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アキちゃんとぴーちゃん

 間に合わなかった。間に合わなかった。間に合わなかった。

 具合が悪いことは知っていたのに。

 もう長くはないと知っていたのに。

「おはよう。アキちゃん、いってらっしゃい」

 いつものようにそう言われて、安心して学校に行ってしまった。

 元気そうだったから、今日は大丈夫だろうと。

 年度始めの膨大な量の仕事を捌き、定時を二時間も過ぎて帰路についた。

 ほんのちょっとでも希望を繋ぎたくて、閉店間際の店に寄って高いご飯を買ったのに。

 真っ暗な部屋。

 リビングの一番あたたかい場所に置いた、布を掛けた籠。

 アキちゃん、と言ってくれない。

 おかえり、と言ってくれない。

 ぴーちゃんは、止まり木から落ちて、固くなっていた。



「栗原先生?」

 同僚の男性教諭が、机越しに声を掛けて来た。

 怖そうなスキンヘッドの割に、人の良い生物教諭だ。

 彼は心配そうな顔で手にしたプリントを閃かせる。

「あ、すみません。ぼうっとしていて」

 謝って、その手からプリントを受け取った。

 灰色がかった藁半紙に、部活動の顧問を任された教諭に向けて諸注意と連絡事項が細かく書かれている。

 反射的にこめかみが痛み、指を当てた。

「…大丈夫ですか? ここんとこ忙しいですからねー」

「ええ。でも入学式も終わって新入生も落ち着くでしょうし、もう一頑張りですもんね」

 明るく答え、わざと音を立てて机の上の書類をまとめる。

 幸いにも向かいの彼はそういう空気を読める人で、それ以上は言葉を重ねなかった。

 煩い職員室で、私は誰にも気が付かれないように、深く。

 深く、息を吐く。

 ああ、何で、私はこんなところにいるんだろう。

 本当はもっと、大切なことがあったのに。

 のろのろと紙の束を机の隅に積み重ねて、ノートパソコンを開く。

 電源を入れて、その小さな起動音に咽喉の奥が痛くなった。

 明るくなった画面に、首を傾げて何かを見上げるセキセイインコが映る。

 ぴーちゃん。

「栗原先生、家庭科室の備品の件でお電話ですよ」

「はい! 外線何番ですか?」

 心から切り離したようにてきぱきと動く身体を、酷く疎ましく思う。

 受話器を取って、感じ良く話す。

 資料を確認して、笑って、お礼を言って。

 本当に。

 大切なのは、この狭くて生温い世界ではなくて。

 おかえり、と言ってくれる小さな家族だったのに。

 あの小さな命が、私の大切なものだったはずなのに。

 この時期に有休なんて取れない、なんてそんな理由で。

 私はぴーちゃんを、ひとりぼっちで逝かせてしまった。






 あと二ヵ月で、二十七歳。

 新卒で、家庭科教諭として今の高校に赴任した。

 慌ただしく過ぎた数年で出会いなどあるはずもなく、彼氏なんてもちろんいない。

 趣味は、読書。

 旅行なんて行きたいな、なんて思いつつ、時間もないしぴーちゃんもいるからと散財の当てもなかった。

 お陰で貯金だけはしっかりとあり、それなりのアパートに住んでいる。

 勤務先の高校まで、電車で三十分という好立地。

 都心よりずっと離れているが、周りは静かで、何より「ペット可」。

 ぴーちゃんとここに引っ越して来たことを、昨日のことのように思い出す。

 そう、何て遠い、昨日なんだろう。

 アパートの住民専用の駐輪場を抜けて、道路を一本挟んだところに小さな公園がある。

 私はその公園に、ぴーちゃんを埋めた。

 本当はペットを公園に埋めてはいけないけれど、私はベランダに花壇など作っていなかったし、まして市の回収業者に頼むなんて気にはとてもならなかった。

 小さく、固くなったぴーちゃんはとても軽くて。

 あのあたたかさを、もう二度と、どんな手を使っても取り戻せないのだと、思い知った。

 

 まだ肌寒い、見飽きた帰り道を、ヒールを引き摺るように歩く。

 灯りの燈るアパートが見えて、肩にかけた鞄の紐を強く握った。

 まるでずっと前からの習慣のように、アパートには入らず駐輪場を抜けて公園に向かう。

 ぴーちゃんを失ってから、帰りにこの公園に寄るようになった。

 オレンジ色の外灯に照らされる、誰もいない小さな公園。

 私はブランコに腰掛けて、ぴーちゃんが眠る公園の隅を見つめる。

 私はもう、いい歳をした大人の女だ。

 ペットが死んだくらいで、こんなに落ち込んでどうする。

 私より早く逝ってしまうことなんて、覚悟していたはずだ。

 それなのに。

 ぴーちゃんのいないあの部屋に帰るのは、ただ苦痛だった。



 アキちゃん。

 おはよう。

 ぴーちゃん、遊ぼ。

 いってらっしゃい。

 おかえり。

 ぴーちゃんは黒い真ん丸の目をきらきらさせて、良く喋った。

 飼い始めたのは、大学生になったその年。

 群馬から上京して一人暮らしを始めて、平気だと思っていたのに無性に寂しくなった。

 友だちも出来たし、憧れの東京はきらきらしていたし、必死に勉強して入った大学はすごく楽しかったのに。

 それなのに毎週末実家に電話をして、お父さんとお母さんの声を、喧嘩ばかりしていた弟の声を聞くと、うっかり泣いてしまうくらいには寂しかった。

 アキ、ペットでも飼ったら?

 ゴールデンウィークにやっと帰れた実家で、何気なくお母さんにそう言われた。

 寂しさを見透かされたようで気恥ずかしくて、「考えとく」なんて気のない返事をしたけれど。

 東京に戻るとすぐにアパートの規約を読み返し、「小動物なら飼育可能」の文字列に一人ガッツポーズをした。

 何を飼おう。

 ウサギ、ハムスター。

 あたたかくて、ふわふわして、優しい生き物が良い。

 大学のパソコンでペットショップを探し、週末を待ち切れず金曜の午後授業をさぼって電車に乗った。

 まるで子どものように胸を高鳴らせて入ったペットショップで、文字通り「呼ばれた」。

 ぴよ、と。

 ハムスターのケースを覗き込んでいた私はその甲高い声に振り向いて、そして。

 ぴーちゃんと出逢った。

 カラフルな鳥たちの集められた棚の上の方。

 薄い黄色の頭に水色の翼。

 柔らかいパステルカラーは確かにとても綺麗だったけれど。

 愛らしい雛たちとは明らかに違う、売れ残って大きくなってしまったセキセイインコだった。

 私は伸び上って、その鳥を見つめて。

 ああ、何でだろう。

 この子にしようと、決めていた。

 この子を連れて帰ろう。

 一日待って良く考えて、とかそんな必要はないと思った。

 だって、その一日の間に、この子が他の人に買われちゃったらどうするの?

 まさかの、衝動買い。

 やる気のなさそうな店員は、意外にも親切に「店で大きくなったんで懐かないかもしれないですけど良いですか? 時期なんで雛もたくさんいますよ」と説明してくれた。

 いいんです。この子がいいんです。

 そう答えたら、その人は丁寧に鳥の飼い方を教えてくれた。

 売れ残りのセキセイインコは千円出せば買えたけれど、その子を飼うために必要なものはそれなりの値段だった。

 軽くなったお財布を仕舞って、鳥籠や餌の入った重いビニール袋を受け取った。

 店員はセキセイインコを入れた白い紙箱を両手で差し出して「大切にしてあげてください」と、そう言った。

 紙箱の中からはこそこそとくすぐったい音がして、「ああ、この手の中に命があるんだ」と思ったことを、あの時の気持ちを、今も憶えている。


 慣れてくれないかも、と言われて覚悟していたのにぴーちゃんは拍子抜けするくらいあっさりと懐いてくれた。

 大学から、就職してからは高校から、帰るとぴーちゃんは「おかえり」を繰り返して、籠の中で暴れ、遊んでと催促する。

 けれど出してやると、私の肩にとまって羽繕いなんかしている。

 私がちょっと席を外すと、ぴーちゃんは「アッキちゃぁあん」なんて変な声で私を呼んだり、「ぴーちゃん、あそぼ!」と必死に訴えたりした。

 私はその度に、「いるよ、いるよ」とつい笑って。

 ぴーちゃんは私が笑っているのを聞いて、「けらけらけら」と私の声で笑った。

 ぴーちゃんは、私の大事な家族だった。

 それなのに。




 思い出したように瞬くと、乾いた眼球がひりひりと痛んだ。

 私はバッグからビニール袋を取り出す。

 あの日ぴーちゃんのために買った、ちょっと高い餌。

 喜んでくれるかな、なんて、もしかしたら持ち直してくれるかな、なんて。

 そう願って買った、ぴーちゃんのご飯。

 あれからずっと、バッグに入れっ放しだ。

 これを買いに、行かなければ。

 あの日、二時間も残業しなければ。

 そもそも学校を休んでいれば。

 間に合ったかもしれない。

 そして、間に合えば、きっと私はこんな風に後悔しなかった。

 あの暗い部屋で、ぴーちゃんはたった一羽で。

 もしかしたら苦しかったかもしれない。

 アキちゃん、と、私を、呼んでいたかもしれないのに。

 一際冷たい風が頬を撫でて、私はゆっくりと瞬きをした。

 じんと痺れる頭で、もう帰ろうと強く自分に命じる。

 冷え切った手でそっとビニール袋を鞄に戻し、腰を浮かせた私は、はたと動きを止めた。

 ブランコから数メートル離れたところに、男の子が立っていた。

 気が付かなかった。いつの間に?

 しかも、私を真っ直ぐ見ている。

 これが男だったら、私はきっと逃げただろう。

 けれどその子はまだまだ幼い顔をしていて、紺の長袖のシャツに黒のジーパンなんてあっさりした格好をしていたけれど、ある年頃の男の子特有の細い身体つきだった。

 少年少女を見る機会は腐るほどある。

 きっと、中学三年、あるいは高校生になったばかりだろう。

 そう判断すると、私は平気で笑顔の仮面を被る。

 見苦しく泣き叫んでいる私をそっと閉じ込めて、笑う。

「こんばんは」

 私はその子に声をかけた。

 近くに住んでいるのだろうか。

 コンビニにでも行く途中なのか、完全な手ぶらだ。

 男の子は、何も答えない。

 その子の癖のない黒髪が、風に吹かれて揺れる。

 何だろう。

 影が動いた気がして、ふとその子の足元に目が行った。

 猫だ。

 少年の足元で、茶トラの猫が金色の瞳を光らせている。

 ぴーちゃんと長く一緒にいたせいか、猫はあまり好きではない。

 この子の猫なのだろうか。

 けれど男の子は、まるで猫なんていないかのようにただ私を見ている。

 何か、とても深くて暗い瞳。

 夜の海みたいに、虚ろで得体が知れない。

 途端に、私は怖くなった。

 この子は一体何だろう。

 何で私を見ているんだろう。

 まさか、危ない子なのだろうか。

 男の子が一歩、足を踏み出した。

 私は足を縫い留められたように立ち竦んでいる。

 小さく揺れるブランコがひざ裏に当って、それでも私は動けない。

 男の子は真っ直ぐ、こちらへ歩いて来る。

 こういう時、どうすればいいんだっけ?

 先生になってそれなりに経験を積んだはずなのに、どうするべきなのか判らない。

 警察。学校。親。

 そうだ、連絡を。

 途切れ途切れの思考を遮るように、男の子の足元で、猫が一声鳴いた。

 長く、細く。

 鳴き声のような、泣き声のような。


「アキちゃん」


 声の終わりに、名前を呼ばれた。

 その子は、はっきりと私に向かってそう言った。

 何故、名前を。

「アキちゃん、おかえり」

 頭が真っ白になる。

 アキちゃん、おかえり。

 何で?

 男の子は、震えている私に不思議そうに首を傾げた。

 どこかで見たことのある仕草。

 懐かしい挙動だった。

「アキちゃん、ごめんね。待っていられなくて、ごめんね」

 男の子の瞳は、何かを訴えるような夜の色をしている。

 さっきの暗い瞳が嘘のように、感情の何もかもを映す瞳。

 私は。

 ああ、この瞳を私は知っている。

「…ぴーちゃん?」

 首を傾げて私を見上げるぴーちゃん。

 アキちゃん、と呼ぶ時の瞳。

「ぴーちゃんなの?」

 掠れた私の声に、男の子はこくんと頷いた。

 そんなはずないと、声もなく叫んだ。

 そんなことあるはずがない。

 夢を見ているんだ。

 からかわれているんだ。

 でも、それならそれで良かった。

 夢で良い。

 嘘で良い。

 目の前に立っているこの子が、ぴーちゃんなんだと、信じたかった。

 奇跡みたいに、途方もない断絶を越えて逢いに来てくれたんだ。

 私に、逢いに来てくれたんだ。

「ぴーちゃん、ごめんね」

 咽喉に絡まる言葉を、何とか形にする。

 ぴーちゃんを、あの暗い部屋でひとりぼっちで死なせてしまった。

 傍にいてあげたかったのに。

 あっという間に、視界が滲んだ。

 外灯のオレンジ色が、綺麗に溢れて零れた。

「ごめんね。辛かったよね、苦しかったよね」

 後から後から落ちていく雫を、何度も袖口で拭った。

 一瞬でも眼を逸らしたら、ぴーちゃんはどこかに行ってしまうと思った。

 嘘か、奇跡か。

 どちらでも終わらないで欲しくて、言葉を繋ぐ。

「ごめんね。見送ってあげたかったのに」

 傍にいて、この手でそっと君を包んで、大丈夫だよと言ってあげたかったのに。

 ここにいるよ、大丈夫だよと、何も出来なくてもただ傍にいたかったのに。

 そうやって、甘えん坊な君とお別れしたかったのに。

「…ごめんね」

 男の子は、ぴーちゃんはゆっくりと首を振った。

「辛くなかったよ。苦しくなかったよ」

 外灯に照らされて、男の子の影が長く伸びている。

「アキちゃん、大好き」

 ふんわりと、その子は笑った。

「一緒の時間、幸せだったよ。アキちゃんと一緒で、幸せだったよ」

 飲み込んだ何かが胸を熱くする。

 ぴーちゃん。

 ぴーちゃん、私も、幸せだったよ。

 溢れるほどの優しい気持ちを、愛おしい気持ちを、君が私にくれたんだよ。

 ぴーちゃんは、何もかも解っているみたいに頷く。

「ありがとう、アキちゃん」

 その言葉を、ずっと憶えていようと思った。

 ぴーちゃんは、「遊んで」と言いたげな瞳に私を映している。

 いつものように。初めて逢った時のように。

「アキちゃん、おかえり」

「ただいま。ただいま、ぴーちゃん」

 私の、小さな家族。

 ああ、何て。

 男の子の足元で、猫が長く鳴いた。


 ぱちりと、スイッチを切ったみたいだった。

 その瞬間に、男の子はびくりと跳ねて、怯えたように私を見た。

 呆気に取られる私を残して、男の子は後ずさりをして走り去ってしまう。

 本当に、一瞬のことだった。

 待って。

 どういうことなの?

 君はぴーちゃんじゃないの?

 けれどヒールを履いた二十七歳の私が追いつける速さではなかった。

 男の子を見失った私は茫然としながら、終わったんだと理解した。

 もう夢から覚めたんだ。

 そう、帰ろう。

 熱い頬に涙が冷たくて、鼻を啜りながら歩く。

 顔見知りに会わないと良いな、なんて思いながらアパートの廊下を、ヒールを鳴らして歩いた。

 部屋はあの日と同じように真っ暗で、誰もいない。

 ただいま、と声を張った。

 弱い私を励ますように、強く。

 リビングの電気を点けて、鞄をソファに放り投げテレビを点ける。

 小さなテレビから、誰かの笑い声が響いた。

 誰もおかえりと言ってくれないけれど、でも。

 もう、いいんだ。

 ちゃんと、お別れをやり直したのだから。

 リビングの隅に置いたままにしてあったぴーちゃんの籠。

 ぴーちゃんが齧った止まり木、ぴーちゃんが食べていたご飯。

 ぴーちゃんは、確かにここにいた。

 私はからっぽの籠を、胸に抱いて。

 そして、泣いた。

 大人の女だけど、先生だけど、こういう日が来るって覚悟してたけど。

 でも、もう我慢なんてしない。

 ねぇ、ぴーちゃん。

 ここにいて欲しかったんだよ。

 もっと、ずっと。

 アキちゃん、って呼んで欲しかった。

 傍で、ただ生きていて欲しかった。

 それ以上願うことなんて、何もなかったのに。

 子どもみたいに泣きじゃくって、ぴーちゃんを呼ぶ。

 泣き過ぎて苦しくなって来て、でも。

 それは私が前に進むために、必要なことだった。

 泣いて、泣いて、泣き疲れて眠って、翌日目を真っ赤に腫らして律儀に出勤した。

 胸を張って、ヒールを鳴らして。

 色んな先生が気遣うように優しく声を掛けてくれたが、私はむしろ清々しく挨拶を返した。

「栗原先生、おはようございます」

「あ、おはようございます」

 向かいの男性教諭が声を掛けて来た。

 彼も一瞬、私の顔を見て驚く。

「やっぱり酷い顔ですか? でも、あんまり気にしないで下さいね」

 笑いながら言うと、彼は光る頭を自分でぺしぺしと叩いて「そうですか」と口籠った。

 私はノートパソコンを開き、電源を入れる。

「栗原先生、あのー」

「はい?」

 顔を上げると、彼は困ったように目尻を下げていた。

 情けない表情で幾度か「あのー」と繰り返して、彼はようやく言った。

「よう判りませんが、元気、出してください。人生、色々あるもんです」

 私は微笑んだ。

 アキちゃん、大好き。

 職員室の白い天井を見上げて、私は息を吸う。

 深く、深く。

「ありがとうございます。でも、もう大丈夫です」



 ねぇ、ぴーちゃん。

 巡り合って、一緒に過ごした。

 それを君は、「幸せ」と言ってくれた。

 手を伸ばしても、君にはもう届かないけれど。

 この手に君は、確かに「幸せ」を残してくれたんだよね。

 ノートパソコンの中から、ぴーちゃんはきらきらした眼で私を見上げていた。





 *


 走った。

 走って、走って、白い灯りの点いた公衆トイレに駆け込んで、吐いた。

 便座に手をついて、盛大に。

 これ、間に合わなかったら大惨事だったなぁと、どうでもいいことを思った。

「情けないな。でもまあ、初めてにしては上出来か」

 溜息混じりの渋い声に、俺は振り返る。

 妙に色気のある声。一音一音が響く、芝居がかった喋り方。

 そこにいたのは、勿論ミケだ。

 そう、ミケ。

「どうだ、結。これでわかっただろう」

 わからない。

 わかりたくない。

 込み上げて来た嘔吐感に、俺はまた便器と向き合った。




 ミケが喋り出したのは、入学式の夜。

 そう、足の小指を噛まれたあの日の深夜だった。

 息苦しくて眼を覚ますと、ミケが行儀良く俺の胸の上に座っていた。

 俺の顔を覗き込むように頭を下げていたミケの口元が動く。

 結、起きろ。話がある。

 そして滔々と何事かを語り出したミケを見て、「この夢リアルだなぁ」と俺は笑った。

 うん、ちゃんとミケの鬚が揺れている。

 大したもんだ。

 当り前だが、ミケの話は全然聞いていなかった。

 ミケはふっと話を止め、「真面目に聞け」と一喝して鋭い爪を出した。

 手の甲を引っ掻かれた俺は、そこでようやく事態の異常性に気付いたのだ。

 その傷は、今も薄らと残っている。

 つまり、夢なんかじゃなかったということで。

 ミケ曰く、俺のじいちゃんは動物の幽霊を見ることが出来て、その力で動物の霊を身体に降ろし人との交信を手伝って来たのだと言う。

 重要なことだから繰り返すけど、じいちゃんは「動物限定霊媒師」だったってことだ。

 え、それ何のファンタジー?

 しかもこう、大変残念なことに展開が読めるのですが。

 あれですよね。

 じいちゃんが死んだから、俺に後継者になれって話ですよね?

「そうだ。今日からお前があいつの代わりに力を行使するんだ」

 ほら来た。

 そりゃあ、「他人には出来ないことをしたい」とか、「魔法とか使ってみたい」とか、思ったことはある。けど、そういうのはもう卒業した。

 むしろ。

「俺、幽霊とか駄目だから丁重にお断りします」

 俺はしっかりはっきりそう言った。

 ミケと一緒に宅配便とかだったら、また考えるけど。

 正直、霊媒師はない。

 俺は幽霊に関しては信条があるのだ。

 俺は面白半分に肝試しもしない。

 怖い話をして楽しんだりしない。

 だから、「そちら」も俺には関わらないでくれ。

 だってうっかり見ちゃったり、憑かれちゃったりしたら、それこそ日常生活に支障を来す。

 ぶっちゃけると、怖い。

 絶対、嫌だ。

 けれどミケは金色の瞳を光らせて、残酷に宣告した。

「もう決まったことだ。お前に拒否権はない」

「何だそれ! 職業選択の自由は!?」

「ボランティアだ。金は取らん」

 おおう、そういう問題じゃねぇよ。

 大体、「動物」限定って何?

 そこは普通「人間」なんじゃないの?

 ミケは澄ました顔で「そんなことは知らん」と言い切った。

「持って生まれた力、環境、それが作用した結果だ。難しいことは考えるな」

 おいおい、難しいこと言ってんのそっちだろ。

 力とか、環境とか、それっぽいこと言ってるけど、理不尽極まりない。

 しかも勝手に説明だけして、拒否権がない?

 これは、俺の人生なのに。

 魔法はともかく、「動物」の霊を身体に降ろしたいなんて一度として思ったことはない。

 じいちゃんから前もって説明があったならともかく、忘れ形見のミケの頼みでも聞けないものは聞けない。

 動物限定霊媒師だか何だか知らないけど、お役目は他に回してくれ。

「残念だが、私と会話が出来ている時点で、お前の力は既に目覚めている」

 ミケの格好良い台詞を俺はベッドの上で、寝間着のスウェット姿で聞いた。

 こんなテンションの下がる「覚醒宣告」シーンは初めてだ。

 何だろうこのがっかり感。

「…もうどんなに願っても、普通の生活には戻れないだろう」

 悲哀を含んだ声が、鼓膜を打って。

 でも理解が追いつかなかった。

 はぁ、何言っちゃってんだ。ミケ。

 ていうかミケ、俺より言語能力ある。

 じいちゃんが教えたのか、はたまた流行りの外国語習得CDのように聞き流して覚えたのか。

 見当違いな思考で逃避を謀る俺に、ミケがとどめを刺した。

「習うより慣れろ、だ。既に対象は見繕ってある。明日は早く帰って来いよ」




 そして、今に至る。

 俺の記憶はというと、ミケに連れられて女の人を遠くから窺った辺りまでで途切れている。

 その人は暗くなった公園のブランコに腰掛けて、俯いていた。

 強烈な違和感があった。

 女の人の肩に、セキセイインコがとまっていたからだ。

 犬や猫ならともかく、セキセイインコを肩に乗せて散歩なんてしないだろう。

 女の人の顔を覗き込むようにしていたその鳥が、こちらを見た。

 遠かったし、女の人の表情すら良くは判らなかったというのに。

 あ、何か言いたそう。

 何故か、そう思った。

 そしてそう感じた瞬間には、金縛りにあったように身体が動かなくなった。

 ミケの鳴き声が長く響いて、急速に意識が遠のいた。

 眠りに落ちるその瞬間が、ずっと続いているみたいなそんな感じだった。

 どれくらいの間、そうだったのかはっきりしないけれど。

 我に返った時には目の前に女の人がいて、その人が泣いていたから、半ばパニックに陥って走って逃げた。

 女の人の肩にいたセキセイインコは、もういなかった。

 動物の霊を、身体に降ろす。

 ミケが言っていたことが、「本当」のはずが。

 頭痛と吐き気と、物凄い恐怖に襲われて、俺はトイレまで走って逃げたというわけだ。

 出すものがなくなった俺は、便器に蓋をしてその上に腰掛けた。

 酷く平和に水が流れて行く音がする。

 一瞬、訳のわからない苛立ちが胃の辺りに湧き上がった。

 でもそれを爆発させるだけの体力が、残っていない。

「慣れれば負担も減る。数日の間には次の対象を探しておこう」

「…勘弁してくれよ。何で俺がこんなことしなきゃいけないわけ?」

 泣きそうになりながら、俺はミケを睨んだ。

 しかも、これで「ボランティア」?

 俺、一人損じゃんか。

「お前のためでもある」

 ミケは静かに言った。

「力を発現したお前は、これからあらゆる霊と遭遇することになる」

「…………」

 ああ何それ、嬉しくない出会いの予感。

「強い意志を宿した霊は、お前の力に惹かれて唐突に身体に飛び込んでくることがある。私の介入なしで霊を降ろすことは、危険だ」

「え、と…、つまり?」

 理解力なくて、すみません。

 ミケはじっと俺を見上げる。

「先程のようなことが、もっと負担のかかる形で唐突に起こり得る。と、いうことだ」

 先程のようなことが?

 唐突に?

「はぁッ!?」

 それ、冗談じゃなく、精神崩壊すると思う。

 俺を安心させるためか、ミケが間を置かずに続ける。

「それだけの力がお前にはある。その事態を避けるためにも、先程のような『ボランティア』を繰り返し、経験を積んで行く必要があるのだ」

「………レベルアップしろってこと?」

「れべる、あっぷ?」

 ミケは首を傾げて、いやと否定する。

「獣の霊がお前の身体を『通過』すると、お前の中に霊的な力が少しだけ残る。その力を、お前は自身を守るために使えるのだ。しっかりと力を溜めれば無用な憑依も完全に防ぐことが出来る」

 殆どレベルアップシステムと一緒じゃん。

 さっきみたいな『ボランティア』をして、力を集めろってことだろ。

「ちなみに、雄治郎、お前の祖父は、その力を『AP』と呼んでいた」

「まんま、RPGじゃんか!」

「『ありがとうのパワー』の略だそうだ」

「だっせぇッ!」

 結は1APを手に入れた!

 しょんぼりなリザルト画面が脳裏を過ぎって、満身創痍の俺は項垂れる。



 ことの始まりはそう、ミケが喋り出したことだった。





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