五百三十番槍 あいつあの後どうなった?~磯野員昌~
すっかり夏ですね。
時間が開いてしまいました…。
前回からのシリーズ物です!
姉川を挟み、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が対峙した姉川の戦い。
この際に織田軍は鉄壁とも言える布陣を敷いた。
俗に言う「織田軍十三段の構え」である。
十三段構えによる布陣は正面の防御に厚く、突破されることは無いと思われた。
しかし…。
「織田信長ぁぁぁ!!!その首貰い受ける!」
一人の猛将の突撃により、その予想は砕け散る。
浅井家四翼に数えられる程武勇に秀でた磯野員昌である。
員昌は織田軍の陣へと突撃を開始したかと思うと、瞬く間に目の前の一段を突き崩した。
さらにもう一段、もう一段とみるみるうちに本陣に迫る。
さすがにこれには信長も慌てた。
「まずいまずいまずい!あいつを止めろ!!」
信長を焦らせることはできたが、員昌の兵にも疲弊の色が見えてきた。
十一段まで突き崩した所で織田軍の別動隊に合流され押し返されてしまった。
信長を討つことはできなかったものの、織田家内でも員昌の武勇は語られることとなった。
姉川の戦いは織田軍の勝利となり、浅井は一部領土を奪われる形となった。
これにより、佐和山城に籠っていた員昌は浅井家と領土が分断されることとなった。
「浅井様!早く!早く物資を送ってください!こちらも餓死してしまいます!!」
員昌は再三補給物資を主君に催促したが、ついに届くことはなかった。
それもそのはずで、信長の下で活躍する豊臣秀吉が浅井家に対し「員昌が裏切る」という噂を流していたのだ。
これにより員昌は信用されず、補給を絶たれていた。
「くっ…ここまでか…」
員昌は兵糧が尽きたその時、織田家に降伏した。
勇猛果敢な名将を失った浅井家の力は大きく削がれたのだった。
降伏した員昌を待っていた処遇は、さぞや酷いものだった。
…と思いきやその逆であった。
琵琶湖周辺、近江の土地を与えられたのだ。
これは秀吉や明智光秀、柴田勝家などの織田家重臣に匹敵する超が付くほどのビップ待遇であった。
それほどまでに員昌の武勇は知れ渡っていた。
近江に移動後は越前一向一揆を鎮圧したり、信長を狙撃し討とうとした鉄砲の名手、杉谷善住坊を捕まえたりなど、信長の下で活躍した。
しかし、員昌の生活は突然ガラッと変貌する。
「そろそろ息子に家督を譲れ!」
「嫌です!まだまだ働きます!」
「いいから譲れ!」
「そんなに言うなら出ていきます!!」
信長からの家督を譲れという指示に納得が行かず、員昌は織田家を飛び出した。
その後、本能寺の変が勃発し信長が討たれると近江に戻り、農民として余生を過ごしたのだった。
磯野員昌の姉川後の同行についてでした。
磯野員昌?あぁ、織田軍十三段の構えを十一段まで破った脳筋でしょ?くらいの認識が一般的じゃないかなーと思います。
私もそうでしたので…。
下手すりゃ突き崩した時に討ち死にしててもおかしくないですからね。
しかし員昌は織田に下り、寿命を全うしております。
どうでもいいですが、員昌って読み難いですね。
漢字似てるし「員」を「かず」ってまず読まないですし…。