ことのはじまり
「原田結」
先生、「ゆう」です。
高校一年の春。
俺は何度繰り返したかわからない訂正の一言を付け加えて、これからクラスメイトになる二十数名に頭を下げて席に座った。
「あー、すみませんすみません、結くんですねー」
のんびりした口調の割に勇ましいスキンヘッドの教師が、髪もないのに頭を掻いた。
いいですけど。
これで中学の時と同じように「ゆいちゃん」ってからかわれることになったら、俺は心の中で先生のことを、親しみを込めて「うっかりハゲ」と呼ぶことにしますから。
うっかりハゲは陽光に輝くスキンヘッドに手を置いたまま、「次」と俺の後ろに目をやる。
「春野美咲」
はい、と緊張した声で答えて、呼ばれた女子生徒が椅子を引いて立ち上がる。
入学式後のHRは期待と緊張と不安が入り混じってただ淡々と進んでいく。
新しい学校、はたまた新しいクラスになるたびに繰り返される自己紹介。
決まって出席簿を読み上げる担任は、俺を「ゆい」と呼ぶ。
そしてお約束のように、それから俺のあだ名は「ゆいちゃん」になるのだ。
小学校、中学校と続いたから、もういいけど。
うん。別にいいけど。
せめて高校では、そんなことはないと信じたい。
俺は教室の窓から、誰もいない校庭を眺めて溜息を吐く。
見計らったように満開の桜が、入学式を見届けてのんびり散り始めていた。
夕飯は、カレーだった。
しかもちょっと豪華に手羽元が入っている、母さん特製のチキンカレーだ。
「また、『ゆい』って呼ばれたんだけど」
晩酌中の父さんのつまみを手早く攫って、俺は恨みがましく言った。
母さんはエプロンで手を拭きながら、「そんな変な名前じゃないでしょー」と反論をする。
発泡酒片手にほろ酔いの父さんも、「そうだそうだ」と母さんに加勢した。
入学式の後、クラス替えの後は、いつもこんな会話が繰り広げられる。
俺はカレーを掻き込んだ。
うん、美味しい。
「『銀児郎』とか、『緋露』とかがいいかなって思ってたんだけど、おじいちゃんに聞いたら『結』にしろ、『結』が良いって。おじいちゃんがつけてくれたのよ?」
「…その意味では、じいちゃんには感謝してもし切れない」
銀児郎って何だ。緋露って何だ。
俺は危うく、そんな痛々しい名前を背負うところだったんかい。
大体「原田銀児郎」「原田緋露」って、名前が重過ぎて名字が可哀そうだろ。
父さんと母さんは目配せをし合って、「だって、ねぇ」と反省の欠片もない。
生後数日で迎えた人生最初の危機。その危機から俺を救ってくれたのが、母さんの父さん。
つまり俺のじいちゃんだ。
じいちゃんは、一人息子の命名に際して中二病を発病した夫婦を諌め、俺に「結」という名前をくれた。
俺が「ゆいちゃん」程度で悩むに留まっているのは、ひとえにじいちゃんのお陰だ。
いつもにこにこして、でも言うことははっきり言うじいちゃん。
たった一人の孫である俺を、とても大事にしてくれた。
そのじいちゃんが死んだのが、ちょうど二ヵ月前。
東京にも雪が降った、酷く寒い日だった。
思わず、カレーを掬う手が止まる。
「…………」
父さんが発泡酒を置いて、「義父さんらしいお別れだったなぁ」としみじみ言った。
近所の友だちと呑んでいて、突然胸が痛いと言って倒れ、それっきり。
もう九十歳に近かったから、大往生というやつなのだろう。
「本当に。お父さんったらピンコロ有言実行なんて、娘の身にもなって欲しいわ」
そう言って母さんは肩を竦める。
母さんの母さんは早くに亡くなっていて、母さんはじいちゃんの男手一つで育った。
だから、どんなに明るくちゃかしても、母さんの声はまだ震える。
俺だって同じ。
まだ、じいちゃんがいなくなったことをちゃんと納得出来ていない。
日本中、世界中を本気で探したら、どっかにじいちゃんはいるじゃないかって気がする。
命名のお礼だってちゃんとしてないし。
今年の夏も、じいちゃんの家に遊びに行くと約束してたんだから。
咽喉の奥が痛くなる。
じいちゃん家の、古い畳の、木の匂いが、ふっと鼻先を掠めたような気がした。
俺は、それを捕まえるように息を吸い込む。
みゃぁ。
存在を主張するように、テーブルの下で唐突に猫が鳴いた。
「お、ミケ、どうした? チータラ食うか?」
父さんが千切ったつまみを放った。
ミケ。
じいちゃんが飼っていた、茶トラの雄。
あの広い家にじいちゃんと二人で住んでいた。
ミケは意外にもつまみには目もくれず、俺の足にすり寄った。
「…ミケもやっぱり寂しいのかしらね」
「かもなぁ…」
父さんも母さんも動物は嫌いではないのに、寧ろ好きな方なのに、何故か今までペットを飼ったことはなかった。
だから、ミケが初めてのペットだ。
まるで見越したようにペット可のマンションに住んでいたため、じいちゃんの家から連れて来た。
ミケはじいちゃんがいないことも、長く住んでいた家を離れることも、全部判っているみたいに抵抗しなかった。
気難しいのかあんまりべたべたはさせて貰えないけれど、父さんにも母さんにも、もちろん俺にもそれなりに懐いてくれている。
もしかするとミケも結構な年で、そう長く一緒にはいられないのかもしれないけど。
それでも俺は、ミケが家族になったことが嬉しかった。
じいちゃんの大事なミケを、最期までちゃんと大切にしたいと思う。
屈んでテーブルの下に手を伸ばすのは辛いので、足の裏でそっとミケの頭を撫でる。
ミケは、大人しくしている。
小さくてあたたかい頭は、されるがままに揺れる。
「…ミケってさ、三毛猫じゃないのに『ミケ』なんだ。じいちゃんが付けたのかな。ちょっと違和感あるよな」
笑った瞬間に、大人しくしていたはずのミケが足の小指を噛んだ。
「痛ッ!」
俺は飛び上がって小指を見たが、血は出ていなかった。
血は出なかったけれど、涙が出そうなほど痛かった。
「お、ミケ怒ったのか? 凄いなぁ、ちゃんと判ってるんじゃないか」
父さんが楽しげに笑って、母さんが慌てて消毒液を探しに立ち上がる。
ミケは悠々とテーブルの下から出て来て、俺をちらりと見ると、ぴんと立てた尻尾をかすかに振った。