二百八十二番槍 影武者がんばります!
今回は逸話というか異説です。
家康が大坂の陣で討死してたこもってやつですね。
大坂・夏の陣。
徳川家康による二度目の大阪城攻めである。
「ふふふ。冬の陣のときに堀は埋めたし、楽勝よ!」
家康は調子こいていた。
そんな時…。
「家康様!目前まで真田幸村が迫っております!」
「な、なんだってー?やばいじゃん!」
「はい、ヤバイです」
「んじゃ切腹するわ!切腹!」
「やめてください!」
切腹切腹とわめく家康を止める家臣たち。
「大丈夫です!幸村は3000の兵しかいません。対するこちらは1万3000の松平忠直が食い止めて…」
家臣がそう説明しているときだった。
「いっけ!あれが家康の本陣ぞ!我が兵は3隊に分かれよ!狙うは家康の首ただ一つ!」
幸村の突入で本陣は大混乱となった。
「ちっ!幸村め!ここは一度退く!」
家康は退却を開始した。
その時だった。
「そんなことはさせねーぜ!」
幸村は得意げに言った。
すると…。
地鳴りが響き、あたりが揺れた。
家康はその場にうずくまっていた。
「ふふふ。そこは俺が地雷を仕掛けておいたのだよ!」
家康はここで重傷を負った。
「殿!この棺桶に入ってください!」
家臣が奨める。
「え?まだ死んでないよ?」
「違います!葬儀の列に紛れてここを出ましょう!」
「わかった!」
家康はこうして棺桶に入り、難を逃れようとした。
しかし、途中。
「お?なんだ?見るからな怪しい…」
葬儀の列を怪しんだのは後藤又兵衛。
「怪しい…。あの棺…。槍で刺してみるか」
罰当たりなことを平然とやってのける又兵衛。
しかし、これにより家康は討死することとなった。
これはまずい事態である。
将軍は家康の息子である秀忠が継いでいたが、実験は家康が握っていた。
その家康が討死とあらば、負け戦となる。
すぐに対策が打たれた。
影武者を立てて、家康は生きていることにする。
そして、その影武者は小笠原秀政とする。
長男、次男ともに討死している秀政なら、本人も討死していることにしやすかった。
こうして、家康の死は隠されることとなった。
家康の亡骸は、南宗寺に葬られることになった。
それも、かなりの密葬で。
参列者は11人。
雨の降りしきる夜中だった。
家康の死は公にされることなく、戦は進んだ。
大阪城を落とし、江戸幕府を固めたのは秀政だったのである。
のちに、秀忠や家光は南宗寺の家康の墓を訪ねている。
あとはこっそり、遺言通りに日光東照宮に改葬すれば歴史は書き換えられる。
南宗寺にあったという東照宮は、家康のために建てられたものである。
最後の戦に敗れた家康は、大坂で眠りにつくこととなったのだった。
幸村が地雷をしかけて家康が負傷したって説があるらしいです。
地雷ってあの時代に?
なかなか面白い説ですよね。
秀忠と家光が大坂の家康の墓を参拝してるあたり何かありそうです。
この墓現存しますよ。
興味のある方は検索してみてくださいね!