五百四十一番槍 ヒ。日野江の暴政について
今回の逸話はちょっと長めです。
父から子に受け継がれていく感じがします。
…ものは言い用です。
大坂の陣が終わり、世は天下泰平。
激しく続いた乱世も終わりを迎えた時、肥前国日野江に赴任したのが松倉重政、勝家親子であった。
「今度の殿様は大和国で商業を発展させた名君らしい!ここもどんどん都会になっていくのかもしれんのう!」
農民たちはこの親子が赴任することを楽しみにしていた。
「さて、勝家。新しい土地に来たらまず何をするかわかるか?検地だ検地」
重政はそういうと、領内の検地に取り掛かった。
検地を行うことで、領内の生産力を測ることができ、ひいては国力がわかるのだ。
「父上?検地って決められたやり方がありましたよね?こんなくっそ適当でいいんすか?」
「あ?いいのいいの。ちょっと高めに報告しておくくらいが丁度いいんだわ」
「さっすが父上!」
この時重政は、独自のやり方で検地を行った。
「ん~…。大体10万石くらいかな。うん。10万石!風が語りかけてくるからわかる。うちの領内の石高は10万石!」
「なんと!そんなにも収穫量があるのですね!さっすが父上!」
重政は10万石だと言っているが、実際のところは4万3000石程度しかなく、倍以上の乖離があった。
「そんな10万石の大大名であるこの私に相応しい城建てまーす。外は漆喰で固めたデカい城よ!」
この時重政が築城したのが島原城。
4万石の大名にはどう見ても部不相応な超立派な城だった。
「これは大大名に相応しいですね!父上!でもそんな資金どうやって集めるんです?」
「金なんていくらでも手に入るものよ。まぁ見とけって」
勝家は不思議そうな顔で重政を見た。
「はーい領内のみなさーん。城建てるのにすげー金かかるから増税しまーす。でもみんなすっごい石高あるから大丈夫だよね」
重政はガバガバ石高計算によって算出された石高をもとに、領民から税金を巻き上げた。
本来よりずっと高い生産量で計算されているため、税金は重くのしかかる。
「すっげーー!さっすが父上!」
「そうだろうそうだろう。さて、やはり大名たるもの徳川家とは仲良くしておかねばなるまい。丁度江戸城普請の案内が来ているからここで忠誠を示そう」
「でもどうやって?」
「いいから見とけって」
そういうと、重政はすぐに時の将軍、徳川家光のもとへと駆けつけた。
「江戸城普請ですが、当家は10万石の大名なのでたくさん仕事を請け負います」
家光にそう打診し、明らかに部不相応な量の仕事を受注した。
「でも父上?そんなお金どこから」
「いいから見とけって」
そう言うと、重政は領内に再び命を出す。
「はーい領内のみなさーん。江戸城の普請と参勤交代ですっごい出費してるので増税しまーす」
またしても領民に負担を強いたのだった。
そんな内政を行いつつ、幕府には良い顔を見せていた重政だったが、江戸城内にて家光からキリシタン対策について叱責されていた。
「お前のとこ、キリシタンこっそり逃がしてるだろ。知ってんだぞ。もっと厳しく取り締まれ」
「かしこまりました。今後はもっと厳しく致します」
そんなわけで、帰宅した重政は早速キリシタンの取り締まりを始めた。
そのやり方は苛烈を極めた。
領内に潜伏するキリシタンを見つけては、顔に「吉利支丹」の文字が刻まれるよう焼き印を押した。
ある時は指を切り落として棄教を迫り、ある時は雲仙温泉の煮えたぎる源泉にキリシタンを浸けたとオランダ人やポルトガル人によって記録されている。
「さて勝家よ。キリシタンどもの本拠地はどこだと思う?」
重政の問いに、勝家は答える。
「ルソン…ですか?」
「そう。これからルソンを攻め落とすぞ」
「でも海外に攻め入るなんてお金がかかるんじゃ…」
「心配すんな。いいから見とけって」
そういうと重政はいつものように領民に命令を出す。
「領民のみなさーん。ルソンを攻めるのに金がかかるから増税しまーす」
またもや増税。
この金で鉄砲と弓を3000丁ほどこしらえた重政は、いよいよルソンに攻め入ろうとした。
その時だった。
小浜温泉に行った重政は突如として命を落とした。
病死とも暗殺とも言われるその死により、ルソン攻めは中止となった。
その後、治世を継いだのは息子の勝家だった。
父が始めた鬼のような税の取り立ては鳴り止むどころかより苛烈を極めていた。
「人が産まれた?よし、人頭税だ!家を建てた?よし、住宅税を払え!飢饉で払えない?知らん!10万石の国に住んでんだからそのくらい払えて当然だろ」
勝家は父より激しく税を取り立て、払えないものは拷問した。
妊婦を人質に取り、税を取り立てた。
しかしもう領民にも払える金などとうの昔に無くなっていたのだ。
税を払わない領民に腹を立てた勝家は、妊婦を裸にして冷たい水に沈めた。
妊婦は6日間苦しみ、水中で出産したが、ついに母子ともに死亡した。
「もう許さねぇ…!こんなクソ領主、ぶっ殺してやる!!!」
領民の怒りは有頂天だった。
まずは武装蜂起し、代官所を襲って代官を殺害した。
この蜂起はどんどんと規模を拡大し、重税に苦しむ民、弾圧されるキリシタンたちを巻き込みやがて一つの軍勢とも言える規模となった。
これが島原天草一揆へと発展していったのだった。
乱の収束後、勝家は幕府から今回の責任を問われることとなった。
「俺は何も知らねぇ!勝手に領民たちが一揆を起こしただけだ!俺は悪くねぇ!悪政なんて敷いてねぇ!」
取り調べを行っていた森長継にそう喚く勝家だったが、自宅からあるものが出てきたことにより事件が動く。
それは桶に詰め込まれた、拷問中に命を落とした農民たちだった。
これが決め手となり、勝家のこれまでの行いが全て明るみに出た。
勝家は江戸に連れて行かれ、森家の屋敷内で斬首刑となった。
「は?斬首!?切腹じゃなくて!?」
「貴様は罪人だ!切腹なんてさせるものか」
切腹は武士の誉れある死、斬首は罪人の単なる死刑。
長く続いた江戸時代において、斬首刑となった大名は松倉勝家ただ一人であった。
こうして、松倉親子による地獄のような悪政は終わったのであった。
松倉親子の逸話でした。
重政は肥前赴任前は名君だったようですが、肥前に来てからは本当にクソ野郎と呼ぶのが妥当なレベルに落ちました。
領民からは搾取し、幕府には媚びを売るスタイル。
そんな父親を見ていれば息子もそうなりますよね。
この悪政の記録は当時の外国人や隣の藩などにも書かれています。
ドン引きされてんじゃん…。
意味のないプライドと承認欲求により苦しむことになった民たちが本当に不憫です。
幕府としては島原の乱鎮圧に相当な金額と人命を失ったわけですから、そのきっかけを作った勝家は許せない存在だったのでしょう。
江戸時代も長く続きましたが、斬首刑になった大名は勝家だけです。
それだけの大罪ということだったんでしょうね。