百四十八番槍 秀次切腹の波紋
先日、秀次切腹の時の政宗の逸話を書きました。
その時に感想をいただきまして、「義光のほうが大変でしたね」と。
恥ずかしながら、義光の境遇を知りませんで…。
するとまた別の方から感想をいただきまして。
(華麗なる他力本願…ということはさておき)
興味を持ったので調べてみました。
1590年。
最上義光は、時の天下人、豊臣秀吉に下った。
すると秀吉の甥、秀次に、娘の駒姫を側室に差し出すよう言われた。
この駒姫。
東国一の美女として知られていた。
そりゃ、秀次も興味を持つだろう。
義光には逆らうことは出来ず、駒姫を差し出すことにした。
しかし…。
秀次、切腹。
秀次が謀反を企んだというのが理由だった。
このとき、側室にも死刑が下された。
「なん…だと…。い、家康殿!駒の…駒の命をお助けください!どうか、秀吉様にお伝えください!」
家康に泣きついて、駒姫の命を助けて欲しいと懇願した。
家康も、秀吉にこの話をした。
しかし…。
「父が最上義光という戦国武将で、いくら身分が高いからといっても、それで刑が変わってしまっては政治は成り立たないからダメ」
秀吉は駒姫を処刑した。
後日、義光は駒姫の最期を家臣から聞いた。
「……前世の…報いか…」
義光は終始顔を伏せ、ひたすら泣いた。
食事も喉を通らない。
ついには、水までも拒否。
そんな義光に、追い討ちをかけるように正室が死去した。
自殺だった。
「娘に会いに行きます」
それが自殺の理由だった。
ついには、義光自身も秀次と仲が良かったことで謀反の疑いをかけられた。
「おい義光。お前も秀次と一緒に謀反企んでたんじゃねーの?」
秀吉から聞かれた義光。
すぐに反論。
「秀次様とは仲良くないっすよ!」
「では何故あやつの屋敷を出入りしてた?」
「娘に…会いに行ってました…」
「ほう…。まぁよいわ」
何とか許された義光。
しかし、秀吉への信用は一気に無くし、関ヶ原の戦いでは東軍へと付いたのだった。
ホントだ…。
こりゃ、政宗なんかよりずっと…。
どうでもいいですが、義光と書いて「よしあき」と読むのは何故なんでしょうね?