第72話 透明性は理想か
多国間への拡張を前に、非公式の会談が設けられた。
場所はハルフェンの港湾会議室。出席者は二人だけだった。記録係も置いていない。置かないことを、どちらも言い出さなかった。
「透明性は拡張する」
イグナーツが静かに言う。
「予想はしていましたが、早い」
「小国ほど必要とします」
エリシアは答える。
「非対称は圧力になりますから」
イグナーツは頷いた。頷いてから、卓の木目を一度撫でる。港の会議室の卓は、王宮のものより手触りが粗い。
「透明性は、武器にもなる」
「ええ」
「だが、理想ではない」
その言葉に、エリシアは視線を上げた。理想ではない、と言われるのは初めてではない。だが、賛成している側から言われたのは初めてだった。
「理想ではない」
「透明性は常に緊張を生みます」
イグナーツは続ける。
「弱点を晒し、比較を生み、競争を加速させる」
「隠蔽よりは健全です」
「隠蔽は腐敗を生む。だが、過剰な透明は社会を疲弊させる」
短い沈黙。窓の下で、荷を積み終えた船の綱が緩む音がした。
「あなたは透明性を信じている」
「信じてはいません」
エリシアは静かに返した。
「選んでいるだけです」
その答えに、イグナーツの目がわずかに揺れた。信じていない、という答えを、彼はたぶん予想していなかった。
「選択ですか」
「公開は正義ではありません。万能でもありません。ですが、非公開より責任の所在が明確になります」
責任。その言葉が重く落ちる。所在が明確になるということは、逃げ場が減るということでもある。
「帝国は責任を恐れません」
「王国もです」
「だが、他国は」
イグナーツは問いを投げる。他国、という言い方をしたとき、彼は自国のことも数に入れていた。
「透明性に耐えられない国もある」
「耐えられなければ、拡張は止まります」
エリシアの声は落ち着いていた。
「透明性は強制ではありません。参加は選択です。拒否する自由もあります」
それは理念の核心だった。核心はたいてい、条文のいちばん短いところに置いてある。
「一つ、伺います」
イグナーツは言った。
「あなたは、疲弊した社会を見たことがありますか」
エリシアは即答しなかった。答えを探したのではない。見たことがない、と認める順番を選んでいた。
「ありません」
「私はあります」
彼は続ける。声の調子は変わらない。変わらないまま、話の中身だけが個人のものになった。
「二十年ほど前、帝国の北の州で、農地の収量をすべて公開させた時期がありました。三年で不正はなくなりました。四年目に、収量の低い村から人が消えました。誰も追い出していません。全員が、自分で出ていった」
「記録は」
「残っています。誰も読みません」
イグナーツは言った。
「読む理由がないからです。不正がなくなった年の記録ですから」
エリシアは、しばらく黙っていた。人が消えた、という言い方の中に、追い出したという語が一つも入っていない。
「その記録を、いただけますか」
「何に使う」
「読む理由を作ります」
イグナーツは、初めて声を出さずに笑った。読む理由を作る、という答えを、彼は繰り返さなかった。
「あなたは理想家ではない」
「設計者です」
「いえ」
彼は首を振った。
「あなたは戦略家です」
静かな笑みが交わされる。戦略家、という語を、彼女は否定も肯定もしなかった。
「帝国は多国間への拡張を阻止しません。ただし、管理できる範囲で」
「均衡は維持されます」
エリシアは頷いた。
「均衡は、緊張の上に立ちます」
窓の外、港の灯りが揺れている。夜番の交代までは、まだ間がある。
「透明性は理想ではない」
イグナーツが最後に言う。
「戦略だ」
「はい」
エリシアは答えた。
「だからこそ、選ぶ価値があります」
彼が退室したあと、机の上に薄い綴りが一冊残されていた。表紙に何も書いていない。二十年前の、北の州の収量表だった。
理想家ではなく、設計者でもなく、戦略家。呼び名が三つ変わるあいだ、エリシアは一度も強く否定していません。北の州の収量表は、この作品で初めて「不正がなくなった年の記録」が出た箇所です。読む理由を作る、と彼女は言いました。五カ国が同じ様式を卓に並べる回が来ます。協定は発効し、当直の職員が閲覧履歴に妙な一行を見つけます。




