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十六の太刀 戦下手の真実

私もライン、始めたんだ!


ミスターです。

使い方が分からない上にガラケーなんですけど(笑)


今回は前回の続きです。


前回のは通説、今回のは異説ですかね。


と言うか今日ってメンテナンスの日なのね…。

2時からは見事に刺さる時間帯…。

普段は兵糧調達や検地などで活躍していた石田三成。


忍城を攻略できなかったことで「算盤はできるけど戦下手」のレッテルを貼られることになった。


しかし、最近は三成が水攻めを計画した張本人なのかが疑問視されている。



「さて、忍城か…。どう攻めよう…」


ひたすら考えていた三成のもとに、豊臣秀吉から手紙が届いた。


『忍城は沼に囲まれた城と聞く。これは水攻めを実施すればすぐに落ちるであろう。堤を築くのだ!』


秀吉は数年前に行った高松城の豪快な水攻めが気に入っていたらしく、機会があればもう一度と思っていた。


そのまたとないチャンスが忍城だと思ったのだ。


だからすぐに三成に指示を出した。


「水攻めにしなさい」と。


一方、現場にいる三成は一目見てすぐにわかった。


忍城は少し高い土地の上にある。

水攻めは現実的ではない…。


それでも、秀吉の指示に逆らうわけにはいかない。


しかしこのまま水攻めすると明らかに失敗して秀吉の名前に泥がつく。


ここで三成は考えた。


…自分の名前が汚れればいい。


だから、自分の指示として水攻めを決行した。


こうしてすべての責任を自分に向けたのだった。



実際、忍城が開城したあとに向かった福島の南相馬で起きた大崎・葛西一揆の鎮圧や、賤ヶ岳の戦いなどで武功を上げていて、三成は言うほど戦は下手ではなかったと言われている。


関ヶ原で負けたことによる、東軍の過大評価の過程で「戦下手」といわれるようになったという説もある。


三成の忍城水攻めは、現場を知らない秀吉の無茶ぶりに苦労して答えた結果に過ぎないのかもしれない。

水攻めは誰が発案なのか。


三成か、秀吉か。


秀吉からの手紙は現存します。


実際は戦下手ではなかったのでしょうか?

まぁチクリ魔三成ですし、悪く言われるのは仕方ないかも…?


わざとらしく「南相馬」の名前を出しました。

時期が時期ですし…。


いつになったら「被災地」と呼ばれなくなるのでしょうか…。

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