七段目:進路
「ただいまー。」
「あっ、お兄ちゃんだ!おかえりー。」
妹の美沙がリビングから出てきた。
「透おかえり。吹奏楽やってきたの?」
母親の恵美子の声がキッチンから聞こえる。
「あぁ。」
「そっかぁー。お疲れさま。もうすぐご飯出来るから着替えてきなさい。後で話聞かせてね。」
透は2階にある自分の部屋へ向かった。
階段を登る足がなんとなく重い。
「疲れたぁー」
部屋着くと同時にベットへ飛び込んだ。
部活の後、舞と二人で近所の公園に行き約1時間ほどシンバルの練習の続きをしてきた。
なのに全く上達しなかった。
本当に、見た目以上に難しい。
サルには叩けないだろう。
『着替えなきゃ。制服シワになるよなぁ…』
分かってはいるが動く気がしない。
2時間くらいシンバルをやっただけなのに…。これごときでこんなにだるいなんて。
仰向けになり腕を上げた。
その腕にはしっかりと筋肉が付いている。
この3年間で腕は太く、逞しくなった。腕だけではない、身体全体が力強くなった。背も15センチも伸びた。
全部バスケの効果だろう。
なのにこんなに疲れるなんて…
『部活終わって体力落ちたかなぁ。』
ベットにいると眠気が襲ってきた。
『お兄ちゃんーご飯出来たよ―。』
うとっとしかけた時、階段の下から妹の声が聞こえてきた。
しぶしぶ着替え、リビングへ向かった。
「吹奏楽はどう?」
食卓に着くなり母が尋ねてきた。
「お兄ちゃん吹奏楽やるの!?」
美沙が目を丸くし驚く。
「お母さんびっくりしたのよ―。学校の先生から電話掛かってきたから透が何かやらかしたのかと思ったわ。」
「ひでぇ。」
「何の楽器やるの?先生は打楽器としか教えてくれなくて…。」
「シンバル。」
「へぇー目立つじゃない―。打楽器だから舞ちゃんと一緒なんでしょ?」
「そうだよ。」
『舞』という言葉にドキッとしてしまうが気にしない素振りをする。
「舞ちゃんはすごいわねぇ。勉強も出来るのに部活とピアノを両立してて。」
「両立しなくて悪かったね。」
「そんな事言って無いでしょ!」
一言一言甲高い母親の声がイライラを増加させる。
「何でそんなに苛ついているの?」
答える気がしない。
「お母さんが舞ちゃんばっかり誉めるからだよ―」
美沙が笑いながら言った。
「ばか。ちげーよ。」
透はキッパリと否定した。
ただ、舞の話を家族でしたくないのは確かだった。
「やってみてどうなの?楽しい?」
「まだ分かんないよ。今日始めたばっかりだし。ただ楽しくなる事は無いと思う。」
「透疲れてるでしょ?」
「別に。」
「顔に出てるわよ。それに透は疲れると怒りっぽくなるからすぐ分かっちゃう。」
返す言葉が無かった。美沙が笑う。
「そうそう、進路調査の紙、明日提出でしょ?」
「そーいえば。」
すっかり忘れていた。
「どうするの?」
「まだ決めてない。」
「唯野高校の推薦はどうなの?」
「何で知ってんの!?」
母には全く話して無かったのだった。
「昨日のPTA集会で慎ちゃんのお母さんに聞いたの。慎ちゃんは唯野行くんでしょ?」
「そう言ってた。」
「何で推薦の話してくれなかったの?とっても良いお話なのに。」
「本気でそう思ってんの?てか唯野行く気は無いから。だから推薦の話もしなかった。」
母は黙りこんだ。
美沙は気まずいのか、テレビに夢中なフリをし、黙々とご飯を食べている。
「…お父さんの事気にしてるの?」
母が重い口を開いた。
「約束だから。卒業したらこの家は出てくよ。」
「だから何回も言ってるじゃない、お父さんとは話をつけて、お母さんがずっと2人とも育てるって!!」
「慰謝料貰って無いんだから大変でしょ。それに父さんだって寂しいだろうし。」
ちょっと前までの笑いがあった食卓は遠い昔のようになってしまった。
父と母は一昨年離婚した。
元々出張が多かった父はほとんど家には居なかった。
そのすれ違いと、仕事しか頭に無かった父に耐えきれず、母の方から別れてと言ったのだった。
慰謝料は請求しなかったが、父は出張が多いということから家は母の財産となった。
その時、子どもの親権問題が浮かび上がった。
父も親権を強く求めた。しかし、透は転校したくないという理由で、美沙はまだ母親の存在が必要だろうという理由で母と住む事に決めたのだった。
透は、親権が決まった時の父の寂しそうな顔が忘れられなかった。
そこで、中学を卒業したら父の元へ行くと約束したのだった。
母は未だに猛反対をしているが…。
「お父さんと一緒に住む事にしたら唯野高校はもっと遠くなって行けなくなるわよ。」
「だから、唯野は行かないって。っていうか私立は行かないから。進路調査は宮沢先生に理由を話して延期してもらうよ。どうせいつかは話さなきゃだし。」
「透…」
「やっぱ俺疲れてるわ。母さんの言う通りなんか怒りっぽいし。ちょっと休んでくる。」
透は部屋へ戻った。
家に帰って来た時と同じようにベットに飛び込んだ。
透的にはどっちの親と暮らしたいなどの思いは無い。
自分をピアニストにしたかった母。
そのスパルタな指導から救ってくれ、一緒にバスケをやってくれた父。
色々言いつつ、今はバスケをする自分を応援し、栄養のとれた食事を作ってくれる母。
二人とも大事な親だから…。
壁に掛かっているユニフォームを見つめる。
本当は、本当は…唯野へ行きたい。
唯野へ行って慎と共にバスケ部へ入りたい。
でも、父の家はこの家から電車で一時間以上掛かる。つまり唯野まで二時間程掛かるのだ。
部活をして片道2時間もかかるのは…しかも男2人での生活。難しいだろう。
そして何より唯野は私立高校。
母と暮らす事にしたら間違いなく私立なんか行けない。
つまり、どっちの親と暮らすにせよ唯野へは行けないのだ。
『唯野じゃなくったってバスケは出来る。』
何度こう考えたことだろう。
でも、どうせやるなら憧れの唯野へ行きたいと考えてしまう…。
自分の高校生活の想像が全くつかず、考える度呆然としてしまう。
吹奏楽の練習疲れもあってか、考えている間に眠っていた。