蛇の臥せる地にて・一
薄闇の奥に、帳の天辺まで続いた丸太の柱が見える。それから、張り巡らされた注連縄。たぶんあれが僕の身体をこの場へと縛り付けているのだろう。文字通りの意味か、或いは呪いの類なのか。両方なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。まともに身体を動かせない今となってはどちらでも構わないのだけれど。
引く気配の無い高熱と、耐えることのない全身の痛みと、おそらくはそれらによる息苦しさで感覚がおかしい。今が夏なのか冬なのかすら解らない。ついこの間までは毎日絶やすことなく戦に明け暮れていたというのに、もう最後に見た空がどんな色だったのかも思い出せない。腐り落ちかけた両腕の切り口や、身体のあちこちにある古傷から滴る血膿やら溶けた肉やらのべたつき。それらを食らうために沸いてきた虫が這いずり回る不快な感覚。垂れ流しになった糞尿がまとわり付いて悪臭を撒き散らす。それら全て、今の僕にはどうしようもない。何せ時折常時ではあり得ない力で四肢が暴れ出す所為で、脚も背骨も在らぬ方向に折れ曲がってしまっているのだ。こんな身体では、もう二度と走ることも剣を握ることも叶わないだろう。
(これが、怨嗟というものなのか)
痛みと熱と息苦しさで混濁した意識の中、ふとそんなことを思った。怨みが、この身体を蝕んだ結果が今の僕のこの状況なのか。そしてそれは何に対する怨みなのか。産まれてこのかた儘ならぬことばかりだった生涯そのものか……或いは、僕が恋した地を奪おうとした、あの天上から来たと自称する忌々しい神々に対する怨みなのか。
(どちらにせよ、武人としてはあまりにも無様だ)
自嘲がこみ上げてきたけれど、どうやら四肢どころか首筋から顔すらもまともに動かせなくなっているらしく、それを表に出すことは出来なかった。
仕方がないので、僕はこの際何も考えずに、激痛と熱と不快感に身を委ねることにした。このまま気を違えてしまうのも悪くない、なんてことを思い浮かべながら。
そうして僕が先ず垣間見たのは、幼き日を過ごした母の故郷の事だった。
母の故郷と言っても、記憶の中では肝心な母の顔は朧気にしか残されていない。僕の母は、その地を統べる部族の長の娘であり、姫巫女という身分の持ち主であった。双生児であった僕と妹を産んだ後は、村はずれの粗末な小屋でほぼ寝たきりで三年程の余生を過ごした後、眠るように亡くなった。
父ははるか西方の大国を統べる王だという話は早くから耳にしていた。何故母を妃として迎えなかったのかというと、彼女はもともと身体が弱かった上に、子を身籠もっていることが判ったのが思いの外早かったからだ。体調やら何やらを鑑みるに、身持ちの状態ではるか西方、八雲立つ国迄の遠い道程を往くのは母子共々危ないと判断したのだろう。或いは、姫巫女の空位を恐れた部族の者たちが強行手段を以って反対したのかもしれない。それが母にとっては正しい判断だったのか、そして彼女の生涯が果たして幸福なものだったか否かは、今となっては知る由も無い。
ともかく僕と妹は父無し子だったために、母の兄、つまりは伯父に当たる男に引き取られ育てられた。従兄弟や伯父の親族の者たちからは余所の子扱いされたりもしたが、伯父は表面上、僕等兄妹を我が子同然に大切にしてくれた。僕は従兄弟達と衣食住を同じくし、彼等と違わぬ教育と鍛錬を施された。妹も豪奢な召し物や装身具を与えられ、箱入り娘として、次代の姫巫女として大切にされていた。「大切にされていた」というのは、あくまでも表面上の話だが。
自分で言うのもなんだが、僕は「狩り」や「武」に関しては誰にも引けを取らなかった。七つの時に大人達と共に出かけた山狩りでは、一撃で向こう岸の野うさぎを弓で仕留めた。九つの時にはひとの急所の位置や、攻撃からの身のかわし方、受け流し方は大体身体が覚えていた。十三を満たずして、部族内の武術の師からは「お前にはもう何も教えることはない」と言われた。
そうして大人達は僕のことを口先では「神童」と褒めそやした。口先では、というのは、たとえば従兄弟達は僕よりも手柄が少なくてもより多くの褒美を受け取っていたり、部族の中で将来の地位を約束されていたのを影では知っていたからだ。要するに、僕は大人達からは正当に評価されていなかった。
従兄弟をはじめとする同年代の者たちからはいつも妬ましげな目で見られ、大人達の目に入らぬ所で陰湿な嫌がらせを受けたこともあった。自分より遙かに格下の奴等に莫迦にされるのは不快でならなかったけれど、それもまた実力の裏返し。結局は僕に正面からやりあって勝てないあいつらが無能だし、無能は悪だと考えることで日々をやり過ごしていた。
勿論その考え方が自分自身にどう跳ね返ってくるかも理解していた。だから、狩りと武術だけでは駄目なのならば、と、決して得意ではなかった座学や歌詠みに関しても、少しでも自分の出来うることを伸ばそうと寝食を惜しんで努力した。すべては皆に、僕のことを認めてもらうために。皆が認めてくれるような、立派なひとになるために。
――御名、それから美保。貴方達のお父様はね、ここからずっと西方にある『八雲立つ国』の立派な王様なの。貴方達には、誰よりも尊い血が流れているのよ。
遠い記憶。幼い頃に僕と妹に手向けられた、今は亡き母の言葉。そう、僕には誰よりも尊い血が流れている。その血に恥じぬ立派なひとにならねば……そうやって己を奮い立たせ、一心不乱に、前だけを向いて走り続けた。
その道が断たれたのは、確か十四、五の頃だったか。他部族との戦の勝利を称える宴の席だった。僕はこの類の席が嫌いだったので(一番の理由は、自分の手柄だけ適当に受け流されることが見え透いていたからだ)、打ち身が痛むとか疲れたとか理由を付けて早々に切り上げた。その場をさっさと立ち去るつもりだったのだが、僕が彼等の視界から外れたとき、酔った伯父が口を滑らせたのが聞こえてしまったのだ。
――ちっ、本当に嫌なガキだな。まぁ、聞いてくれや。うちの倅が揃って腑抜けになっちまったのはどうしてだと思う?ひとえにあいつが優秀すぎるのがいけねぇんだ。
――よせよ、もし聞こえていたらどうするんだ。……ま、俺も同感だがな。若い連中は揃いも揃って『御名には勝てねぇ』なんて言い出しやがるしなぁ。
――ったく、奴奈も困った種を遺してくれたものだ。可愛い妹の子とは言え、こちとら倅たちと適当に張り合って士気さえ高めてくれればそれで良かったんだがな。とんだ計算違いだ。
――確かに、いくら優秀であっても父方の血が異国の者じゃあな。あいつをまともに立てたりなんかしたら、我が一族はあっというまにあいつの血に乗っ取られちまうだろうよ。
――男親の血が流れてなければ、幾ら優秀でも宝の持ち腐れだな。せいぜい雑兵として使い潰せるだけ使い潰すのが関の山ってところか。
――そりゃあ妙案だ。ま、あの性格だし、武に関して適当におだてておけば政に関わらせない良い口実にもなるだろう。下手に知恵なんざつけられちゃあ面倒臭いことになるぞ。
――全くだ。せめて女だったらこちらとしてはもう少し都合が良いんだが。遠い異国の血が流れる女ってのは、言わば上質な翡翠だ。我々が持てば良い財となる。他所に見せれば交易にも使えるしな。
――女と言えば、あいつにゃ妹がいたな。此度即位の儀の日取りが決まったと聞いたが。
僕は急いでその場を後にした。それ以降の会話は聞きたくもなかった。どうしようもなく辛いときいつもそうするように、河辺へ向かって脇目もふらずに走り出そうとした矢先、どん、と誰かにぶつかった。
「……痛ぁ。ご、ごめんなさいっ」
声の主は女だった。少し気弱そうなその声は、とっくの昔から聞き慣れている。
「いや、平気だよ。……こんなところで何をしてるんだ、美保」
型に嵌ったような「良い子」で、どちらかというとおっとりとした性分である僕の妹が夜に外を出歩くなんて、普段は考えられないことだった。
「別に、何かあったわけじゃあ無いわ。……ただ、何て言えば良いのかな。じっとしてるのが、怖くなったの」
「……そうか」
僕たち兄妹は正反対なようで、根底の部分では似たもの同士なのかも知れない。彼女が『じっとしているのが怖くなった』理由はだいたい察しが付いたし、僕も似たような心境の時は、意味無く野山や河辺を駆け回ることが度々あった。
僕たちは村の外れの河原まで行った。隣り合って膝を抱えて、その場に座り込む。河のせせらぎの音と、草いきれの匂い、それからひんやりとした夜風。それら全てが、今の僕には少し心地よかった。
「お前、姫巫女になると決めたのか」
「うん」
姫巫女に即位してしまえば世俗との関わりを絶たねばならず、神殿に篭りきりとなる。だからこんな風に美保と話が出来るのは、これが最後かもしれない。夜風に当たりながら僕と話をすることで少しは気が晴れてくれればいい……そんなことを思いながら美保の顔をちらと見遣ると、やはり彼女は浮かない顔をしていた。
「……でも、これでやっと皆の役に立てるわ。だから私、もう泣かないって決めたの」
あくまでも前向きさを失わない言葉。でも、声は少し震えている。無理を押して口にしているのは火を見るより明らかだった。美保もまた、僕と同じ苦しみを抱いているのだということがひしひしと伝わってくる。兄である僕が使い潰される道具なのに対して、妹である美保は言わば翡翠の原石。一見すると後者の方が遙かにましな扱いのように見えるけれど、それ自体が所詮「モノ」でしか無いしのはどちらも同じだ。
僕は兄として、どうすれば彼女を元気づけられるか少し考えてみたけれど、うまく言葉が出てこなかった。あぁ、やっぱり僕にはこういう事は向かない。でも何もしないのもなんだか許せなかったので、僕は美保の頭を撫でることにした。幼い頃、母にそうして貰ったように。
美保は何も言わずにただ膝を抱えて俯いていたけれど、少しずつ緊張が和らいでいるのが掌を通して伝わってきたので、僕は少し安堵した。
「……私ね」
暫しの沈黙の後、先に言葉を発したのは美保の方だった。
「兄さんが、羨ましかった」
「……羨ましい?どうして?」
思わず尋ねた。翡翠の原石は、磨けば玉になる。玉は時に神聖な宝物として珍重される。確かに同じ「モノ」とは言え、これまでもこれからも使い潰される道具であり続け、それ以上の存在には決してなれない僕を羨む要素が、果たして何処にあると言うのだろう。
「だって……兄さんは戦うための力も、何処までも走れる脚もあるでしょう」
美保は一息に言って、少し間をおいてから震える声で言葉を続けた。
「私は、どちらも、持って、ない……だから……」
言葉の最後は、震え声を通り越してしゃくりあげる声に変わっていた。さっきはもう泣かないと言った筈なのに、どうやら早くも駄目だったらしい。
「……そうか」
そのまま泣き続ける美保に対して僕がした事と言えば、片腕で抱き寄せて、背中をさするくらい。僕と彼女は兄妹だし、疚しさは一切ないとは言え清らかであるべき姫巫女を抱き寄せたと知られたりしたらきっと大目玉を食らうだろう。でも、そんなことはどうでもよかった。
(泣けばいいさ、好きなだけ)
意地悪でも皮肉でもなくそう思った。この時の僕にとってはただ一人の肉親が、自らの境遇を嘆き、涙を流してくれたことが嬉しかった。けれど同時に、どこか冷めた思いで彼女を見ていたのもまた事実だった。
(……でも、泣きたいのは僕も同じだ)
だって、『戦うための力』は本当のところは必要とされていない。『何処までも走れる脚』があっても何処に行けばいいのか解らない。
――美保、お前が今言ったことは、所詮は世間知らずな箱入り娘の無いものねだりでしかないんだ。
冷静に考えれば、そう結論付けて突き放すことだって出来ただろう。どうしてあの日、僕はそうしなかったのだろうか……いや、答えは既に出ている。僕自身もまた、狭い世界しか知らない子供に過ぎなかったからだ。生まれ育った村と、せいぜい戦の都度攻め入る近隣部族の村や集落が僕の世界の全てだった。
その「世界」が拓けたのは、それから一年ほど後の事。戦場か野山を駆けることしか知らず、擦り切れるまで使い潰される筈だった僕を拾い上げてくれた人がいた。彼と共に過ごした六年間は、少なくとも僕にとっては幸福な時間だったと思う。……それも結局永くは続かなかったのだから、今となっては思い返しても虚しいばかりなのだけれど。
そういえば、美保は今どうしているのだろうか。姫巫女としての役を全うしているか、或いは既に引退し、母として年長者として次代の姫巫女を育てているか。
僕は兄として、唯一の家族として、そのどちらかであって欲しいと心から願った。同時に、少なくとも僕のようにはならないで欲しい、とも。
――夢現を破ったのは、骨の砕ける音と、言葉にならない激痛。
それらがどこから発しているのか解らないし、確かめることすら出来ない。今の僕には叫ぶことも泣くことも、儘ならない。出来ることと言えば、役立たずの四肢で血膿と汚物の沼を這いずり回るか、臥せるかくらいか。
(それも悪くないかも、知れないな)
再び嗤えてきたけれどやはりそれは形にはならず、毀れるのは呻き声だけだった。
これ以上昔のことに思いを馳せても惨めになるだけならば、と、僕は再び病苦に身を委ねることにした。