第一話 少しだけ妙な出会い
書き出しの部分は、10年くらい前に書いたものです。
今はブラウザチャットなんてあまりやっている人いないですよね…。
青い壁。青い光。
全てが青く、そして澄みきった空間は、薄暗くひんやりとした空気に満たされている。真っ暗な深海に光が差し込んできたらこんな感じになるだろう。全ての生命の存在を拒絶するようなノイズだけが唯一の音。否、他にも何かが聞える。
―――それは、私の心音。鼓動。
素足に伝わる床の冷たさが私の存在を証明している。
証明?。
誰に証明しているのだろう。
冷たく硬い感触を確認しながら、ゆっくりと歩を進める。
一歩一歩緩やかな歩み。これは私の意思。
扉に手をかける。刹那、ロックが解除されたことを示す電子音が小さく短く聞える。
私が認識された。扉から続く階段を見下ろす。
これが私の定義。
私が私であることを証明する。
証明?。
誰に証明するのだろう。
思考が揺らいでいる。もう目が覚めるのかもしれない。
急がなければいけない。
私自身に証明するために。
そして開放するために。
1
ブルー∧お会いすることはできません。物理的な問題が発生します。
秋山 勇輔は、十七インチのディスプレイに表示された一文を、ただ呆然と見つめていた。
インターネットというものは、基本的に存在が曖昧で希薄な世界だと考えなければならない。相手がどこに住んでいようが、どのような環境下で、如何なる生活を営んでいようが全然関係がない。それどころか素性はおろか性別さえも、その意味が薄れてしまうような、非常に曖昧な存在が許容される世界である。
リアルタイムに文字で会話ができるチャットでは、交わされる内容が真実かどうかを見極めることが難しい。回線を切断してしまえば、今まで親しく話していた相手であっても連絡手段が消えてしまう。相手への到達手段が存在しない以上、相手の意向次第では二度と会うことはできないということになる。
情報を偽っていれば、次に会うときは『別人』になってしまっていて、たとえ出会う事が出来たとしても、以前話をした事がある人物だとは気がつかない場合もあるだろう。
だからこそ、時として向こう側の人間に「会ってみたい」という願望を抱く事がある。
しかし、その事を伝えると言う事は、ほとんどの場合、相手にとって迷惑なことでしかない。インターネットの世界ではマナー違反になる。
インターネットは完全な匿名性を持っているので犯罪の巣窟になってしまう恐れがある・・・というのは、その仕組みを把握していない自称インターネット評論家によって、いつの間にか作られた迷信に過ぎない。調べる気になれば、手掛かりを掻き集めて相手に辿り着くこともできる。ある程度のスキルを身に付けている人間が労力を惜しまずに捜索すれば、アクセスしている場所の限定や使用しているプロバイダの特定くらいはできる。
だからこそ、相手からの申し出を断る場合も、あまり冷たく突き放すような言い方は止めておいたほうが良い。世の中には理不尽な逆切れを起こして犯罪を犯すものも少なくは無い。
もちろん、秋山はその類とは違うと自覚している。
『物理的な問題』という言葉に、どのような意味が込められているのかは興味深いところだが、それを追求しても仕方が無い。恐らくこれも、彼の気分を損ねないように捻った言い回しを使用した結果なのだろう。
とにかく今回悪いのは、マナーを破った秋山のほうだ。彼自身も、ここは素直に謝るのが筋だろうと考えた。
ユウ∧すまない。今のは忘れてくれ。
秋山がブルーと知り合ったのは1週間くらい前のことだ。
近くのコンビニで買ってきた夕食の弁当と飲み物をアパートの部屋で広げた。テーブルなんてものは無いので、パソコンデスクがそのまま食卓になる。自宅にいる時は、このデスクに向かっているかベッドに転がっているかのどちらかでしかない。我ながら単純な行動パターンだと考える。極端に狭い行動範囲のおかげで、ワンルームの部屋でも場所を持て余しているような状態だ。
ハンバーグ弁当を頬張りながら、パソコンの電源を入れる。カルシウムやビタミン等の栄養素が片っ端から詰め込まれた液体の入った500mlのペットボトルに口をつける。そのペットボトルの側面に強調してある栄養成分の欄に書いてあるエネルギー要素が、胃から体全体に染み渡っていく気がする。不健康な生活も、これで少しは改善される。・・・病も気から。別に病んでいるわけではないけど、まあ、気も思い込みから、と背凭れに身体を預ける。
真っ黒なディスプレイに一瞬、ノイズが走る。単調なビープ音が鳴り、オペレーティング・システムの起動画面が表示される。この間、約数十秒。
都内に仕事が決まった時、学生時代のバイトで貯めた金を叩いて買った真っ白な筐体のデスクトップパソコン。17インチディスプレイ付き。
その当時は最新機種だったが、今では店頭で見かけることもない。今の最新機種に比べれば、何ランクも下のスペックになってしまうが、インターネット以外の目的に使うことがないので、個人的には何の不自由も感じていない。ただ、最近仕事で使用している開発ツールがそれなりにCPUを喰うので、次のボーナス辺りで買い換えることになるかもしれない。仕事を家に持ちこまなければ良いのだけど、そうも言っていられない時があるのが現実というものだ。
パソコンディスクの隣には、三段組みのスチール棚が置いてある。一番上の段には、会社の近くにあるペットショップで買ってきたカラフルな魚が泳ぐ水槽が乗っている。
このペットショップがなかなか面白くて、初めて行った者なら二時間は有意義に過ごせるだろう。まあ、動物が苦手ではないという条件は必須だが。そこのペットショップの店員に相談して、二~三週間留守にしても大丈夫なペットがいないか探してみた。どうやら魚の類は、水草などの環境を整えておけば、あまり餌を与えなくても大丈夫らしい。教えては貰ったけど、結局店員に世話の難しくないものでそれなりに綺麗なものという条件で選んでもらった。名前も教わったのだが全く覚えていない。
パソコンディスクはコンパクトなもので、あまり場所を取らないものを選んだ。引出しの中にキーボードが収納できるようになっている。
空になった弁当をゴミ箱に放り込んで、キーボードを引っ張り出す。
ブラウザを立ち上げていつものサイトのURLのブックマークをクリックした。
―――しかし、レスポンスが返ってこない。
画面には、Not Foundの文字が表示されている。
「変だな・・・」
ここの管理人は、サーバーのメンテナンスや自分が長期不在になる時、必ずトップページへ『お知らせ』を掲載する。誰に伝えたいのか分からないが、時々、個人的な旅行のスケジュールまで掲示されていることがある。顔や本名は知らないが、かなり几帳面なのか、自己主張の強い人間なのだろう。
昨日アクセスした時には、お知らせの表示は見当たらなかった。今まで予告なしにアクセスできない状態になることは一度も無かったのだが、どうしたのだろう。
このサイトには秋山の知るだけで、数人の『常連』がいる。
彼自身もその常連の一人で、仲間と他愛のない出来事を、面白可笑しく語り合うのが日課となっている。
チャットというのは、電話と違って自分の都合で繋がったり切れたりが出来る。次に接続する時間のう約束をする時もあるが、基本的に参加するしないは自分の意思次第だ。この気兼ねのなさがチャットの魅力でもある。
で、少しずつ時間を置いて、数回リロードをしてみたが、やはりNot Foundが表示されてしまう。今頃、秋山以外の常連連中も、必死になって更新ボタンをクリックしているはずだ。
繋がらないならそれはそれで仕方がないが、日課のように続いていることが、自分の意思とは無関係に出来なくなってしまうと無性に恋しくなる。中毒症状もしくは禁断症状。なんとなく心寂しく、虚空にいるような気分になる。
もう一回リロードする。未練がましく、もう一度。
結局それでも変わらない画面を見つめながら、秋山は溜息をついた。キーボードを入力する音が途絶える。僅かな沈黙の時間。部屋の中は、CPUを冷却するファンの音と、通りを行き交う自動車のエンジン音に占有されている。
「仕方ねぇな、諦めるか・・・」
ディスプレイに向かって独り言をつぶやくと、別のURLを入力して検索エンジンにアクセスする。ほかにすることもないので、別のチャットサイトを検索することにした。
一口にチャットといっても、いろいろな種類とか趣向がある。人の入れ替わりが激しいもの、マニアックな会話に偏っているものや特定の趣味や職業の人間だけしかいないものやインターネットで公開しているくせに、ひどく内向的な場所もある。それでも、平和的な場所なら良いが、時として攻撃的な言動で人を中傷することのみを目的としている者や、そういった行為でストレス解消をしている者が往来するような場所もある。
当然ながら、秋山の求める場所は、人を貶めて喜ぶような貧しい趣味の集まるような所ではない。ただゆったりと、純粋に会話を楽しめるような所がいい。例えば、旅先の電車の中で前の席に座った人と、ほんの一時の間交わす世間話のように。
うんざりしてくるくらいに抽出された検索結果の一覧を、上から順に軽く目を通す。これだけの数があるというのに、ここだと思える場所はなかなか見つからない。次々と表示をスクロールしていく。次のページの結果を見て気に入ったものがなければ諦めようと思った矢先、
《些細な日常の世間話をするチャット。(管理人、ほぼ毎日参加)》
と書かれた一文に目が止まった。
シンプルな説明文だが、理想のイメージに一致する。言葉というのは、長くだらだらと書いてあれば良いというものではない。短くても簡潔に要点を抑えていれば、それで良いのだ。その点で、この一文は実に良い。しかも、管理人が参加している旨が記述されている。
インターネット上のホームページには、数多くの廃墟が存在する。作成して公開したのはいいが、誰にも興味を持って貰えないまま、作者自身にまで忘れられてしまったようなサイトだ。チャットや掲示板でも、作るだけ作って放置されているものが少なくない。
そんな廃墟サイトにアクセスしても空しくなるだけだが、少なくとも管理人が参加しているようなサイトなら、寂しい思いはしなくて澄むだろう。
秋山はそう考えて、リンクの上にカーソルを合わせてクリックする。しかし、表示されたページを見て愕然とした。
期待は完全に裏切られた。
表示されたページは、とても閑散としている。閑散としすぎていると言っても良いだろう。もうこれ以上カットできるような無駄は無い、と言うくらいにシンプルな画面構成。背景も真っ白。最近の凝りに凝ったサイトに目が馴れていると、逆に新鮮に感じるくらいだ。
デザインがシンプルなのには文句は無いが、チャットも真っ白で全然書き込みがない。いや、正確に言うと、たった一文だけ記述されている。
ブルー∧待っています。
たった一文。上のほうに一文だけ記述されている。
―――待っているって言ったって・・・。
インターネットの中では、時間という概念に狂いが生じている場合がある。そもそも、時間という存在そのものが無いとも言える。
この書込みだって、いつ書かれたものか知る術は無い。もしかしたら、一年前に書かれたものかも知れないし、秋山が訪れるほんの数秒前かも知れない。書きこみが行われた時間が表示されるサイトもあるが、このページにはそういった表示は無い。
要するに『待っています』と書かれているからといって、誰も待っている保証は無いと言うことだ。これを書いた本人ですら、このページの存在を忘れてしまっている可能性だってある。
―――せっかくだから、何か書きこむか・・・。
秋山は、キーボードを叩いた。
ユウ∧こんばんは。誰かいるかい?
誰が見ているか分からない時に使う常套文が、画面に表示される。
お決まりの挨拶が文字になり、デジタルの信号に変換され、回線を通じてインターネットの世界に放たれる。それは、糸電話のように限られた相手へ弱々しく伝わっていくのだろうか。それとも、宣伝カーの拡声器から放たれる大音量のひび割れたミュージックのように、無差別にいろいろな所に入り込むのだろうか。
とりあえず、秋山は、しばらくの間レスポンスを待つことにした。
インターネットでの問いかけの場合、そのレスポンスの速度は、相手の入力速度も考慮に入れなければならない。まあ、初心者を視野に入れても、だいたい2~3分が妥当なところだ。それだけ待ってみて返答がなければ、それ以上待つのは時間の無駄だろう。
このサイトは雰囲気からして、管理者にも見捨てられた放置サイトの可能性が高い。秋山だって無駄に待ちつづけるのが好きなわけではない。
しかし、そんな心配を余所に、僅かな間を置いて次の行が表示された。
ブルー∧こんばんは。お持ちしていました。
秋山は、少しだけ戸惑った。大方返答は無いだろうと踏んでいたのに、即答に近い反応速度だ。
ユウ∧もしかして、本当に誰かがくるのを待ってた?
ブルー∧はい。
確かにレスポンスの速さから見て、モニターの前で構えていたように思える。本当にジッと誰かが書き込んでくるのを待っていたのだろうか。いつ誰が書きこんでくるか分からない状態で、待ちつづけていたのだろうか。
―――まさかな・・・。偶然だろう。タイミングが良かっただけだ。
もし、この人が少しの間席を外していたとしたら、秋山は誰も居ないとみなして立ち去っていただろう。その場合、もう一度この場所を訪れる事は無いだろう。インターネットというのは、相手の姿が見えない分、すれ違いが起きる可能性が高い。
いつも歩いている商店街の店だったら第一印象が悪かったとしても、改装工事などをした後で目を引くような事があれば、もう一度立ち寄ってもらえる事もある。
しかし、ウェブサイトの場合は違う。
自分でブラウザを操作して、URLを入力するかリンクをクリックしなければ辿り着かない。最初に面白くないと感じたところには、よほどのことが無い限り、もう一度入力してみようなんて思わない。かなりシビアな世界だ。
ただ、今回は、偶然と言えども会話をする事ができた。
こういう偶然が起きるのは、どのくらいの確率なのだろう。まあ、せっかく出会ったのだから何か会話をしようと、秋山は話題を探り始める。
椅子に座ると、目線と同じ高さに水槽がある。蛍光灯で鮮やかに照らされた魚たちが、水草の後ろに隠れる。底に敷き詰められた砂利の合間から、小さな空気の泡が昇る。泡は水と空気の境目で弾けて消滅する。
その様子を見届けると、再びモニターに向き合った。
キーボードに両手が置かれたまま止まっている。
相手の顔が見えないインターネットでは、言葉の中に人格が宿る・・・少なくとも秋山は、そう考えている。入力する言葉がその人物の全てであり、それ以外のものは役に立たない。地位も名誉も学歴も職業も。どんなに吹聴しても意味が無い世界なのだ。
だから、初対面に近い関係の場合ほど、言葉を厳選しなければならない。ネット上で作られる人間関係が、実生活に関係してくる事は、まず無いと言って良い。害も利益もないからこそ、束の間だけ、紳士を演じることも悪人を演じることもできる。身の上の話だって、実際には有り得ないくらいの大嘘をついたとしても、一度回線を閉じてしまえば綺麗に消え去ってしまう。
そう。全ては第一印象。
まず最初に、どんな自分をアピールしたいかを、じっくりイメージすることが重要だ。
とは言っても、そろそろレスポンスを返したほうがいい。
秋山みたいな人間は、自分を偽らずに在りのままで行くのが良いだろう。どんなに気をつけても、すぐにボロがでるに決まっている。彼がそんなに器用な人間でないことは、自他共に認めている事実だ。
ユウ∧君が管理者?
ブルー∧そうです。
ユウ∧もしかして、誰かと待ち合わせ?
井戸端会議のように、いつも同じ時間帯、同じ場所で雑談をしている人間は意外と多い。秋山だって、行き付けのサイトにアクセスが出来ていたとしたら、今頃はいつもの仲間とくだらない話に花を咲かせていただろう。
ブルーも、いつもの仲間がアクセスしてくる時間帯だからパソコンの前にいたのかも知れない。それなら、最初の返答が早かったのも説明がつく。
しかし、次に表示された言葉は、秋山の想像とは違っていた。
ブルー∧いいえ。現在の状況から判断すると、結果としてあなたを待っていたことになります。
ユウ∧・・・なるほど。と、言う事は別に待ち合わせをしている訳じゃないんだ。
ブルー∧そう解釈していただいて良いと思います。
ブルーの発言は、なんとなく言い回しに特徴がある。秋山も少し戸惑う。
ユウ∧ブルーって男?女?
個人的なことを聞くのはネットのマナーに反するが、性別や住んでいる地域を(東京とか北海道とか程度で)聞くのは問題無い。むしろ、性別によっては話題にしないほうが良い事があったり、地域によって話題を盛り上げたりできるので最初に把握しておいたほうが良い。ただし、返答されたことが真実であるとは言い切れないが。
ブルー∧女です。
ユウ∧俺は男。
お互いに性別を確認するようなシチュエーションは滅多にない。少なくとも僕には経験がない。そんな場面に遭遇するとしたら、本当に妙なシーンなんだろうと思う。相手の性別が判別できない状態で、それを確認する必要性がある場面。・・・多分、そういう時は逃げたほうが良い。なんとなくだが。
ユウ∧このサイト、できたのって最近?
ブルー∧なぜ、そう思われますか?
ユウ∧あまりアクセスがないようだし、飾りがないから。
ブルー∧私の目的は会話をすることです。その目的に対して装飾は意味を持ちません。
ユウ∧ふーん。
まあ僕も、ただ話をしたいだけだから、異論はないけど。
ブルー∧あと、先ほどのご質問に対する返答ですが、このサイトは立ち上げてからちょうど三十分になります。
ユウ∧三十分!?
それならば彼女がすぐに返答してきたことにも納得できる。ページを作ってサーバにアップした直後だったのだ。僕よりも彼女の方が驚いたことだろう。公開した直後に書込みされたわけだ。
ユウ∧じゃあ、僕が最初の書きこみだ。
ブルー∧そうですね。
ユウ∧じゃあ、常連確定第一号ということで。
ブルー∧ぜひ、よろしくお願いします。
ユウ∧また来るよ。
わずかに間をおいて、続けて一文。
ブルー∧いつでも待っております。
まずは、導入部分。
事件やなぞが発生するのは、もうちょっと先になると思います。