第20話 見える被害
王都の市場に、奇妙な空白が生まれた。
棚が空になっているわけではない。値が跳ね上がったわけでもない。ただ、いつも当たり前にあったものが、ない。
「……まだ入らないの」
青果店の女主人が、仕入れ帳を見ながら眉をひそめた。
「例年なら、もう三回は届いているはずよ」
「さあな」
卸商は肩をすくめる。
「基準変更があってから、流れが変わった。遅れているだけだと思うが」
遅れているだけ。その言葉は、どこかで聞いた覚えがあった。
女主人は仕入れ帳をめくり、去年の同じ月の頁を開いた。仕入先の欄に並ぶ屋号のうち、二つに横線が引いてある。線を引いたのは自分だ。引いたときは、来月には別の店から入ると思っていた。
昼過ぎ、市場の一角で小さな口論が起きた。
「今日は、これしか出せない」
「それじゃ足りないんだ」
加工品を扱う露店が、商品数を減らしている。理由は単純だった。原料が来ない。地方都市レイデルで起きていた遅延が、時間差で王都に届いただけだ。
だが、ここまで来ると現場の声では済まされない。
王国監査局では、クレア・ミルトンが朝から届く報告を整理していた。
「……加工業者、三件停止」
数字は小さい。国全体から見れば誤差だ。だが、彼女は分かっていた。これは点ではない。連鎖の、最初の節だ。
三件のうち一件に、見覚えのある屋号があった。ハウレル商会。先週、地方紙の隅に廃業の告知が出ていた店だ。停止と廃業は別の欄に載る。同じ店だと分かるのは、両方を見た人間だけだった。
「クレア」
上司が軽く声をかける。
「市場が少し騒がしいようだが、想定内だな」
「……はい」
クレアは即答できなかった。だが、否定もできない。想定内。確かに、改革案には初期混乱と書かれている。
「問題が大きくなる前に、数字で説明できる資料をまとめておけ」
「……分かりました」
席に戻りながら、クレアは胸の奥に重たいものを感じていた。説明できる数字はある。だが、説明できない変化が増えている。
彼女は帳票の余白に、屋号を二つ書いた。それから、その二つを線でつないだ。線を引いた欄は、どの様式にも存在しない。
その夜、王宮では簡易報告が行われていた。
「市場への影響は限定的です」
「供給不足は一時的なものです」
「基準値は維持されています」
第一王子レオンハルトは報告を聞き、静かに頷いた。
「なら、問題ない」
その判断は冷静だった。少なくとも、数字の上では。
「殿下」
宰相ヘルムートが低い声で言う。
「見える被害が出始めています」
「致命的ではない」
王子は即座に返した。
「改革とは、そういうものだ」
宰相はそれ以上言わなかった。言葉を重ねても、今は届かない。王子の判断は間違っていない。だが、正解でもない。
報告が終わり、人が引いたあとの部屋で、宰相は卓上に残された集計表をもう一度見た。停止件数の欄に三と書いてある。彼はその横に鉛筆で小さく点を打った。次の月に四になったら、点を二つにするつもりだった。
ハルフェンでは、エリシア・フォン・ルーヴェルが王都市場の流通記録を見ていた。
「……到達しましたね」
小さく、そう呟く。
「見える被害の段階だ」
アルノーは書面を一瞥した。
「まだ小さい。騒ぐほどではない」
「ええ」
エリシアは否定しなかった。
「だからこそ、厄介です」
彼女は綴りに記す。
『王都市場:加工品供給遅延 原因:低単価原料の連鎖切断』
書きながら、先日貼った切り抜きの頁を思い出した。屋号と、店主の名と、長年の御礼。あの店の名は、この行のどこにも入らない。
今なら修正できる。だが、修正するには理解が必要だ。
「……王国は、理解を選びませんでした」
責める言葉ではない。ただの事実だ。
夜が更け、市場は静かになる。空白はまだ小さい。だが、一度空いた場所には、次の月も同じ大きさの空白が空く。女主人は仕入れ帳の来月の頁に、あらかじめ横線を引いておいた。
宰相が鉛筆で打った点は、この作でいちばん小さい抵抗です。次に増えたら点も増やす、というのは決意ではなく、数え方の宣言だと思っています。次回、クレアが夜明け前に封筒を三通用意します。二通には宛先があり、三通目にはありません。届いた側のエリシアは、頁の隅の通し番号が三枚に一枚飛んでいることに気づきます。




