってもクソもねぇよ」

 でもま、仕方ねぇかも。

 ちらりとそう思ったのは、弟から一連の事情を前もって聞いていたからだ。

 泣き出しそうな雅広(まさひろ)は、俯くようにケージを覗き込んで言った。

「ぴよ助、可哀想だったんだもん。おれ、ちゃんと世話しに来るし、お小遣いで餌も買うから! だから、タカちゃんの部屋に置いてやってよ」

 それもま、仕方ねぇよな。

 この春高校生になるオレの一人部屋には、母親も父親も勝手には入って来ない。

 対して反抗期もまともに来ていない弟の部屋には、掃除だなんだと母親がしょっちゅう出入りする。

 親に内緒で連れ帰った生き物を、到底隠してはおけないだろう。

「…タカちゃん。一生のお願いっ!」

「………」

 歳の離れた弟。

 生意気で後先考えない馬鹿だが、可愛くないわけではない。

 吐いた溜息は、八割見せかけだ。

 面倒くさいことは確かだが、雅広のおねだりモードを突っぱねる程冷たい兄貴ではないつもりだ。

「ちゃんと世話しに来なかったら即バラすからな」

「っうん!」

 瞳を輝かせた弟から、軽いケージを少し乱暴に受け取る。

 その振動に驚いたのか、ケージの中の小さな小屋から茶色い塊が飛び出して来た。

 ジャンガリアンハムスター。

 動物嫌いの母親が見たら、きっと悲鳴を上げるだろうネズミ丸出しの生き物。

 そいつは器用にも後脚で立つと、しきりに鼻を動かして、そしてあっという間に小屋に戻って行った。

 



 無言で玄関のドアを開けると、リビングから母親が顔を出した。

「おかえり、鷹浩(たかひろ)。お昼出来てるけど…」

「買って来たからいらねぇし」

 ぶら下げていたハンバーガー店の袋を軽く持ち上げて、そのまま階段を上がった。

 またそんなのばっかり、と溜息混じりの言葉を黙殺する。

 別に、親が嫌いな訳でも、非行に走っている訳でもないつもりだ。

 ただまあ、そういう年頃だからか酷く鬱陶しく感じることはある。

 色々と。

 部屋に入ると、鞄と真新しいブレザーを脱いで放った。

 グレーの布地に、金色の校章がちらりと光った。

 良く受かったもんだと、我ながら感心している。

 都立の中堅どころだ。

 もっとも、小学生の頃は毎週末塾に通い詰める「受験組」だった訳だが。

 それも、中学受験に失敗して一転した。

 市立の中学に入ると塾を辞め、内申を気にして真面目を演じるのも止めた。

 制服を着崩し、上履きを踏んで歩いたら、ようやく安心して息が出来た。

 そうして「やや不良」に落ちたオレを、両親はそう口煩く咎めなかった。

 服装や態度はともかく親が呼び出されるほどの馬鹿はやらなかったから、両親としても「まあ仕方ない」ってところだったんだろう。

 そうやって許容してもらったから、何とかそれなりの高校に入ってやろうという気力が湧いたのかもしれない。

それなのにこうして入学式を終えて帰って来て、驚くほど憂鬱だ。

 また無駄な三年が始まり、そしてその終わりにまた選択を迫られる。

 繰り返し、繰り返し。

 苦しいことばかり、辛いことばかり重ねて歩く。

 縋るように見つめた未来は、そしてオレを嘲笑う。

 人生なんてそんなもんだ。一体、何を期待していたんだ、と。


 かさりと音がした。

 散らかった机の上に、当たり前みたいに置かれているピンクのケージ。

 その中から、焦げ茶色の生き物がこちらを見ていた。

「…何だよ」

 ネズミは嫌に必死に格子の隙間から白い鼻先を突き出す。

 突き出しすぎて、口元のピンク色と歯がむき出しになっている。

「何お前、食いもん狙ってんの?」

 確かに手に持ったビニール袋からはハンバーガー店特有の良い匂いがしている。

 食い意地の張ったネズミだ。

「期待するだけ無駄だって。お前に人の食べもんをやるなって言われてるし」

 何話しかけてんだ、オレ。

 そう思いつつ、ちょろちょろと動く生き物から目を離せない。

 ネズミはオレの言葉に苛立ったように格子を齧った。

 それが、妙に人間臭くて笑える。

 ちょっとくらい良いか。

 気まぐれを起こして、ビニール袋を漁りフライドポテトを少し千切った。

「…ほら。感謝しろよ」

 ネズミはポテトの欠片を咥えると、もう用は済んだとばかりに凄い勢いでケージ内の小屋に消えた。

 まるで逃げるように。

「ホント、可愛くねぇな」

 雅広がこいつを連れ帰って二週間ばかり。

 酷く面倒な生き物が来たと、うんざりしている。




「ひぎゃッ!!」

 ああ、またか。

 ぼんやりと見ていたゲーム雑誌を置いて、ベッドの上で身体を起こした。

 夕食後のくつろぎを妨げるこの悲鳴を、ここのところ毎晩聞いている気がする。

 少なくとも、入学式の夜は聞いたし、昨日も聞いた。

 声を上げた当人は、オレの視線を受けて言い訳がましく右手の人差し指を見せた。

 その指の腹に、赤い点。

「どんだけ噛まれてんだよ。てか、あんま騒いでるとバレるぞ」

「…うー」

 雅広は納得いかない顔で唸った。

 その雅広の膝の上には、ネズミのケージがある。

 こっそり持って来たニンジンの切れ端をやろうとして、噛まれたらしい。

 そりゃあ、納得もいかないだろう。

 当のネズミは、戦利品を咥えまたも小屋へ逃走している。

「…性格悪いネズミだな」

「ネズミじゃなくて、ぴよ助!」

 何だ、もう何度噛まれたか判らないのにまだネズミの肩を持つらしい。

 オレは眉を上げた。

 雅広はケージを抱きかかえたまま、中の小さな小屋を覗いている。

 ピンクの屋根の寝床は裂かれたティッシュがぎっしり詰まっていて、茶色の生き物の影も見えないのに。

「お前は愛情に飢えてるだけだもんなー」

「…………」

 弟にかかると、そういうことになるらしい。

 確かに、こうして見れば決して可愛がられて来たわけではないと判るけれど。

 オレはふと枕元のスマホを手に取った。

 ジャンガリアンハムスター 懐く

 入力した単語にヒットしたページを開いた。

 犬猫のように『懐く』かと言われたら微妙ですが、餌の合図を理解したり手の中で寝たりするくらいには慣れるし、慣れた個体は人に噛みつくことはありません。

 寿命は三年程度。

「そいつさぁ、何歳なわけ?」

「判んない。一歳以上にはなってると思う」

 雅広は懲りずに格子の隙間に指を入れている。

「タカちゃんには言ったけどさ、ぴよ助飼えなくなった子がクラスに持って来て、それで一年クラスで飼ってたから」

 情操教育によろしいのではなんて理由でクラスに迎えられたネズミは、そのクラスの卒業と同時に行き場がなくなった。

 下の学年は、押しつけられても困ると首を振り。

 じゃあ自分が連れて帰って面倒を見ますって奴は、クラスにはいなかった。

 ただ、雅広を除いて。

 情操教育が、聞いて呆れる。

「ぴよ助が人間嫌いなの、仕方ないって。みんな、可愛がるって言うよりぴよ助で遊んでただけだし」

 雅広は卒業が迫ると、それとなくネズミの話をした。

 両親の反応は無論芳しくなく、それならとばかりにオレに事情だけを説明し、誰にも許可を得ずにネズミを連れ帰ったのだ。

 一緒に卒業して来た、なんて上手いこと言って。

「こんなちっこいのにさー、きっと酷いことされたって分かってるんだよ。だから、きっと目一杯可愛がったら懐いてくれるって!」

「ホントかよ」

「…多分」

 多分かよ。

 雅広はようやくケージを机の上に戻すと、何となく言いにくそうに「あのさ」と口を開いた。

「明日も帰ってくんの、早い?」

「は? 何だよ」

「あのさ、帰りにコンビニで豆腐と砂糖入ってないヨーグルト買って来てくんない?」

「何で?」

 理由は、判っている。

 問題は何故オレが行かなくてはいけないのかってことだ。

「…だって、おれがコンビニの袋持って帰ったら母さんに何か言われるに決まってるし。タカちゃんなら、普通に部屋まで持って来れるじゃん?」

「めんどくせぇんだけど?」

「お願いしますっ!」

 どうしてこう弟ってやつは、頼みごとをするのが上手いんだろうか。

「……ぴよ助、何か毛並み悪くなって来ちゃったし、フードも食べてる量減ってる気がすんだもん。食べやすくて美味しいもん食べたら元気出るんじゃないかって思って」

 あーあ。

 そしてどうして兄ってものは、弟のために何かしてやりたくなるのだろう。

「金は出せよ?」

「っうん!」

 うちの弟に関してだけは、情操教育とやらは大いに成功したらしい。




 明日が休みだっていうだけで、面倒事もまあ仕方ないかって気になるのだから不思議なものだ。

 久しぶりに小学校からの付き合いの友人と会う約束もしているから、尚更。

 まだガイダンスばかりの高校は午前中で終わり、配られたプリントを適当に鞄に詰めて立ち上がった。

 だいぶ学校にも慣れてきたのか、クラス内にもちらほらグループが出来てきたようだ。

 ここでうっかり出遅れると後々まで響くから、皆必死なんだろう。特に女子は。

 オレには、全く関係ないけど。

 お情けで付き合う上辺だけの「友人」なんて、いない方が面倒事が少なくて済む。

 もっとも向こうも、「やや不良」のオレには話しかけても来ないからその心配は皆無に近い。

 そんなことより、豆腐と無糖のヨーグルト忘れないようにしないと。

 一度請け負った頼まれごとだ。

 うっかり忘れるなんて決まらない真似は、弟の手前するわけにはいかない。

 だらだら行き着いた下駄箱で、オレは立ち止まった。

 オレの進行方向を遮るように、男子生徒がぼんやりと立っている。

 邪魔、と声を掛ける寸前、彼の視線の先に気付いた。

 真新しいスクールバックを肩にかけて小走りに帰って行く、女子生徒。

 濡れたような黒髪が華奢な肩で波打って、遠くなっていく。

 へえ?

「忙しいとこ悪ぃけど、どいてくんねぇ?」

 オレの下駄箱そこなんだけど、と彼のすぐ隣を指差す。

 振り返った彼は、きょとんとオレを見上げて「ごめん」と慌てて場所を開けた。

 少し弟に似てるなと思ったのは、多分その染めたこともなさそうな癖のない黒髪のせいだ。

 彼はオレに見られていたこと何とも思っていないのか、特に表情を変えずに上履きを脱いで仕舞う。

 下駄箱は近い。同じクラスだ。

「春だな。ま、頑張れよ」

 そんな風にからかいたくなったのは、弟に似ているとちょっとでも思ったからだろう。

 彼はオレの笑みに、ようやく意図に気付いたらしい。

「……違います」

「ふぅん。随分熱烈な視線を送ってたみたいだけど、ま、そういうことにしておいてやるよ」

 彼はしみじみとオレを見て、それからふっと笑った。

「何だそれ。超上から目線!」

「……」

 そう返されるとは思わなかった。

 人の良さそうな顔をして、案外怖いもの知らずだな。

 けれど別に、腹は立たなかった。

 彼の言う通り、上から物を言った自覚もある。

「下駄箱そこ? 同じクラスじゃん。俺、原田(ゆう)。よろしく」

「…秋村鷹浩。別によろしくしてくれなくてもいいぜ?」

 原田は靴を出すと、オレの言い草にまた笑う。

「偉そうだしひねくれてるし、ホント、うちの猫そっくり」

「は?」

「秋村、駅?」

「あ? ああ」

 じゃ、一緒に行こう。

 やけにあっさりとそう言われて、まあ別にいいかと頷いた。

 

 帰り道、原田と話したのはなんてことのない話ばかりだった。

 中学の話や、今のクラスの話。

 それから少しペットの話もした。

 原田とは、降りる駅が一緒だった。

 けれどそこからオレはバスに乗って帰る。

 駅で別れると、バスに乗る前にコンビニに寄った。

 豆腐とヨーグルト、ついでに昼飯を買って帰る。

 うちの猫はさ、慣れてるけど全然思い通りになんてなってくんなくて。

 暇だから構えって寄って来たと思ったら、眠いから触るなって怒るし。

 生き物なんてそんなもんかもしれないけど。

 真面目に付き合ってると疲れるんだよな。

 原田は、楽しそうに猫のことを話していた。

 気のない返答をしていたつもりだが、内容はしっかり覚えている。

 何だかんだと文句を言いつつ、原田は猫可愛がってんだな。

 オレは、どうだろう。

 バスに揺られながら、そんなことをぼんやり考える。

 あのネズミのことを、可愛いと思ったことは多分ない。

 性格悪くて、捻くれてて、すぐ人を噛む。

 ああ、まるで「誰かさん」みたいだ。

 嫌なことばかりで、辛いことばかりで。

 もう期待するのはやめたんだろう。

 わかる。

 だからこそ、あのネズミが掌を返して人に懐くとは思えない。

 今日も黙って玄関のドアを開けた。

「鷹浩、おかえり。お昼、食べる?」

「買って来た」

 判ってんだろうに、聞くなよ。

 つい尖る口調に、母親は黙ってリビングに消える。

 オレは何でこんなに苛ついてるんだ?

 階段を上がる足音さえ、嫌に大きくなる。

 部屋に入ると、乱暴にドアを閉めた。

 オレは、一体どうしたいんだ。

「…………」

 ベッドに投げたコンビニのビニール袋が、軽い音を立てた。

 ふと、視界に入ったケージの中。

 珍しくネズミは小屋から出ていた。

 オレに気付いたのか、また格子の隙間から鼻先を突き出す。

 何か貰えるとでも思っているのだろうか。

「お前にやるもんなんて何もねぇよ」

 豆腐も、ヨーグルトも、雅広がネズミにあげたいとオレに頼んだものだ。

 オレからネズミにやるもんなんて、何もない。

 ネズミはしばらく匂いを嗅いでいたが、諦めて小屋へと引き返す。

 その途中、ネズミは唐突に暴れ出した。

「なん、何だよっ!」

 ぼんやりとネズミを見ていたオレは、その暴れように慌ててケージを覗く。

 良く見ると、ネズミの後足にティッシュが絡まっていた。

 細かく裂いてケージ内に敷き詰められたティッシュが偶然に小さな輪を作り、ネズミは器用にもそこに足を突っ込んだらしい。

 どんくせぇ。仮にもネズミだろ。

 鼻で笑おうとして、失敗した。

 ネズミはパニックでも起こしたのか、絡まったティッシュ咥えて引っ張る。

「馬鹿!」

 んなことしたら、ますます足に食い込むだろ! 

 ケージの上部にある入口を開けて手を突っ込み、ネズミを掴んだ。

 焦げ茶色の柔らかいものはするりと手の中に収まる。

 宙を蹴る小さな足先から、そっとティッシュを取ったその瞬間。

「痛ッ!!」

 思わずネズミを放してしまうほどの激痛。

 ネズミは開きっぱなしだった入口からケージの中へと落ちる。

 そのまま物凄い勢いで小屋へと逃げ込んだ。

「………」

 オレは噛みつかれた親指の付け根と、取ってやったティッシュをぼんやりと見た。

 助けてやったのに、お礼に一噛みとはやってくれる。

 けれどあまりに痛かったからか、不思議と腹は立たなかった。

 全然思い通りになんてなってくんなくて。

 生き物なんてそんなもんかもしれないけど。

 何故か、ふと、原田の言葉を思い出していた。



「はは、何だ。タカがハムスターを助けようとして逆に噛まれるとか、中学の連中が知ったら大爆笑するな」

「うるせぇ」

 既に爆笑しているのは小学校からの友人だ。

 真面目な振りをしていた小学生の頃も、受験に失敗して「やや不良」へと転落した頃も知っていて。

 それでいて離れて行くことのなかった、変な奴。

 休日に時間を作って会ってもまぁ、損はしない相手だ。

 実際、本屋に行きたいと言う彼に付き合ってその後ファミレスに入ってだらだらしていただけで、すでに日が暮れかけている。

 こいつといると退屈しないのは確かだ。

「マサくんが連れ帰って来たんだろう? そういうところはタカとそっくりだよな」

「どこがだよ」

「誰にも相談せずに行動に移しちゃうところだよ」

 何だ、それ。 

「それにしても、マサくんももう中学生か。元気にしてるかい?」

「オレと違って愛想良いしな。テニス部に入るんだって、今日もスポーツ店に行くってはりきってた」

「流石だね。タカは部活は決めたのか?」

「入ると思うのかよ」

 部活強制と言われていた中学時代ですら、オレは帰宅部で通したのに。

 彼は案の定苦笑する。

「入れば良いのに。友だちも出来るし、上手くすれば可愛い子とお知り合いになれるかもしれないよ?」

「動機が不純だな」

「不純でも、楽しんだもの勝ちさ」

「…名門校で早々にテスト漬けになってるお前に言われたくないな」

 時間を確認してオレは席を立つ。

 こいつが本屋に寄ったのも参考書を買うためで、休み明けには実力テストなんて控えているらしい。

 彼は「まだ帰りたくないよー」とふざけつつ、立ち上がった。

 オレとは違い、彼はきちんとした理由があって勉強している。

 名門校を受験したのも、彼の意志だ。

 医者になりたいから、そう聞いている。

 こんなに近くにいても、一緒に笑っていても、オレと彼は天と地ほど離れたところにいる。

「タカさぁ、やっぱり部活、入りなよ」

 駅が見えてくると、彼はふと真剣な声でそう言った。

「しつけぇな。何でだよ」

「君のことだから上辺だけの友だちなんていらないって思ってるのかもしれないけど、上辺だけの付き合いになるかなんて友だちになってみないと判らないだろう?」

「………」

「高校生活も、人生も一度きりだ。何でもやってみないと損だと、思うよ」

 その一度きりの人生、たった十五年でうんざりし出していると言ったら、こいつはどんな顔をするだろう。

 きっと。

 酷く悲しい顔をするに決まっている。

「タカはこんなに良い奴なのに、誤解されやすいしね。せめて今度会う時までに一人くらい友だち作っておいてくれよ」

 心配だからね、とはっきり言う辺り、こいつは性格が悪い。

 彼は確信犯の笑みを浮かべたまま手を振って去って行った。

 言い逃げだ。

「…一度きり、ねぇ」

 それを本当の意味で判っているあいつだからこそ、なりたいものを見据え真っ直ぐに歩いて行けるのだろう。

 オレには、到底真似出来ない。

 春の冷たい夜風に追われるように、ゆっくりとバスターミナルへと向かった。

 休日とはいえ、帰宅時間に被っているせいか人通りは結構ある。

 足を速め縫うように人の間をすり抜けると、向かうバス停の近く、見慣れた人影に気付いた。

 雅広だ。

 何をそんなに買ったのか、スポーツ店のロゴが入った袋はパンパンに膨れている。

 マサ、と声を掛けようとして、弟と向かい合っている人物に眼が行った。

 友だちと一緒か、と思ったけれど、近付いてそうではないことに気付く。

 だって、あいつ。

 何を話しているのか、雅広はどこかぼうっとしたような必死なような不思議な表情をしていた。

 このまま近付いて、声を掛けるべきだ。

 いや、そうするべきじゃない。

 何故か自然と足が止まり、戸惑う。

 雅広もあいつも、別にオレが入って行っても困らないだろうに。

 そうしている間に話が終わったのか、あいつは雅広に手を振った。

 さよなら。

 そう言ったように、思った。

「…………」

 あいつはまるでオレに気付いていたみたいに、ひょいひょいとオレに近付いてきた。

 黒髪が風に揺れて、何故か悲しそうな瞳で無理に笑って見せる。

 向かい合って、こいつこんな奴だったっけと違和感が掠めた。

「…おい」

「あのね」

 オレの言葉を遮って、彼は静かに、一言一言を区切るようにゆっくりと言った。

「助けてくれたのに、噛んじゃって、ごめんなさい」

「………――は?」

 何言ってんの? こいつ。

 確かに日本語だったはずなのに、理解が追いつかなかった。

 茫然とするオレに、ばいばいと彼は手を振る。

「ありがとう。さよなら」

 何だ、その言い草。

 また学校で、会うだろうが。

 今生の別れみたいな、気分の悪い言い方すんなよ。

 そう言ってやろうと口を開いた時には、彼は逃げるように走り出していた。

 速い。

 オレの脇をすり抜け、あっという間に人混み消えて行く。

「おいッ! 原田!!」

 怒鳴り声は焦躁を孕んで怖いくらいに響いた。

 通りすがりの幾人かが驚いてオレを見る。

 その瞬間、オレの足元を猫が駆け抜けて行った。

 まるで、オレの代わりにあいつを追いかけるように。

 あまりに唐突に事が起こり過ぎて、オレは結局立ち竦んだ。

 訳わかんねぇ。

「……タカちゃん」

 とぼとぼと近付いて来た雅広に、オレは引き攣った顔で何とか笑う。

「何あいつ。意味不明じゃね?」

「…タカちゃん、ぴよ助が」

「は?」

 何でここでネズミの話になる?

 マサは青白い顔で首を振った。

「ううん、帰ろ? 早く」

 オレの手を掴んで、マサはバス停へと引っ張る。

 弟の手は、酷く冷たかった。



 やっぱり。

 そう弟は呟いたし、オレも家に帰りつく頃には形のない不安を『予感』だと理解していた。

 雅広はそっとケージの入口を開け、ネズミを掬うように掌に乗せた。

「ぴよ助」

 焦げ茶色の丸い身体を、マサは優しく撫でる。

「ぴよ助」

 雅広の肩が小刻みに揺れて、鼻をすする音が大きくなる。

 あのネズミは懐きもしなかったし、人を噛んでばっかだったし、大層可愛くなかった。

 それなのに。

「ごめんな。もっと早く、うちに連れてくれば良かったよな。ごめんな」

「……………」

 雅広は動かないネズミを撫でながら、何度も謝る。

 ぴよ助、と名前を呼ぶ。

 オレは堪らなくなって、マサの背中を叩いた。

「お前が謝る必要なんてないだろ。駄目だって言われてもこいつを連れて帰って来て、体調悪ぃんじゃねぇかって心配してやって、美味いもんも食わせてやったろ?」

 何度噛まれても、手を差し出し続けた雅広が謝る必要が、一体どこにある?

 雅広の手の中、ネズミはまるで突然時間を止めたかのように口元に手をやったまま固まっている。

 顔洗いの途中だったのか。

 あるいは何か食べようとしていたのかもしれない。

 きっと寿命だったんだろうと思わせるほど、苦しみの痕は見当たらなかった。

「最後にうちに来て、こうやって泣いて見送ってもらえたんだから、きっと満足だろ」

「………でも、もっとしてあげたいこと、あったのに、なぁ」

 弟はぼろぼろと落ちる涙を拭いもせず、呟く。

 オレは手を伸ばして、雅広の手の中のネズミに触れた。

 命とやらがなくなるだけで、体はこんなに固くなるのか。

 こんなに、あっけなく空っぽになってしまうのか。

 オレは、雅広のように涙は出て来ない。

 ネズミを匿う面倒も消えたし。

 毎晩、噛まれた雅広の悲鳴を聞くこともなくなる。

 人間は怖い癖に、何か食い物を寄越せと催促されることもなくなった。

 それなのに?

「…そうだな。面倒ばっかかけたんだから、もうちょっといりゃあ良かったのな」

 ああオレも、悲しくない訳じゃ、ないのか。

 こんなに早く死ぬんだったら、もっと美味しいものをやっても良かったな。

 もう少し、構ってやっても良かったな。

 命なんてものが、こんなにも取り返しのつかないものだと解っていれば。

 気まぐれでも、一回くらい名前を呼んでやったのに。

 雅広は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、困ったように笑った。

「…うん。言ってたよ、ぴよ助。もう少しいても良かったなって」

「………は?」

「でももう眠いから、寝るって。だから最後に大切なこと、伝えに来たって」

 助けてくれたのに、噛んじゃって、ごめんなさい。

 耳の奥に残っている声。

 ぴよ助が、大切なことを伝えに来た?

 そんなホラーなことが、現実世界に起こり得るのか。

 馬鹿なこと信じるなよ、と雅広を笑おうとして、笑えなかった。

 雅広は中学生になったばかりとは思えない、静かな声で「嘘じゃない」言った。

「嘘じゃないよ。おれも、絶対嘘だって、思ったけどさー…。でも、何かあの人の眼見てたら、ぴよ助だなって判ったんだ」

「そりゃ…、お前騙されてるだろ。金品要求されなかったか?」

「タカちゃんだって、わかってるくせにー」

 雅広はぴよ助の小さな頭を優しく撫でた。

 その手に、また、涙が落ちる。

 馬鹿だな。

 そんなに泣いたら、流石にぴよ助だって心配になっちまうんじゃねぇの?

「伝えに来た大切なことって、何」

 オレのぶっきらぼうな声に、雅広は何故か笑い出す。

 鼻を啜りながら笑うから、滅茶苦茶に泣いているように聞こえた。

「美味しいもの、ありがとうって」

 何?

「噛んでばっかだったけど、本当は嬉しかったって」

「はぁ?」

 伝えに来た大切なことって。

 雅広がけらけらと笑うから、結局オレも笑うことにした。

 まあ、笑うしかない。

 何だそれ。そんなこと、言いに来たのかよ。

 馬鹿じゃねぇの。

 美味しいもの貰えば喜んでたのも。

 噛みつくのは怖がってるだけだってのも。

 オレも雅広も、とっくに知ってたっての。

 可笑しくて笑っていたはずなのに、オレの笑い声まで何故か。

 泣いているみたいに聞こえた。




 一緒に卒業してくれて、ありがとう。

 怖いことばかりの世界だったけれど、貴方たちのところには、もう少しいても良かったなって思っているんです。

 ヒトの手は大きくて、いつだって嫌なことばかりするから。

 貴方たちの手だって、噛みついて逃げていたけれど。

 食べたことのない美味しいものも、掛けられたことのない柔らかい言葉も。

 本当は、とても嬉しかったことを。

 ねえ、どうしても、貴方たちに伝えたかったんです。

 




 *


 まったく、大変な一日だった。

 そうミケが、いかにも自分が苦労したみたいに言うから。

 母さんが買って来た、ミケお気に入りのクッションをクローゼットに放り込んで家を出た。

 せっかくの休日を滅茶苦茶にしてくれたの誰だっけー?

 そんで俺は今日学校なのですが、ミケさんは家でごろごろしちゃうとか不公平ですよねー?

 大変な一日だったって。

 俺が、な!

「結! ちょっと待て!」

 閉めた扉の向こうでミケが騒ぐのを無視。

 どうせこれくらいで反省するような可愛らしい神経の持ち主ではない。

 やーい、ざまー。

 結は学校だから良い子でお留守番してようねー、なんて母さんに回収されるミケに心の中で舌を出した。


 入学式の夜にミケが喋り出して。

 それから、俺の世界は普通と少しずれてしまった。

 ミケの鳴き声はもれなく日本語に翻訳されるし、時々。

 本当に時々、すれ違う人の肩に、動物を見ることもある。

 それでも慣れというものは恐ろしいもので、まだ数日しか経っていないというのにさして違和感もなくなって来た。

 習うより慣れろがモットーのミケに振り回されて、既に二回も『ボランティア』をしたせいかもしれないけど。

 その二回目の『ボランティア』も、一回目より遥かに負担が少なかった。

 スポーツ店の買い物袋を持った、男の子。

 その肩に、ジャンガリアンハムスター。

 人通りが結構ある駅のバスターミナルだったからどうなるかと思ったけれど、上手く人ごみに紛れて逃げることが出来たみたいで、気付いたら『ボランティア』は終わっていて見慣れた駅の階段近くに立っていた。

 頭痛や吐き気もほとんどなくて、何となくだるいなくらいで済んだ。

 ミケに訊いたら、それもある意味『AP』の恩恵だと言う。

 そっか。つまりは一応レベルアップ、してるのか。

 成長の実感も、達成感もないけど。

 少しずれてしまった世界は、何食わぬ顔で今も日常を紡いでいる。

 

 まだ早いせいか、学校は何となくしんとしていた。

 下駄箱で上履きに履き替えると、脇の廊下を女子生徒が通り抜けて行った。

 肩までの黒髪が、歩調に合わせて揺れる。

 同じクラスの、あの子だ。

 ずきりと胸が痛むのは、決して一目惚れをした訳ではなく。

 彼女の後を、影のないゴールデンレトリーバーがついていくからだ。

 犬は勿論俺なんかには眼もくれず、一心に彼女を追って行く。

 俺は息を詰めて、それを見送った。

「…………」

 怖いとは、思わない。

 けれど見ていると自然に指先が冷たくなる。

 ミケに、話した方がいいのかな。

 校内や街中でも、こんなにはっきりと見える「幽霊」には会ったことがない。

 きっと、言いたいことが。

「忙しいとこ悪ぃけど、邪魔」

 唐突に声を掛けられて振り返ると、先日と同様意味深な笑みを浮かべたクラスメイト。

 だから、違うんですけど。

けれどむきになって否定すると面倒だと、不満を辛うじて堪えて話題を変える。

「…秋村じゃん。早いなー」

「おう。オレ、優等生だし?」

「え、どこが?」

 入学早々に制服を着崩してる奴を「優等生」とは言わないぞ。

 秋村は何故かにやりと笑う。

 こいつ、背高くて顔怖いし雰囲気は「不良」だけれど。

 悪い奴ではなさそう、なんだよな。

「優等生だろ? クラスメイトの恋を黙って見守ってやってんだから」

「しつこいな…。違うって言ってんだろ」

 秋村はさっさと靴を脱いで上履きに履き替えると、「あー、そうかよ」と棒読みで返す。

「そういや、原田」

「んー?」

 俺も秋村に続いて廊下を歩き出すと、彼はふと立ち止まって振り返った。

 廊下の窓から、春の朝らしい光が射し込んで眩しい。

「………昨日」

「昨日?」

「…いや、何でもねぇ」

「は? 何だよ、それ」

 秋村は真っ直ぐに俺を見据えて、笑った。

 悲しいのに無理して笑ったみたいな、出来そこないの笑顔。

「大したことじゃねぇよ」

「…ふーん?」

 秋村はもう話は終わりとばかりに歩き出す。

 本当に、思わせぶりで自分勝手だ。

 つまり。

「やっぱ、ミケそっくり」

「そりゃ、光栄だな」

 何となく、心底楽しそうに彼が答えたので、俺は少しだけ走って隣に並んだ。

 秋村はちらりと俺を見て、「これからテキトーによろしくな」と素っ気なく言った。





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