ミズホ、「普通」になりたい(二)
ミズホは小学四年生と中学一年生の時、担任教師に「君は将来、偉業を成し遂げそうだな」と期待の言葉をかけられた。また、中学校の卒業文集では「将来大物になりそうな人ランキング」で堂々の一位に輝いた。
しかし、いざその「将来」に立ったミズホは、二人の担任やミズホに投票してくれた同級生たちに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
──私は大物どころか、「普通」にすらなれなかったです。
ミズホのコンプレックスは、自分が「普通」ではないことである。あるいは、自分が「普通」でないことを受け入れられないことである。
こんな人生を歩もうとは、学生時代には考えもしなかった。それに加えて「挫折」の二文字が、ミズホの目の前に常にちらついているのである。結婚し、子どもにも恵まれ、生き物を好きなだけ飼育できる、満ち足りたはずの生活においても。
幼い頃から虫が好きだったミズホは、何の迷いもなく有名国立大学の農学部を受験し、昆虫学研究室に所属した。そして大学院に進学し昆虫の生態や分類についてみっちりと学んだ後、大手殺虫剤メーカーの研究開発部門に就職する。
勉強で悩んだことのないミズホにとって、希望する進路を歩むために目の前のノルマを達成し続けることは、何の造作もないことだった。
会社の研究室でミズホに課せられた使命は、害虫を殺傷する活性をもった化合物を見つけること。それは大好きな虫を殺す商品の開発、ひいては全国の家庭や農地での虫たちの大量殺戮に繋がるのだが、虫に携わる仕事でさえあれば、さして問題はなかった。──少なくとも入社後五年間はそう思っていた。
──その夢は突然現れた。
目覚めると、何もない空間が広がっている。しかしよくよく見れば、自分が湾曲した大きなガラスの壁に閉じ込められているのがわかる。壁はミズホの頭上高くまで続いているため乗り越えることはできない。足元もガラス製で、天井はなかった。
ミズホは起き上がりガラスを伝って歩きながら、これと同じものを自分はよく知っている気がすると思った。
シャーレだ、と突然閃く。
毎日のようにその中で、開発途中の成分の害虫に対する効力試験を行っているのだ。何故そんなものの中に自分はいるのだろう。
突如、ミズホを大きな影が覆う。影の主を見上げて叫び声を上げようとするが、喉をどんなに絞っても出てくるのはか細い音声だけである。
ミズホの頭上に聳えているのは巨大な二つの複眼と、その間から突き出た長い口吻、腹部と脚には白い縞模様を持つ昆虫だった。
見紛うはずはない。研究過程で何千何万と命を奪ってきた、それはヒトスジシマカなのであった。ついでに言うと触角に毛が少ないのでメスだ。
その無機質な複眼のひとつひとつのレンズに、ミズホの姿が映っている。姿は次第に大きくなる。つまりヒトスジシマカの顔が接近してくる。そして最後には口吻によりミズホの体は貫かれるのだ。
やけにリアルな夢だった。冬にもかかわらず脂汗を垂らしながらミズホは飛び起きた。
それからは、毎晩のように害虫の出てくる悪夢にうなされた。悪夢はいろんなバージョンがあり、ある晩はマダニの口器に体を真っ二つにされ、またある晩はショウジョウバエの大群に奇襲をかけられた。
研究者らしく分析すると、今まで数多の害虫を殺してきた潜在意識下での罪悪感が見せる悪夢だった。
極限まで追い詰められたミズホは健康を害し、ついに退職を決意する。
長い長い研究の末の、強力な殺虫活性とヒトへの安全性を合わせ持った新規化合物合成まで、後一歩という段階だった。