五百十三番槍 海賊の関ヶ原
2年ほど付き合った彼女と別れ、なんだか大内義隆の気持ちがわかる気がしてきました。
心から信頼していた相手が自分のもとを去るなんて考えてもみなかっただろうなーと…。
裏切られて攻められたわけではないので比較は難しいのですが。
腹いせに今回の逸話幕末にしてやろうかと思ったくらいですよ!
函館行ってちょっと勉強してきましたので!
函館の夜景のくびれてる部分が北海道の輪郭じゃないって知った時の驚きは凄まじかったですね…。
というわけで傷心者の私ですが頑張って水軍の逸話書いたのでよろしくお願いします。
逸話の提供をしていただき本当にありがとうございます!
この場を借りて御礼申し上げます。(別れた話のあとでごめんなさい)
関ヶ原の戦いが勃発すると、己の運命を西か東かのどちらかへ賭けることとなった大名が多かった。
水軍を率いて海賊王的な立ち位置にいた九鬼嘉隆もその一人だった。
「西か東か…。家康か三成か…。どっちだ?三成は領地の増加約束してくれている。家康はずっと仕えてきた主君だが、信長公や秀吉公とは違い野戦の名人。それ故水軍を軽視している節がある。それに何より、家康には小浜景隆が付いたと言う…。しかも水軍の頭として!」
小浜景隆は、嘉隆がかつて戦って辛くも勝利した水軍の将。
いわば宿敵であった。
「あいつが東なら俺は西だ!しかし、ここで万が一西が負ければ九鬼家は滅びる…。仕方ない、息子は東軍に付かせよう」
こうして九鬼家は親子が分かれて戦うこととなった。
「行くぞ野郎ども!九鬼水軍ここにありと見せつけてやろうぜ!」
嘉隆は数十隻にも及ぶ安宅船を率い、戦場へと向かった。
「まずは伊勢を荒らせ!火をかけろ!よーし、次は尾張だ!東海の海は我らの物ぞ!」
嘉隆が取った戦法は、東海地方の海に手勢を展開、ゲリラ的に沿岸部の村を襲っては燃やしひらすら荒らしまわった。
これに焦ったのは進軍中の徳川家康だった。
「あいつ…このままでは背後を突かれる。小浜!お前はかつて嘉隆と戦ったことがあったな!あれをどうにかしろ!」
「無理です!かつては私もこっぴどくやられました。あれを止められる水軍は日の本には存在しません!」
「おのれ嘉隆め!」
不安要素を抱えたまま関ヶ原の戦いを迎えた家康だったが、これが数時間で決着。
嘉隆は本拠の鳥羽城を捨てて逃げ出した。
「嘉隆様、このままでは東軍に付いた息子の守隆様が家康からお咎めを受けるやも知れません。腹をお切りくださいませ。さすれば家康も許してくれる可能性があります」
そう言ったのは豊田五郎衛門。
独断で嘉隆に切腹を勧めたのだ。
彼なりに九鬼家の行く末を考えての進言だった。
「そうかも知れぬな。介錯を頼んだ」
こうして嘉隆はその生涯を終えた。
守隆が父の助命を感嘆し、その武功に免じて許されていることを知らずに…。
父の切腹を知った守隆は激怒した。
「五郎衛門貴様ぁぁぁぁ!!!!独断で切腹を勧めただと!絶対に許さない!貴様など鋸引きで斬首だ!首は晒してやる!」
こうして九鬼家の関ヶ原は血生臭く終わったのであった。
九鬼水軍の快進撃でした。
因みに宿敵だった小浜ですが、武田信玄の水軍頭にもなってます。
内陸の武田家も水軍を持っていたようです。
安宅船は大型の船(勿論人力で漕ぎます)で、戦艦のようなものです。
船の上に天守みたいなものが乗っかってますよ。
画像検索すると面白いです。
安宅船以外にもちっこい代わりに速度が出る早船なんてものもありました。
(私には誰も追いつけないよ!)
九鬼嘉隆はこの時すでに隠居の身だったようですが、久しぶりに大軍を率いることができて楽しかったのではないでしょうか。
いつどこを攻めるかわからないゲリラ戦法に家康は怯えていたようです。
ほんとに関ヶ原が長引いたら日本史は大きく変わっていたかもしれません。
そもそも短期決着がおかしいんですけどね…。
そうそう、信長公記の現代語訳本買いました!
逸話の塊ですごい楽しいです!お勧めです!