家で使用人のように扱われる地味な私が、行き倒れの男を助けたら、数日後その人が『氷帝』と畏れられる大帝国の皇帝として私を后に選びに来ました 〜今さら姉を推してくる実家には、もう用はございません〜
一
「ノエラ! 暖炉の火が消えかけているじゃないの。気が利かない子ね!」
姉のアマリアの鋭い声が飛んでくる。私は慌てて薪を運び、暖炉にくべた。
子爵家の末娘。それが私、ノエラ・リンドヴァルだった。けれどこの家で令嬢として扱われることは、まずない。
社交界の華と謳われる美しい姉アマリア。両親の愛情も屋敷の贅も、すべては姉のものだった。地味で目立たず、取り柄といえば刺繍くらいの私は、物心ついた頃から半ば使用人のようにこき使われてきた。
「まったく、お前は本当に華のない娘だこと」
母がため息をつく。「アマリアの半分でも見栄えがよければ良い縁談も望めたものを。刺繍なんぞ、いくら上手くとも貴族の令嬢に必要な技能ではないのですよ」
刺繍だけが、私のたった一つの誇りだった。夜、皆が寝静まったあと、小さなランプの灯りで静かに針を運ぶ。糸を選び、模様を編み、布の上に小さな世界を描いていく。その時間だけが、私が私でいられる唯一の時間だった。
けれど、その手仕事さえ、この家では地味な暇つぶしと嗤われる。それでも私は投げ出さなかった。誰にも認められずとも、この静かな営みが心の支えだったから。
その夜も、私は屋敷を抜け出していた。裏庭の先の丘の上に、もう誰も使わなくなった古い礼拝堂がある。忘れられたその場所で一人刺繍をするのが、私は好きだった。
雪が静かに降り始めていた。礼拝堂の扉を開けたとき、私は倒れている一人の男を見つけた。
二
「大丈夫ですか。しっかりなさって!」
駆け寄ると、男はひどい怪我を負っていた。脇腹から血が滲み、高い熱でうわ言を漏らして、意識も朦朧としているようだった。旅の途中で賊にでも襲われたのだろうか。身なりは上等だが泥と血に汚れ、素性はまるでわからなかった。
けれど、そんなことはどうでもよかった。目の前に苦しんでいる人がいる。それだけで十分だった。
私は屋敷からこっそり必要なものを運び込んだ。清潔な布、傷の手当ての道具、なけなしのパンと温かいスープ。誰にも気づかれぬよう、この忘れられた礼拝堂を密かな療養所にした。
「ん……ここは……」
数日後、ようやく意識を取り戻した男は、警戒するように私を見た。氷のように冷たい青灰色の瞳。整った、けれどどこか近寄りがたい精悍な顔立ち。目覚めてなお、その身にまとう空気は、ただ者ではないと感じさせるものがあった。
「目が覚めてよかった。無理をなさらないで。まだ傷が塞がっていませんから」
そっとスープを差し出すと、男は訝しげに眉を寄せた。「なぜ私を助ける。私が何者か、お前は知らんだろう」
「存じません」私は微笑んだ。「けれど、苦しんでいる人を助けるのに、その人が誰であるかなど関係ありますか。あなたは困っていた。それだけで十分ですわ」
男がはっと息を呑んだ。まるで、そんな言葉を生まれて初めて聞いたとでもいうように。
それから数日、私は彼を看病し続けた。彼は多くを語らなかったが、私が刺繍をしていると、静かにそれを眺めていた。
「見事な腕だな」ある日、彼がぽつりと言った。「その模様は古い帝国式の紋様か。庶民がこれほどのものを縫えるとは」
「まあ、おわかりになるのですか」
私は驚いた。この紋様の由来を知る人など、そうそういない。実家では誰も私の刺繍に興味すら示さなかったのに。
「あなたに差し上げますわ」
縫い上げたばかりのハンカチを手渡した。冬の凍える手を少しでも温められるようにと、丁寧に刺繍を施したものだ。「旅のお守りに。あなたの旅路がどうか無事でありますように」
彼はしばらく、そのハンカチをじっと見つめていた。氷のようだった瞳が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
やがて傷が癒えた彼は、旅立ちの朝を迎えた。
「世話になった。この恩は必ず返す」
まっすぐに私を見つめて、彼はそう告げた。
「恩だなんて。当たり前のことをしただけですわ。どうかお気になさらず」
私が微笑むと、彼は何か言いたげに口を開きかけ、けれど結局、何も言わずに去っていった。
私は彼の名前すら聞かなかった。彼も名乗らなかった。それでいいと思った。ただ、あの人の旅が無事であればいい。それが私たちの最初の出会いだった。
三
それからひと月ほど過ぎた頃、王国中を揺るがす報せが飛び込んできた。
大帝国の皇帝が、この国を訪問するというのだ。
大陸の半分を統べるヴェルンハルト大帝国。その若き皇帝は、冷酷無比、氷帝と畏れられる絶対の支配者だった。逆らう者は容赦なく打ち砕き、感情を見せぬその統治は、大陸中に畏怖をもって知られている。その皇帝が、同盟締結のため、この小国を直々に訪れるという。
もう一つ、令嬢たちを色めき立たせる噂があった。皇帝はいまだ后を持たぬ身であり、此度の訪問でこの国の令嬢の中から后を選ぶやもしれぬ、というのだ。
我が娘を皇帝の后に。その野心に、屋敷という屋敷が沸き返った。私の実家も例外ではない。
「アマリア、お前こそ皇帝陛下の后にふさわしい。全力で着飾らせますよ!」
母が興奮した様子で、姉に最高級のドレスと宝石を次々とあてがう。アマリアは勝ち誇ったように微笑んでいた。「うふふ。氷帝陛下も、わたくしを一目見れば、きっと心を奪われますわ」
そして謁見の日、母は冷たく私に命じた。
「ノエラ、お前は謁見の間で給仕を務めなさい。くれぐれも粗相のないように。お前のような地味な娘が皇帝陛下の目に留まっては、我が家の恥。目立たぬよう、隅で大人しくしているのですよ」
私は静かに頷いた。給仕係。皇帝の訪問という晴れ舞台でも、この家での私の役割は変わらなかった。
不思議と悲しくはなかった。私はあの旅人のことを思い出していた。名も知らぬあの人。私の刺繍を初めて褒めてくれた人。あの人の旅が無事であればいい。ただそれだけを願いながら。
四
謁見の間は、着飾った令嬢たちであふれていた。誰もが后の座を狙い、最高の装いでその時を待っている。姉アマリアもまばゆいばかりのドレスをまとい、自信に満ちた笑みを浮かべていた。
私は地味な給仕服に身を包み、隅で静かに飲み物の盆を支えていた。
やがて謁見の間の重い扉が開かれた。現れたその人を見て、私は息を呑んだ。
漆黒の礼服に黄金の冠。そして、あの氷のように冷たい青灰色の瞳。
あの雪の夜、礼拝堂で助けた名も知らぬ旅人。あの人が、大帝国の氷帝そのひとだったのだ。
謁見の間に緊張が走る。氷帝のあまりの威圧感に、令嬢たちが息を潜めた。皇帝は玉座に着くと、ゆっくりと居並ぶ令嬢たちを見渡す。その視線は氷のように冷たく、どの令嬢の美貌にも心を動かされる様子はなかった。
我先にと着飾った令嬢たちが、必死にその視線を引こうとする。姉アマリアも優雅に礼をして微笑みかけた。けれど氷帝は、その誰にも目もくれなかった。
彼はふいに玉座から立ち上がり、まっすぐ謁見の間の隅へと歩いてきた。給仕係として控えていた、私のもとへ。
「へ、陛下!? そちらはただの給仕で……!」
慌てる母の声を、皇帝は完全に無視した。彼は私の前で足を止め、氷のような瞳でまっすぐ私を見つめる。そして懐から、一枚のハンカチを取り出した。
帝国式の紋様が丁寧に刺繍された、あのお守り。雪の夜に私が手渡した、あのハンカチだった。
「ようやく見つけた」
低い、けれど確かに震えた声で、彼は言った。「名も告げず私を救い、何ひとつ見返りを求めなかった、あなたを」
謁見の間が、水を打ったように静まり返った。
五
「陛下……あなたは、あのときの……」
私が掠れた声で呟くと、皇帝ジークヴァルトは静かに頷いた。
「あの雪の夜、私は政敵の刺客に襲われ、深手を負ってあの礼拝堂にたどり着いた。誰も私が皇帝だとは知らなかった。名乗ればどんな見返りでも得られただろう。だが私は、あえて名乗らなかった」
彼の瞳がまっすぐ私を射抜く。「試したかったのだ。皇帝でもなく、権力も持たぬ、ただの行き倒れの男に、人がどう接するのかを。私はこれまで、皇帝としての私にしか近づいてくる者を見たことがなかった。誰もが私の権力を、富を、地位を求めた。私自身を見た者など、一人もいなかった」
彼はそっと、あのハンカチを握りしめた。「だが、あなたは違った。何者かも知れぬ私に、なけなしのパンを分け、凍える手を温め、ただ一人の人間として救ってくれた。見返りなど一切求めずに」
その声に、冷酷と畏れられた氷帝の、隠されていた孤独が滲んだ。
「あの日から私はずっとあなたを探していた。名も家も聞かなかったことを悔いながら。この国にあなたがいると知り、同盟を口実に、自らここへ足を運んだのだ」
胸がいっぱいになった。地味だと嗤われ、給仕係として隅に追いやられたこの私を、大陸を統べる皇帝がたった一人、探し続けてくれた。私の権力でも美貌でもなく、ただあの夜の私自身を。
「ノエラ・リンドヴァル」
彼は私の名を呼んだ。いつの間に調べたのだろう。「私の后になってほしい。地位のためでも同盟のためでもない。あなたがあなただから、私はあなたを望んでいる」
謁見の間がどよめいた。そのとき、母が青ざめた顔で飛び出してきた。
「陛下、お待ちください! その娘は我が家の出来損ないの末娘。后には姉のアマリアこそふさわしゅうございます。どうか、どうかこちらを!」
必死に姉を皇帝の前に押し出そうとする。アマリアも引きつった笑みを浮かべ、すり寄ろうとした。
「下がれ」
氷帝のたった一言が、母と姉をその場に凍りつかせた。
「この娘を出来損ないと呼んだか」彼の声に、静かな、けれど絶対的な怒りが宿る。「ならば問おう。着飾ることしか知らぬお前たちが、名も知らぬ行き倒れになけなしのパンを差し出せるか。見返りを求めず、凍える手を温められるか。この娘の価値がわからぬ者に、后を語る資格はない」
母と姉は言葉を失った。
皇帝は私に向き直り、そっと手を差し伸べた。「ノエラ。あなたの答えを聞かせてほしい」
私はその手を、両手で包んだ。「喜んで、陛下。いいえ――わたくしを探してくださって、わたくし自身を見てくださって、ありがとうございます」
終
大帝国へ向かう馬車の中で、私は窓の外を流れていく景色を眺めていた。初めて見る風景だった。
「怖くはないか」隣に座るジークヴァルトが静かに問う。「あの家を、あの国を離れることが」
私は少し考えて、首を振った。「いいえ、少しも。ずっとあの家に居場所がないと思っておりました。でも今ならわかります。わたくしの居場所は、初めからあそこにはなかったのだと」
ジークヴァルトが私を見つめる。氷のようだった瞳は、今は驚くほど温かかった。
「あなたは自分の価値を、間違った場所で量られ続けていた」彼の手が私の手に重ねられる。「着飾ることも華やかに振る舞うことも、后には必要ない。私が求めるのは、権力に媚びず、名もなき者にすら手を差し伸べられる、あなたのその心だ。それこそが大帝国の頂に立つ者の隣にふさわしい、唯一の資質だ」
その言葉に、私はこらえきれず微笑んだ。「ずいぶんと買いかぶってくださるのですね。皇帝陛下ともあろう御方が」
「事実を述べているだけだ」
彼はふ、と口の端を緩めた。氷帝が見せるその珍しい表情に、私の胸は静かに高鳴った。
「それに」彼はあのハンカチをそっと取り出した。ひと月、肌身離さず持ち歩いていたのだろう。少しくたびれた、けれど大切にされてきたことがわかるハンカチだった。「あの夜あなたがくれたこの温もりを、私は生涯忘れない。凍りついていた私の心を溶かしてくれたのは、あなただ、ノエラ」
そのまっすぐな言葉に、頬がじわりと熱くなった。
馬車が緩やかな丘を越えると、眼下に大帝国の壮麗な城が見えてきた。これから私が生きていく場所。私を私自身として見てくれる人の隣で。
「ようこそ、我が帝国へ。私の后」
差し出された手に、私は今度こそ迷わず、自分の手を重ねた。
地味だと嗤われ、華がないと蔑まれ、給仕係として隅に追いやられ、誰にも省みられなかった。けれど違ったのだ。私は価値がなかったのではなく、ただその価値を正しく量れる場所に、まだいなかっただけ。
あの雪の夜、私は見返りを求めず、ただ一人の人を助けた。そのささやかな優しさが、名もなき夜のたった一つの温もりが、巡り巡って私をこの人のもとへ導いてくれた。
地味なままでよかったと、心から思う。飾らないその私を、この人は大陸でたった一人、探し出して選んでくれたのだから。




