やり直す?ご冗談を。あなたと夫婦だったことは一度もありません
アディンセル公爵家からの縁談をウェルティ子爵家が断る余地はなかった。
『あの女は色じかけでジャレッドさまを落とした』。しばらく社交界ではそんな陰口がささやかれ、結婚から一年もするとそれはこう変わった。
『ジャレッドさまとセシリアの寝室はもう別になったらしいわ』
『やっぱり。あんな地味な女、ジャレッドさまが相手にするなんておかしいとは思っていたの』
『なんでもあのマドリーンさまを愛人として屋敷に迎えたとか……』
『家柄も容姿も文句なしね。あの方こそアディンセル公爵夫人にふさわしいわ』
『ジャレッドさまはおっしゃっていたわよ、"先にマドリーンと出会っていたらあんな女と結婚なんてしなかったのに"って』
表面上は笑顔を浮かべ、そうそうたる顔ぶれの貴族たちに挨拶をしながら私は聞こえよがしにささやかれる噂を聞きながす。
どこから漏れるのか噂はほぼ真実だった。結婚から一年で夫と私の寝室が別になったことも、侯爵令嬢のマドリーンが屋敷に住み、まるで本妻のような顔でふるまっているのも。
私は離れたところでワイングラス片手に知人と談笑しているジャレッドをちらりと見る。
『きみの瞳は黒曜石のようだ。その髪も夜で編んだかのように美しい。僕は一瞬で恋に落ちてしまった。縁談を受けいれてくれてありがとう、セシリア』
『……あぁ、なんだ。まだここにいたのか。さっさと屋敷をでていったらどうだ? 貧乏子爵家がうちからの支援なしでやっていけるとは思わないがな』
『その辛気臭い顔を見ると吐き気がする』
『おい、ドレスを脱げ。ひざまずけ。そしてそこでマドリーンがどれだけ美しいかその目でよく見ていろ。ベッドの上での公爵夫人のふるまいをな』
夫の寝室で見せられたものが脳裏によみがえりそうになり、私はあわてて首を振った。夫はすでに私を妻として扱うことはやめ、辱めて遊ぶための道具としか見ていなかった。
夫の心を取りもどせないか努力はした。私の肌に合うドレスとアクセサリーで着飾るだけでなく、公爵夫人としてのふるまいをあらためて学びなおし、彼が夢中になっているボードゲームの相手になれるよう努力した。彼の好物のつぐみのパイを焼いたこともあった。けれどジャレッドはますます私に冷淡になるだけだった。
ほんとうならもう家をでてしまいたい。けれどそうしたら実家への支援が打ちきられるだけでなく、報復として家が取りつぶされるだろう。ジャレッドはそういう男だとこの一年でよくわかっていた。
両親への手紙にはなにも心配しなくていい、夫はとてもやさしくて私は満ちたりた生活をしていますと書いていた。私を大切に育ててくれたふたりに余計な心配はかけたくなかった。
――たえなくちゃ。だいじょうぶ、私ひとりが我慢すればいいんだから……。
そのときふいにめまいがした。私の手からワイングラスがすべりおち、「あ――」割れてしまう、と思った瞬間だれかの手が横から伸びてきてそれをつかまえる。
「――顔色が悪いですよ。ご加減が悪いのでは?」
「え、あ……」
それは信じられないことにエグバートさまだった。この国の第二王子。
私は取りみだしそうになるのを抑え、公爵夫人として取りすました顔でお礼を言う。
「よければ夜風にでもあたりましょう」と彼はグラスを付き人に渡すと私をバルコニーへといざなう。恐れおおいが断るのも不躾だと思い、エスコートされるままになった。
繊細な銀色の髪に緑色の瞳は作りもののように美しい。そして内側から王族としての品がにじみでていて、公爵なのに下品な笑みを浮かべる夫とくらべてしまい胸が痛くなる。
「ベロニカ夫人はご健勝ですか?」
「ありがとうございます。義母は変わらず大作に挑んでおりますわ」
義母、ベロニカの趣味は絵を描くことだ。それも壁画を描くために敷地内に礼拝堂を建てるという豪快っぷり。そしてそんな行動とは裏腹にとても繊細で美しい絵を描く。
もっとも、ジャレッドの性格は彼女ゆずりだろうと思わされる毎日なのだけれど……。
礼拝堂の話をするとエグバードさまは「それは面白い」と笑みを見せる。
彼が笑ってくれたことが嬉しくて、私は義母の話をつづけた。屋敷内で自分が貶められていることなどまったく顔にださずに。
「私はあなたが嫁いでくるまえから言っていました。あなたは公爵夫人にふさわしくないと」
「…………」
「あの子が一時の気の迷いで結婚を決めなければこんなことにならなかったのに。ああ、ほんとうに恥ずかしい」
「申しわけございません……」
「いいえ、謝ることはありません。私がジャレッドを止めるべきだったのです。あなたを妻として屋敷に迎えてもいいことなどなにもないと」
舞踏会から数週間が経った。
夜、屋敷の玄関ホールで偶然顔をあわせた義母が私を鋭いまなざしでにらんで嫌味をぶつけてきた。私はひたすら頭を下げつづける。
義理の母親からの嫌味は堪えるが、ジャレッドのように私の価値自体を貶めてこないだけまだましだった。
「そもそもあなたは――」
「母上、もうそのあたりで」
義母を止めたのは意外にもジャレッドだった。隣には同性でも見とれてしまうほどの美女、マドリーンがいる。
夫が私を助けるなんてこと、この一年で一度もなかった。
目を丸くしたが、助けられたと思ったのは勘違いだったとすぐに思い知らされる。
「ひとつたりとも書き漏らすなよ」
私は寝室に連れてこられた。そして床に直接座らされ、ベッドの上のふたりがいまなにをしているかを事細かに書くことを命じられた。
夫と愛人が愛しあうさまを、だ。
「読めるものだったら出版社に取り次いであげるわ。タイトルは『アディンセル公爵夫人の屈辱の手記』でどう? 妻が書く夫と愛人の情交を書いた手記なんて話題になるわ」
「いいな。大ヒット間違いなしだ」
ふたりはげらげらと笑う。私にホールで声をかけるまえから飲んでいたらしく、部屋はアルコールの匂いでいっぱいだった。
私は屈辱で震える手でその言葉も紙に書き留めた。ふたりは私を貶めるためならほんとうに煽情的な手記を出版しかねない。
悔しい。でも泣いてはいけない。そんなことをしたら余計に喜ばせるだけだ。私が泣いてもふたりは手を叩いて笑うだけ。
私は自分の顔が鉄になったと想像する。すこしでもひきつったりしたら負けだと――
「……なんだその顔は?」
けれどそれが気に食わなかったらしい。ジャレッドは眉をつりあげるとおもむろに立ちあがる。
「……私はあなたに命じられたとおりにしているだけです」
「夫と愛人が睦みあうところを書けと命じられたんだぞ。もっと悔しそうにしたらどうだ!」
――そこまでの愛情、私があなたにまだ持っているはずがない。
口にはしなかった。けどなにかを感じとったのか、ジャレッドはサイドテーブルに置いてあった花瓶を手に取る。
そして私の頭の上でさかさまにした。飾られていたバラと入っていた水が私めがけて落ちてくる。
頭からずぶぬれになった私はそれでも表情を変えずにいた。
「この女……っ!」
ジャレッドは激昂して花瓶をふりかぶる。
ああ、私は殺されるんだ。かつてあんなに愛しあっていたはずの男に――。
そう思って目を閉じた。だが衝撃はやってこず、かわりに「いくら公爵でも殺人はもみ消せませんよ」と冷静な男性の声がした。
私は目を開く。
そこには剣を携えた知らない男性がいて、ジャレッドの腕を片手でつかんでいた。
「な、なっ――」
なにが起きているかわからないのはジャレッドたちも同様だったらしい。「なんだおまえは」と怒鳴ってから、彼の胸のエンブレムに目を留める。
第二王子付きの騎士団だけがつけることを許されるエンブレムだった。
ジャレッドは畏怖を覚えたように後ずさる。
「なんとか間に合ったようですね」
部屋に入ってきたエグバードさまは私の傍らに片膝をつくと、「ああ、こんなにずぶぬれになって……。お怪我は?」とハンカチで私の頬をぬぐいながら聞いてくる。ありません、と反射的に答えたがなぜ彼がここにいるのかがわからなかった。
「あ、あの……?」
「ベロニカ夫人からすぐにきてほしいと言われました」
「お義母さまから――?」
彼はうなずく。「悪酔いした息子はなにをするかわからない。念のため腕の立つ騎士と一緒にきてほしいと」
息子が人殺しになることは避けたかったのか。けれど、それでなぜエグバードさまをお呼びになったのだろう。
ぽかんとしていると義母が顔を覗かせた。そして最悪の事態は避けられたことを知り、ふうと溜め息をつく。
「ほんとうに残念です、ジャレッド。あなたの悪癖は何歳になっても治りませんでしたね」
「は、母上……?」
「――エグバードさま。いままで隠ぺいしてきた息子の悪行はすべておおやけにいたします。息子かわいさにあなたに泣きついたこともございましたが……もう限界です。この罪は母としてともに償います」
「……それがあなたの意志なら。ベロニカ夫人」
だから言ったのです、と義母は私を見つめる。憐れむような瞳で。
「ジャレッドが一時の気の迷いであなたとの結婚を決めなければこんなことにならなかったのに。この一年、息子のふるまいを母として恥じるばかりでした。私がジャレッドを止めるべきだったのです。あなたを妻として屋敷に迎えても、あなたにはいいことなどなにもないと」
「……!」
ただの嫌味だと思っていた。でも彼女は本心を言っていたのだ。
私を心配して。
「ジャレッドにばれないように警告を送るにはこうするしかありませんでした。
……でも、もう正直に告げてもかまいませんね、セシリア」
「お義母さま――」
義母に初めて名前を呼ばれた。
ほんとうは不器用なのだろう、彼女はぎこちなく微笑むと私に向けて言う。
「あなたは公爵夫人にふさわしくありません。もっと、素敵な方と結婚なさい」
思わず涙をにじませる私の手をエグバードさまが取る。
「ま、待て! どういうことだ――どういうことですか、母上!」
「言葉の通りです。セシリアとは離縁いたします。もちろん、アディンセル公爵家の有責で」
「な、なにを言って」
「女性を尊ぶべきと亡きおとうさまはあなたに教えたはずでしたのに。……でも、かまいませんよ。あなたが罪を償うなら私はいつまでもそれを見守りますから。たとえ公爵家の地位を取りあげられ、最悪、家の名がなくなっても」
「そんな――!」
ジャレッドは青ざめる。と、私と目が合った。
「せ、セシリア……。おまえは俺を見捨てないよな……?」
「ひっ……」
ゴーストのようにふらふらと彼は私のもとへくる。私はとっさに立ちあがると後ずさった。
「あんなに愛してやったじゃないか。そうだ、やり直そう。これまでのことはすべて謝る。マドリーンとも別れる。もともとこんな女好みじゃなかったんだ」
「はあ!? うそでしょ、散々ふたりでその女をバカにしてきたのに――」
「うるせえおまえは黙ってろ!」
マドリーンに怒鳴り返すとジャレッドは私を見る。
お義母さまとはぜんぜんちがう、へらへらとした媚びた豚のような笑みで「頼むよ」と言った。
「つらいことも助けあっていくのが夫婦だろ。な? セシリア」
「…………」
「なあ、ふたりでやりなお――」
「……どの口が夫婦を語るのですか?」
「え……」
「やり直す? ご冗談を。あなたと夫婦だったことは一度もありません。近寄らないでくださいませ」
「な、なんでそんなこと言うんだ! セシリ――」
ジャレッドが伸ばしてきた手をエグバードさまがふりはらう。
「下がれ」とエグバードさまは剣のように鋭い声で言った。
「もうおまえに用はない」
ジャレッドはうなだれる。
「さあ行こう。いや、まずは着替えてきてください」とエグバードさまは私をいつかの夜のようにエスコートした。
部屋の入り口にいるお義母さまと目が合う。
彼女が小さくうなずくのを見届けたあと、私とエグバードさまは廊下にでた。彼はそっとささやく。
「ベロニカ夫人から手紙を受けとりました。アディンセル家になにかあったらあなたのことをよろしくお願いしますと。
あなたはなにがあっても耐えぬく力を持った強い女性だ。あんな息子の妻として一生を終えてはいけない、ふさわしい場所ではばたけるようにしてほしい、と」
「そう、だったのですか……」
「もしあなたさえよろしければ──」
エグバードさまは片手を私にさしだす。
「私はあなたの新しい居場所になりたい。この手を取っていただけますか?」




