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マミコ、退屈(一)

 つまらないつまらないつまらない──


 帰宅したマミコは手早くベランダの窓を開けた。梅雨の晴れ間を利用して干した大量の洗濯物の中から適当な服をもぎ取るように取り込み、「これに着替えて」とハルに手渡す。


 幼稚園での外遊びの後、さらに公園でも遊びたがるハルの服は、帰宅時にはたいてい泥だらけだ。


 しかし、もう四歳をとっくに過ぎているのに、ハルは頑なに服を脱ごうとしない。マミコの差し出した服は宙に浮いたままだ。


「ママがやって」


 と、マミコの前で仁王立ちしている。仕方なくしゃがみ込み、脱ぐのを手伝ってやる。しつけにならないとは思うが、自分でやった方がはるかに早く済むからだ。


 ──いつまでイヤイヤ期が続くのよ!


 毎日毎日続くわがまま放題の息子との際限ない不毛な(としか思えない)攻防は、マミコを泥水のように疲弊させる。


 今朝は特にひどかった。息子はどうしても生乾きのスニーカーを履きたがった。彼お気に入りの青い、地面を踏みつける度にピカピカと発光する靴だ。登園時間ギリギリになってのわがままは、マミコをさらに苛立たせた。


 いくら「こっちの黒いのでいいでしょ」と諭しても、ハルは聞く耳を持たない。それどころか近所中に聞こえる大声で泣き喚き始めたので、急いでドライヤーで乾かし、履かせ、でも結局は遅刻した。


「いたいよ、ママ!」


 ハルが強い口調で抗議する。つい手に力が入ってしまい、シャツの袖に腕が引っかかってしまったのだ。


「ごめんね、痛かったね」


 息子の話し方は、このところますます自分に似てきたと感じながら、マミコは湧き上がる感情を堪えて謝った。


 今日も夫は帰ってこない。今頃どこかの海の上で、マミコが想像もつかないような任務に就いていることだろう。


 この後息子に合わせた食事(どうせ食べない)を用意し、皿を洗い、風呂に入らせ、髪を乾かしてやり、洗濯機を回す。無理やり歯を磨き、添い寝でないと寝ない息子の横で泥のように眠る。


 翌朝はむずがる息子に(どうせ残すであろう)朝食を用意し、時に行き渋るのを宥めすかし園まで送り、夕飯の下拵えらえを済ませ──。

 ポッカリと空いた時間は、ただつまらないテレビ番組を観るか、ネットの何の生産性もないページをなんとなく眺めて過ごす。

 昼過ぎになるとソワソワし始め、二時にハルを迎えに行き公園で遊ぶ。


 それを毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日繰り返す。


 こんな生活を打破するために、仕事を探したこともある。しかし採用面接に五回連続で落ちてからは、求人広告を見るのをやめた。


 面接で必ず聞かれるのは「お子さんが病気の時、みてくれる人はいますか?」だった。実家も夫の実家も遠方、その上夫は不在がち、おまけに転勤族である人間なんて、自分が面接官だったとしても真っ先に不採用にするに違いない。


 かつての同僚に「えー、まだ働いてないの? 毎日が夏休みじゃん!」と軽く言われたくらいの些細な出来事で苛立つほど、マミコは余裕をなくしていった。


 ──私だってね、実家が近くて頼り放題で、旦那が家事育児を手伝ってくれるなら、もうとっくに復帰してるわよ。


 毎日のように襲われる虚しさは、いくら新しい服や化粧品を買っても、いくらママ友と話しても、決して埋まることはない。


 ユリは秘密主義者で、軽い質問にも曖昧な返事を返す。今日もまた電話の内容をマミコに隠した。誤魔化そうとしても丸わかりだ。

 一方のミズホはいつも通り、全く話を聞いていない。数十センチの距離で相対していても、魂はどこか別の世界をさまよっているかに見える。


 別に、期待しているわけではない。息子がいなかったら、例えば三人が学校の同じクラスだったとしたなら、絶対に仲良くならないであろう二人のママ友。

 でも今のマミコには、とにかく身体の内にわだかまる何かを発散する誰かが必要なのだ。


 夫は海上自衛隊に所属しているため、訓練や演習で家を空けることが多い。今月もほとんど帰ってこない。独身時代は社交的だったのに、結婚出産を経てみると気軽に電話できる友人はいなくなってしまった。


 孤独。夫も子どももいるのに感じる孤独。こんな感情が存在するなんて、出産するまで知らなかった。


「きょうのごはん、なにー?」


 あれだけ走り回ってもなお体力が有り余っているハルが、居間の隅に置いてある小さな家庭用滑り台を逆走しながら聞いた。


「豆ご飯よ」


 豆ご飯はハルの好物だ。


「やだ! チャーハンがいい!」

「もう作っちゃったから!」


 四歳児の好物は、ある日突然変化する。マミコは知らない遠い町に行ってしまいたい気分でため息を吐いた。


 どんなにわがままでも、息子は可愛い。寝顔を見ていると、特にそう思う。文字通り、自分の命を投げ打ってでも守りたい存在。


 が、時々マミコはこうも思うのだ。


 ──子どものいない人生も、アリだったかもしれない。


 と。


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