ミズホ、「普通」になりたい(一)
──さっきの私、「普通」だったかな。
一人息子のユズルの手を引き家へと向かう道すがら、ミズホは公園での自分の行動を最初から最後まで事細かに振り返る。
大学院卒業後に入社した会社を退職して以来続く、ミズホの身体にすっかり染みついた習慣だ。
今日もマミコの話の要所要所にちゃんと頷いた。「わかります」とか「それ、ひどくないですか!」とか、共感を示す言葉もちゃんと発した。ユリのカバンに付いている新しいチャームをちゃんと褒めてもあげた。
──あ、でもカラスを見てた時……。
頬のあたりに強い視線を感じた気が、しないでもない。あの時のミズホは、カラス一羽の体に生える全ての羽を使って成人女性の頭部を装飾するとしたら、自分ならどんなコンセプトでいくかを考えていたのだ。
──もしかして、変だと思われたかな。
そう思った時、家に到着した。ドアを自分で開けたがるユズルに鍵を渡し、玄関に滑り込んだとたん、
──「普通」タイム、終了!
ミズホの心配事は、粉微塵に消し飛んだ。家の中では本来の自分に戻っても良いというルールを自らに課しているのだ。
2DKの、こじんまりとはしているけれど、ミズホたち家族の安らぐお城。
ユズルに「ちゃんと手を洗ってね」と声をかけて、リュックをおろすのももどかしく台所と居間を走り抜け、向かった先はベランダである。
狭い空間には虫カゴが所狭しと並べられている。まずはショウリョウバッタの卵が眠るカゴを確かめ、太陽の傾きに合わせて虫カゴ全てを日陰に移動させ、エサの減り具合を確認し、いくつかの蓋を開け霧吹きを吹きかけ……。
至福のひとときだった。
一部の虫の食草をプランターに育てているから、そちらの世話も必要だ。他にも温湿度計の数値を調べて記録したりと、やるべきことは山ほどある。
「バッタさん、うまれた?」
手を洗い終えたユズルに背後から声を掛けられる。
「まだみたいだねぇ。もうそろそろだと思うんだけど」
ユズルも子ども用のサンダルをつっかけ、ミズホの隣にしゃがみ込んだ。
親子の目下の楽しみは、昨年捕獲したショウリョウバッタの卵の孵化を観察することである。他にもカブトムシやツマグロヒョウモンの幼虫と蛹、ダンゴムシ、ハラビロカマキリの幼虫、ナミハンミョウにアミガサハゴロモ……。
珍しいよりも身近な生き物がミズホは好きだ。
ミズホの虫にかける情熱は、物件選びの際、生き物の飼育に適した環境であることを優先した結果、南向き陽当たり良好の物件を避けさせたほどである。
夕食の下拵えは済ませてあるから、軽いおやつタイムの後にもう一度ユズルと外出して、虫たちのエサ、例えば草や小さい虫などを取りに行くのがミズホの行動パターンだ。
家の裏の用水路にボウフラが発生したかどうかも近々見に行かなくてはならない。セミの羽化も是非ユズルに見せてあげたいから、夕暮れの雑木林へも。
ミズホの毎日は、なかなかどうして忙しい。暑いのも構わずに、二人はしばらくベランダで時を過ごすのだった。