三十六番槍 家康人生最大の敗北
これもリクエストされた合戦です。
三方ヶ原が変換できなくて苦労しました…(苦笑)
合戦だと1ページじゃ収まりませんね。
まあ、問題は無いはずです!
1572年。
甲斐の武田信玄のもとに、一通の手紙が届いた。
『織田信長を討伐せよ!』
差出人は十五代将軍足利義昭。
将軍直々の命令とあらば、聞かないわけにはいかない。
「皆の者!将軍様からのご命令じゃ!これより浜松に向かい家康を討つ!」
信長を討つ為には、同盟者の徳川家康を討つことが先決だと考えた信玄。
10月3日。
過去最大の2万5000の兵を率いて信玄は躑躅ヶ崎館を出た。
「信玄様、お体は大丈夫ですか?」
一人の家臣が信玄を気遣う。
というのも、本当は2日前に出陣する予定だったのを、信玄の持病が悪化したために先送りしたのである。
「ははは!心配無用!もう大丈夫じゃ!」
とはいえ、本調子ではないのも事実であった。
しかし、自分が生きている間に上洛したい。
この思いが強く、今回は少し無理しての出陣となった。
一週間後。
信玄はついに徳川領に足を踏み入れた。
このことを知った家康は、兵を全く浜松城から出さずに籠城した。
徳川軍は1万1000。
数で適わないがための作戦だった。
このことが信玄を苦しめた。
信玄は会議を開いて家臣の意見を求めた。
「では、案のある奴は手を挙げよ!」
「はいはいはーい!はい!はい!」
「小学生かっ!うるさいな!まぁよいわ。では言ってみよ!」
「家康を無視して上洛しましょう!」
冷たい目線を送る信玄。
「そんなことしたら信長との交戦中に家康に背後を突かれるわっ!」
家臣の意見を退けた。
「他に!」
「はいっ!はいっ!はいはーい!はいはいっ!」
「うるさいわ!まぁよい。言ってみよ」
「いっそのこと帰りません?」
沈黙が広がる。
何言ってんだこいつ?オーラが凄い。
信玄が沈黙を突き破った。
「実は、出陣直線に家康が謙信と同盟を結びやがった…。今甲斐に帰ったら謙信と家康の挟み撃ちにあうぞ!」
これで全てを理解した家臣たち。
今家康倒さなきゃ俺らマジでヤベーんじゃん!
出陣してから2ヵ月後の12月。信玄は大胆な行動に出た。
浜松城まで残り4キロ。
そこで突然進路を西へ変えた。
三方ヶ原台地を横切って、祝田の坂という細い一本道を進軍した。
「なっ…!あの野郎、徳川を…無視しやがった!許さねえ!絶対許さねえ!」
家康の怒りは頂点に達した。
「敵は一本道に入った!チャンスだ!行くぞ!」
自分を無視した信玄への怒り。
さらには、敵が地理的に不利な場所へ入ったこと。
家康は信玄を討つ最大のチャンスだと踏んだ。
そして、1万1000の兵を率いて浜松城を出た。
しかし、全ては信玄の計算通りだった。
「家康が出たかっ!全軍、急いで引き返し、三方ヶ原に布陣するのだっ!」
何と、信玄は祝田の坂を引き返し始めたのだ。
そして、追ってきた家康と三方ヶ原台地で激突した。
「全軍!魚鱗の陣を構えるのだ!」
信玄が命令した。
魚鱗の陣とは、大将を中心に、三角形に組む陣形。
側面や後方からの攻撃には弱いが、正面からぶつかる戦闘には強く、機動力もある。
まさにうってつけの陣形。
対する家康は…。
「どこまでも…どこまでもバカにしよって…!鶴翼の陣だっ!」
「!!鶴翼ですと…?」
家臣は驚いた。
しかし、文句を言う時間はなかった。
鶴翼の陣は、V字型に兵を置く陣形。
中心が弱く、大将が狙われやすい。
敵を引き込んで囲んで倒す形の、迎撃タイプの陣形。
敵に数で勝るときに使う。
しかし、この時の兵の数は圧倒的に家康が下。
それでもこの陣形を取るほど、家康の怒りは大きかった。
「「行けー!!」」
12月22日午後4時。両者が逃げ場のない台地でぶつかった。
合戦は始めは徳川軍有利で進んだ。
しかし、次第に形成逆転。
2時間後には徳川軍は完全に崩れていた。
家康は僅かな家臣と共に戦場から逃げようとした。
家臣は家康を円になって囲み、ひたすらに守った。
「我こそは家康!この首取ってみやがれっ!」
そう叫んで死んでいった家臣を何人見ただろう。
自分を守ってくれる家臣が減っていく。
流石の家康も耐えられなかった。
「…もう腹が減って動けない…。みんな…すまないな…」
家康はいつになく弱気だった。
「なら、あの茶屋で小豆餅でも!」
家臣の勧めで、ほんの一時茶屋で休んだ。
しかし…。
「いたぞ!家康だっ!」
武田軍に見つかった。
家康の顔は一気に青ざめた。
慌てて逃げ出す家康を捕まえた男がいた。
茶屋の店主だった。
「おいっ!お殿様よぉ。無銭飲食とはいい度胸だなぁ?」
家康は慌てて金を払った。
そして、命かながら城についた家康だったが…。
「……家康様…。脱糞しました…?」
武田軍の恐怖から、家康は脱糞した。
「これは…。焼き味噌だ!」
とっさにごまかした家康。
焼き味噌に謝れ。
「絵師を呼べ…。わしのこの姿を描かせよ!生涯戒めにするから…」
これが今に伝わる三方ヶ原戦役画像。
またの名をしかみ像。
家康が絵を描いてもらってるうちにも、武田軍対策は行われていた。
城門を開け、かがり火がたかれた。
家康の家臣、酒井忠次は太鼓を叩いている。
敗戦後の城としては異常な状況。
「これで…警戒して武田はこの城を攻めなくなるだろう!」
徳川軍はそう思い、この作戦を取った。
しかし…。
「…信玄様。どうします?あれ…」
「信長との戦もあるし…。捨て置け」
信玄は相手にもしなかった。
結果として、家康は命拾いしたのだった。
それからすぐに正月を迎えた。
家康は角松の先を斬って「武田を斬る」と願いを込めたのだった。
三方ヶ原の戦いの前哨戦に「一言坂の戦い」というのがありまして。
本多忠勝が「家康に過ぎたる者」と言われた戦いになりました。
こっちも紹介したかったな~…。
書いてて改めて分かる信玄の強さ…。
魚鱗の陣と鶴翼の陣。
家康は使う陣形をミスったんですね。
因みに、家康の身代わりになって討ち死にした家臣の中に夏目吉信という人がいて、石碑が立ってるみたいです。
お正月に、先が切れてるタイプの角松見たら、家康の影響だと思ってくださいな。
切れてないのもありますけど…。
以上!
三方ヶ原の戦いでした。
本戦以外はだいぶ端折っちゃいました…。
土豪が寝返ったり、信長からの援軍が来たり…。