第35話 選ばないという選択
返事は、すぐには出さなかった。
王国にも、同盟にも、商会連合にも。肯定も否定もせず、ただ保留。それだけで、空気が変わった。
王宮では、第一王子レオンハルトが報告書から顔を上げていた。
「まだ回答がないのか」
「はい。検討中とのことです」
「……検討とは、何をだ」
焦りは声に出ない。だが、執務机に置かれた指先がわずかに強張る。
戻ってくる可能性はある。だが、時間が経つほど、外の圧は強くなる。
「期限を区切るべきでは」
官僚の一人が提案する。
レオンハルトは即答しなかった。期限を設ければ拒絶される。設けなければ主導権は握れない。
「……様子を見る」
それは、決断の先延ばしだった。言ってから、彼は自分の言葉を書き取っている書記のほうを見た。書記は、様子を見る、とそのまま書いていた。
同盟からは、翌日に短い書簡が届いた。管理枠の準備だけは進める、本人の同意がなくとも制度展開は止められない、という一文。アルノーの筆跡ではなかった。善意は、待てない。
商会連合からは、何も届かなかった。届かないことが、いちばん明確な返事だった。
その夜、エリシアの執務室は静かだった。
「……何も返さないのですね」
ヴァルドが確認する。
「ええ」
「圧は強まります」
「分かっています」
それでも、今は動かない。白紙の中央に書かれた一文を、エリシアは見つめる。
『ここは、誰のものでもない』
選べば、誰かのものになる。選ばなければ、空白のままだ。だが、空白は不安を呼ぶ。人は、空白を埋めたがる。
「怖くはありませんか」
ヴァルドがふと問う。
「怖いですよ」
エリシアはあっさりと答えた。
「ですが、焦りに応じて選べば、最初から所有を認めることになります」
窓の外では、港の灯りが揺れている。制度はまだ小さい。だが、目立ち始めた。
選ばないというのは、何もしないことではない。待つほうが得になる位置に、自分を置き続ける作業だ。その位置は、放っておくと勝手に動く。
翌朝、市場で小さな混乱が起きた。非公式の模倣制度が、資金繰りに失敗したのだ。
「……早いですね」
ヴァルドが報告する。
「ええ」
エリシアは静かに頷いた。
「空白を、急いで埋めた結果です」
彼女は届いた一覧に目を落とし、途中で手を止めた。
参加していた小口の商会の並びに、見覚えのある屋号があった。ハウレル商会。地方都市レイデルで店を閉じたはずの卸だ。
「これは、一度潰れています」
「同じ名前で、また出したんでしょう」
ヴァルドが言う。
「珍しくはない。屋号は資産ですから」
エリシアは、以前に貼った切り抜きの頁を開いた。廃業の告知。屋号と、店主の名と、長年の御礼という短い文。
その隣に、今日の一覧の写しを並べる。同じ屋号が、二度並んだ。
「……救いには行きません」
彼女は言った。誰に言ったのでもない。
救えば、この人は三度目に自分の判断で潰れる機会を失う。救わなければ、二度目で終わるかもしれない。どちらが正しいかを決める材料を、彼女は持っていなかった。
「記録は」
ヴァルドが聞く。
「します」
エリシアはペンを取り、新しい行を起こした。
『模倣:資金不足により停止 原因:拡大優先』
書いてから、その行の下に、屋号をもう一度書いた。二度目の行には、印をつけなかった。印をつければ、後で自分が探しに行ってしまうからだ。
救わない、と決めた人の行の下に、屋号をもう一度書いて印をつけない。あの一行を書かせるためだけに、この話を組みました。市場に「フリーフロー方式」という耳触りのいい名前が出回るのは、次の話です。設計者の名がない、というのが売りです。ブックマークと評価は、検品の控えに綴じておきます。傷んだ分は、誰の帳簿にも載りませんので。




