第16話
少し、ひんやりするパートですね…。
透明度の高いその氷の塊はクリスタルのように澄んで反対側の景色を映していた。
ダストシュートから転がり落ちてくる段階でできたと思われる破損が何箇所か見受けられるが、もともと転がりやすく作られていたためなのか、ほとんど原型を留めているようだった。
大きさは人が両手で持って抱えることができるくらい。
その氷の塊は、完成形したオブジェのように床の上に置かれ、数名の女性社員に囲まれていた。ある者は座り込み、あるものは呆然と立ち尽くしている。
町田と、その後すぐに辿り着いた仙波たちはそれを目の前にして、とても長い時間、もしくは一瞬、時間の感覚を忘却していた。
「浅海原……音香」
仙波が呟いた。
「いやぁぁぁ」続いて松苗が悲鳴をあげて座り込んだ。
「な……?」秋山が絶句する。
この場にいる全ての者は、純度の高い氷の中に封印された音香の首から上だけの変わり果てた姿を凝視していた。
非現実的な情景。
あまりにも現実感のない物質。
そう。物質。
生命体ではない。
切断された頭部のみが、氷の中に閉じ込められている。
頭部だけになった音香は、薄く目を開けて口元を微かに上げて微笑んでいるように見える。
精巧に造られたオブジェなのではないかと錯覚してしまう。
ショーケースに収められた芸術品。
そんな不自然な美しささえ感じてしまう。
美とは自然と不自然の両極端に存在するものなのだろう。そして、完全に近い自然ほど不自然であり、完全に近い不自然ほど自然である。
「一体これは、どう言うことなんだ………」
町田が仙波たちの方を見て、頭を振る。
「そんなの私たちの方が聞きたいよぉ」
松苗が涙ぐんだ。
「本物……なのか?」
秋山が言う。
あまりにも死とかけ離れているように見えるそれは、精巧に作られた模造品にも見える。しかし、それ以上の生々しさを同居させ、圧倒的な威圧感を醸している。
「とにかく、このままにしておくわけにはいかないな」
仙波が言う。
「どうすれば………」
皆、うろたえる。
「外部との接触が出来るようになるまで、このままの状態で保存したほうが良いと思うけど」
仙波は町田を見る。
「あ……ああ」
町田が同意する。
氷の表面が汗をかき始めている。解かれるべきではない封印が暴かれてしまうような何かとても恐ろしい感じがする。
「この階に資材保管用冷凍室があります。そこに保管しておきましょう」
問題の固体を運ぶことを誰もが拒否したが結局、仙波、秋山、町田の男手で運び込むことになった。
冷凍室に運び込むと施錠をして立ち入り禁止とした。
「どうなってるんだ………」
秋山が呟いた。疲労の色が見える。
「………申し上げにくいが、あなた達が最も疑わしい」
町田が言う。
「確かにそうですね」別の何かを考えているように中空を見つめながら仙波が答えた。「我々が十階から去った後、彼女は九階に降りた。その直後、爆発があり、続いて彼女の首が切断され冷凍され、ダストシュートに放り込まれた。ここ一年、九階から上の階に言ったのは、当人と我々のみ。もちろんその前に行った者が、そのまま滞在しているということは無いですよね」
町田が頷くのを確認すると仙波は続けた。
「一連の作業を自動で行う装置があれば別だが、恐らくそのようなものがあるとは思えない。あったとしたら、後に発見することができますね。首を切断し冷凍してダストシュートに廃棄する、この作業を死んだ本人が行うことはできません。よって、自殺ということはないでしょう」
「でも、そうなると…」
秋山が結果を言うことなく口を噤んだ。
「うん。彼女は殺された。そして、今の状況から客観的に判断すれば、それができるのは僕達以外にありえないと言うことになってしまうね」
「だけど、僕達じゃない」
秋山は町田と自分自身に訴えかけるように言った。
「現時点では、あなた達を信用することはできません。しかし、真っ向から疑うつもりもないし、私には拘束する権限もない。今は一刻も早く外部との連絡を確保することが優先するべきでしょう。あなた方がやっていないというならば、そのあとで警察に証明すればいい。それまでは自主的に行動を控えていただきたいと思います」
町田は冷淡な口調で言った。
感情がコントロールできていて判断が的確である。頭の良い男だ。非常事態における行動で人間の本性というものは露出してくるものである。仙波は彼の態度を見てそう感じた。
「分かりました」仙波は付け加えるように言う。「復旧が長引いた場合、食料については問題ありませんか」
「上階に移動する手段がなくなりましたから贅沢は言えませんが、各自の個室に非常用のカップ麺や乾パン、飲料があります。総務の方にもストックがありますので、二週間程度は心配無いと思います」
町田が答えた。
「二週間以内には何らかの連絡が取れるはずですね?」
「ええ。少なくとも定期連絡が入ります」
仙波たちは、これからの対応を話しながらエントランスの中央部まで戻ってきた。
松苗が不安な様子で立っている。
「さきほども申し上げましたが、出来る限り行動を自粛してください。では、私はやらなければならないことがありますので」
町田は念を押すと自分の持ち場に戻っていった。恐らくこの後の対応に追われることになるのだろう。
「これって、どういうことなんですか。一体何が起きたんですか」
町田の姿が見えなくなると松苗が声を絞るようにして言った。
「分からない。だけど、僕たちの立場は非常に危ういところにある」
松苗もその点は理解している。
「私たちが何もしていないことを証明するしかないんですね」
「そうだね」
「でも、どうすれば……」
「町田さんが言うには、僕たちが下の階に降りた後に、浅海原さんは九階に行ったらしい。この時点で僕たちが彼女に危害を加えることはできない」
「……ですよね。なーんだ、証明できるじゃないですか」
松苗がぎこちなく笑った。
「いや、これでは証明にならない」
「でも、町田さん自身がそうおっしゃているんですよね」
「彼は彼の知り得る情報を提示しただけに過ぎない。そこに推測を挟めば、矛盾なんていくらでも解消できる」
「どう推測しても俺達にはできないと思えるんですけど」
秋山が口を挿んだ。
「そうかな。簡単なことだと思うけど。例えば、十階で浅海原さんを殺害し、IDカードを奪う。エレベータ付近に爆弾を仕掛けて九階に降りる。彼女の首を切断する道具と短時間で冷凍する装置も必要になるけど、それは置いておこう。現にそういう状況が作られているわけだから、存在していることを前提とする。で、ダストシュートから氷の塊を放り投げて、非常階段から下に降りる」
「非常階段は、コードが必要って………」
「浅海原さんから聞き出した。脅迫でも何でもしてね」
「………」
仙波の話に、秋山と松苗は口を噤んだ。
「可能性のみを考えるとどうにでも捉えることができてしまう。僕たちがやっていないことを証明することはできないけれど、やったことを証明することもできない。どっちにしても、今は何もできないということだね」
「外部との連絡がとれるようになるまで待つしかないということですね」
「そうだね。状況が変わらないと進展できなそうだ」
「あ、外部との連絡で思い出した」
突然、秋山が大声で言った。
「な、何よ、突然」
「昨日、チャットに繋がったんだ」
「チャットって、インターネットに?」
松苗が目を大きく開く。
「インターネットは、回復しているんじゃないかな?」
「僕が今日の朝確認したときは繋がらなかった。昨日の夜中も何度か試したけど一度も接続できなかった」
仙波が言う。
「でも、確かに繋がりました。会話も行なったんです」
「そう言えば、浅海原さんとブルーを同一人物とみる根拠についての説明が、まだ途中だったね。話してもらって良いかい?」
仙波が尋ねる。
「はい。でも、今の状況に対して足しにはならないと思いますが」
秋山は、二人の人物を同じと感じた発言についてを交えて、今までのチャットのやり取りを覚えている限り正確に伝えた。
「………なるほど。でも、それだけでは同一人物である可能性は低いね」
「そう思って、あの場ではすぐ引き下がったんです」
「しかし、インターネットが回復していないのに、君が確かに昨日チャットでその人物と会話をしたということが真実ならば可能性は高い」
インターネットが使えなくても、タワー内部のみのコンピュータの接続であるイントラネットは使用できる。接続が出来たと言うことは、秋山が利用していたチャットはこのタワーにサーバーがあると言うことになる。もちろん、グローバルに公開していたものをローカルに設定変更するくらいなら音香以外の人間にもできる。だが、秋山の話からすると、その人物が浅海原であると考えるほうが自然だ。
「……ごめんなさい、ちょっと休んでいいですか。ちょっと、疲れたみたいです」
松苗が言った。少し顔色が悪い。どうやら、我慢も限界に達したようだ。日常では考えられないことが次々と起きているのだから無理もない。
特に彼女の場合は、彼女の持ちうる能力が、精神的な苦痛を倍加している。さっきの光景が頭の中で再生されている。
「少し眠ったほうが良いね。部屋まで送ろう」