四百五十九番槍 道頓堀
忘れてましたが、もうちょっとでまたこの小説始まった記念日なんですねー。
早いものです。
何かやる?何もやらない?
んー…。
まぁ、できたらやりましょうか!
現在、大阪を流れ、やたらダイブする人が出ることで有名な道頓堀。
この川、戦国時代にある商人が膨大な資材をなげうって作ったものである。
「安井道頓殿、お主はこの大坂城の外堀を作ってくれた。感謝するぞ。そこでだ、城の南側に領地を与えようと思う」
そう言うのは、日の本の最高権力者、豊臣秀吉。
道頓の働きをたたえたのだった。
こうして、城南の土地を手に入れた道頓は、東横堀川と木津川を結ぶ水路を作ろうと考えた。
商人として稼いだ多額の富を、この工事に使うことにした。
工事も順調に進んでいたある日、その訃報は舞い込んできた。
豊臣秀吉、死去。
土地を与えてくれた秀吉が死んだのだ。
それでも、変わることなく道頓は堀の掘削をすすめたのだった。
しかし、道頓でも回避できない出来事が起きた。
大坂の陣である。
冬の陣は治水工事のために参加しなかったが、この時、徳川軍は和睦の条件として、外堀を埋めたのだ。
これには道頓も我慢ならなかった。
「徳川め!せっかく作った外堀を埋めやがったな!もう許さないぞ!徳川!」
自分が作ったものを埋められた怒りから、夏の陣では豊臣方として、商人の身でありながら参戦。
大坂城に籠ったのだった。
しかし、この戦の結果は皆知っての通り、大阪の敗北。
「せめて…堀の完成だけでも…目にしたかったものだ…」
道頓は夢半ばで無念の討死を遂げてしまうのだった。
それから、主導者を失った方の工事は進むことなく中断された…わけではない。
豊臣滅亡後、新たに大坂を納めることとなった松平忠明の許可を受け、道頓の従兄弟たちの手によって掘削作業が続けられた。
そして、道頓の死から半年後、ついに完成したのであった。
忠明は道頓が死罪をなげうってまで作ったこの堀を、敬意を表して「道頓堀」と名付けたのであった。
道頓堀の逸話…というか、歴史でした。
人の名前が由来って知ってましたか?
私は最近知りました!
道頓の功績は後世にも大きく評価されていて、裁判官も認めたとかウィキペディアに書いてありました(おい
さて、次は誰を書きましょうかねー。
来年の大河を意識して真田を増やしましょうか…?