宋襄の仁
中国の兵法家、孫子の有名な言葉に、「兵は詭道なり」というのがある。
「兵法とは、敵を欺く事だ。」という意味だ。
孫子の生きた春秋時代末〜戦国時代、諸国は知恵と力を尽くして戦い合い、だまし合い、利用し合った。
孫子もまた、時代の子といえよう。
しかし、もっと古代の戦争は違ったものであったらしい。
春秋時代初期の宋の襄公いわく、
「古の戦争では騙し討ちはせず、手負いの者は追わず、老兵は捕虜にせず、足場の悪い所にいる敵を苦しめなかった」という。
もっとも、宋の襄公の生きた時代にはこうした戦争の「礼」はすでに時代遅れのものだったようだ。
西周王朝が滅んで後、春秋時代になって、周は東に移って東周となって存続したものの、もはや力なく、互いに争い始めた諸国を止める力はなかった。
この時代の中国は多くの国々に分かれている。そうした国々の君主を諸侯という。
この時代、「王」は周の天子だけの称号なので諸侯は公と名乗っていた。
周は没落したとはいえ、諸侯はまだ周に敬意をはらっていたのだ。
その周に代わって、有力な国の君主が諸侯の盟主になって諸侯をまとめるようになった。
彼らを覇者という。
宋の襄公は春秋時代の国「宋」の君主である。
襄公は太子だが、目夷という兄がいた。目夷は正妻の子ではない、庶出の子である。
先代が病に伏せたとき、襄公は言った。
「目夷は仁者ですし、長子ですから、次の君主には目夷をつけて下さい。」
目夷は、庶出の子である自分が宋公になれば不満をもつ者が現れて、国内が不安定になると思って辞退した。
それで襄公は、宋公に即位した後目夷を宰相の地位につけた。
ある年、宋に隕石が降り、強風が吹いて鳥が空中であとずさりした。
周の内史が宋に来た時、襄公はこれが何の兆しか、吉兆か凶兆か尋ねた。
内史は言った。
「今年魯国に悲劇があり、来年斉国に乱があり、
あなたは諸侯に命令する地位につきますが、長くは続かないでしょう」
これ以来、襄公は自分が覇者になるのが天命だと信じるようになった。
もっとも例の内史は、後で人に
「宋公は妙なことを尋ねる。隕石や強風はただの自然現象、吉凶は人の行いしだいだ。」
と言っていた。
目夷は、襄公に対して不安を感じていた。
目夷は現代の考えになじんでいるが、襄公は古い儀礼にこだわり、迷信深い面がある。
彼のような人間がこの乱世を生き残れるのだろうか・・・
宋は、周より前の殷王朝の末裔の国である。
襄公にはかつて天下を有した王朝の子孫という自負があった。
殷代は敬神の念篤い時代だったといわれる。
襄公の態度にはこうした背景があったと思われる。
初代の覇者たる斉の桓公は、太子の昭の後見人を宋の襄公に頼んでいた。さて、内史のいった通り、斉の桓公が亡くなると、斉は後継者争いで内乱におちいった。
それで襄公は太子昭を連れて斉に軍を出し、他の後継者達を破って昭を斉公の地位につけ、斉の内乱を収めた。
予言が当たったこともあって、襄公は覇者を目指し始めた。
それで宋の周囲の小国を集めて会盟を開いた。
ある2つの国が同盟を結んだ。その国は異民族に隣り合っていたので、脅かされないよう土地神に生け贄を捧げて加護を願った。
その時宋の襄公は、片方の国の君主を生け贄にさせた。
生け贄と言っても殺すわけではなく血をとってそれを贄にするのだが傷つけることには変わりない。
目夷は言った。「こんな怪しげな神を祭るのにわざわざ人間を贄にするとは。
こんなむごい事をしていては覇者になどなれないだろう。」
襄公は言った。
「人の方で犠牲を払わなければ神も助けてはくれまい。」
やがて襄公は斉、楚と会盟して楚に盟主と認められた。
楚はもともと異民族の国であった。
中国の礼に合わせる義理もないので楚の君主は最初から王を名乗っていた。
中国進出を狙う楚の成王は、名門の宋を表に出して、実際の影響力は楚が持とうと思っていた。
目夷は言った。
「宋は弱小国です。
斉や楚や晋のような大国の盟主になろうとするのは危険です。
彼らが背いても宋にはこれを討つ力はありません。宋にとっては災いの元です。」
襄公は言った。
「盟主は軍事力によってなるものではない。天命によってなるのだ。
私が慎んで徳をおさめていれば天命も宋を去らないだろう。」
目夷は言った。
「そうはいいますが、斉も周も軍事力があったから諸侯の盟主たりえたのです。」
しかし襄公は聞かなかった。
やがて襄公は再び会盟を開き、楚にも来るよう命じた。
襄公は、自分が盟主にえらばれたのだから当然だと思っていたが、命令された楚の成王は怒った。
成王は、自分が宋の襄公を盟主にたててやったのだから、力関係を考えて宋が当然楚に遠慮すると思っていた。
それで成王は会盟の場に将軍を派遣して、宋の襄公を捕らえさせた。
成王は襄公に言った。
「私が宋をたててやったのは、宋が名門だからだ。だが実際に一番力を持っているのは我が楚だ。
真の覇者は私だ。それを忘れるなよ。」
襄公は言った。
「こんな事をやっているようでは、あなたは覇者にはなれないだろう。」
「何を言うか!」
成王は軍を出して宋の領内を荒らし回った後で、襄公を宋に帰した。
去りぎわに、成王は言った。
「宋公よ、前言ったことを忘れるなよ。」
襄公は言った。
「あなたは中国の礼を解っていないな。
もしあなたが盟主たるべき徳を持っていて、天命が我にありと思うなら、あなたが自分で盟主にでも、天子にでもなればいいのだ。私をたてておいて影で操ろうなどと卑怯なことをする必要などない。
だがあなたは暴乱の徒だから、私はあなたをそのままにはしておかないぞ。」
宋に帰った襄公は、楚を討とうとした。
目夷は止めた。
「宋と楚では軍事力の差は歴然としています。
戦っても勝ち目はありません。
すでに天命は殷を去って久しいのです。」
目夷は、襄公が殷の再興を目指している事に気付いていた。
襄公は言った。
「私は私怨を晴らそうというのではない。
盟主として、盟を破った暴乱の楚王を誅するのだ。
軍事力がないからといって楚王を野放しにはしておけない。」
「・・・どうしても討つというなら、初戦で勝って、それ以上は深入りしない事です。」
ちょうど鄭国が、宋に背いて楚についた。
それで襄公は鄭に軍を進め、楚も軍を出して鄭を救った。
両軍は泓水という地で戦った。
楚軍の前には河が流れていた。
宋軍は小数だが、楚軍は大軍である。
それで楚軍が河を渡っている間、目夷が言った。
「まともに戦っても勝てません。
今なら敵の虚を突けます。
攻めるなら今です。」
しかし襄公は許さなかった。
楚軍は河を渡り終えたが、まだ陣形を整えていなかった。
目夷は言った。
「攻めるなら今です。」
しかしまた襄公は許さなかった。
両軍、陣形を整えて正面からぶつかり合ったが、当然のごとく宋軍は大敗し、襄公は太ももに矢を受けた。
宋軍の死者はおびただしかった。
襄公は傷が悪化して病に伏せるようになった。
そこへ目夷が憤然として入って来て、言った。
「どうしてあの時、河を渡る楚軍を討たなかったのですか!!」
襄公は言った。
「君子は人の弱みに付け込んではならないのだ。
古の戦争では騙し討ちはせず、手負いの敵は追わず、老兵は捕虜にせず、足場の悪い所にいる敵を苦しめなかった。」
目夷は怒った。
「いったん戦争になったからには、勝つ事だけを考えるべきです!
どうしてそんな礼にこだわるのですか!!
公は宋人と楚人のどちらを大切に思っているのですか!?
今回の戦いで宋人は大勢死にました。彼らはきっと公を怨むでしょう。
ましてや楚は礼儀知らずの異族の国、公も楚の暴乱を誅すると言っていたではないですか!!」
襄公は沈痛な面持ちで言った。
「・・・そうかも知れない。
だが私は、天は人を偏り見ず、全ての人に平等だと聞いている。
だから私は、暴乱を誅するのに暴乱をもってしてはならないと思ったのだ。」
目夷は言った。
「・・・公よ、それは理想論です。
周の武王は、伯夷、叔斉に暴をもって暴にかえたと批判されましたが、そのおかげで周は天下を取りました。
公は武王が間違っているというのですか?
武王の時代でさえそうだったのです。
ましてや現代では、そんな理想は通りません。」
襄公は言った。
「・・・そうかも知れない。しかしその理想さえ無くなっては、何を頼りにしていけば良いのか。
すまなかったな宰相。私はもう楚を討つまい。」
この年、北方の晋の内乱で亡命していた晋の公子、重耳が宋を通った。
重耳は後の覇者、晋の文公である。
襄公は、重耳を国君に対する礼をもって歓待し、馬車二十乗を送った。(この時のよしみで、後年、楚が宋を攻めた時、晋の文公が宋を救って楚を破った。)
翌年、襄公は太ももの傷が原因で亡くなった。
死の床で目夷は言った。
「やはりあの時、河を渡る楚軍を討つべきでした。
そうしていれば、こんな事には・・・」
襄公は言った。
「しかし、あの時討っていたら、世の中はもっと暴乱になっていたかも知れない。
ああ、私はもう死ぬ。
私は地下で先君にまみえて、私が正しかったか間違っていたか裁きを受けよう。
これから中国はどうなるだろうか。
私は天下が平和になってくれればと思う。」
襄公の願い空しく、その後戦乱はさらに増し、後の戦国時代には諸侯は王を名乗り、天下をめぐって争うようになった。
軍隊は改良され、戦いはそれまで主に貴族の仕事だったのが一般から大量に徴兵されるようになり、戦争はより大規模になり、様々な兵器、戦術、戦略が生み出され、秦、漢の時代まで戦乱は続いた。
河を渡る敵を討たなかった宋の襄公は人々に批判され、後世無用な情けのことを「宋襄の仁」というようになった。
しかし中には襄公を評価する者もいた。
漢代の司馬遷いわく、
当世の君子の中には襄公を是とする者も多い。
当時は礼節が失われていたが、襄公には礼の心があったからだ。
と。
完