ユリ、秘密主義(二)
独身時代、デザイン事務所に勤めていたユリは、結婚と同時に夫の転勤先について行くため仕事を辞めた。
退職後は全く別の仕事をする覚悟でいたものの、やっぱりデザインの仕事を続けたいと思案していた矢先、かつての取引先だった出版社の編集者から連絡が入った。仕事の依頼だった。
その一件を無事終わらせたことでフリーランスでやっていく自信がつき、会社員時代にコツコツと積み上げた実績と、出版社や他のデザイン会社との交流で築いた人脈を活かし、既に五年近くブックデザイナーとして活動している。
幼子を育てながらの作業は楽ではないし、編集者や装画担当のイラストレーターとの度重なるやり取りで疲弊することもある。睡眠不足や肩凝りに悩まされることも度々だが、オンラインでの打ち合わせも可能となった現在、ほぼ在宅でできて時間の融通も効く。何より、自分が手掛けたデザインが世に出るというのは、何物にも代えがたい達成感がある。
売れっ子というわけではないから月に二件も受注できればいい方で、高給取りでは決してない。しかし普通にパートするよりは遥かに高い金額を稼いでいるのだから、ユリは入金を確認する度、デザインの道に進んだ過去の自分を褒めてやりたい気分になる。
しかし、このことは余程のことがない限り他言するまいと誓っている。以前に痛い目にあったからだ。
それは息子が幼稚園に入る前のこと。ユリはアパートの二部屋隣の、同じ年頃の子を持つ主婦と立ち話をする仲になった。
彼女はユリのことを専業主婦だと思い込んでいたらしく、何度目かの会話の際、当分仕事をしないつもりでいるのか尋ねてきた。
が、ユリが個人事業主として在宅で仕事をしていることを告げた瞬間、相手の顔から笑顔が消えた。
仕事内容を根掘り葉掘り探られ、押しに弱いユリはそのほとんど全ての質問に答えるうちに、主婦の顔はどんどん険しくなっていく。
あまりの剣幕についおおよその年収を答えてしまった時、彼女の顔は、面白いくらいに蒼白になった。
それ以来、主婦はユリを避けるようになった。顔を合わせても無視され、ひどい時は外に出たとたん、大音量と共にドアを閉められた。
古くからの友人に話すと、「完全に嫉妬でしょ。あんたには手に職があって、完全在宅で仕事ができるから羨ましかったのよ」と断言された。
嫉妬。自分のどこに嫉妬したのか、ユリは理解できなかった。今があるのはこれまでの努力のおかげであって、決して楽な道ではなかったのに、と。
歯に衣着せぬタイプのその友人はさらに「あんたをだいぶ下に見てたってことよ。嫌な女ね」と続けた。
そして、「よく知らない人間に、あんまり自分のこと喋らない方がいいよ」と忠告をくれて電話を切った。
ユリには思い当たるところがあった。確かに近所の主婦は、ユリの夫の車を見て「子どもがいてその車じゃ不便じゃないの? 二人目は考えてないってことよね?」とか、「その服よく着てるけど、よっぽどお気に入りなのね。もっとお洒落すればいいのに」とか、余計なお世話としか思えないようなことを何度も口にしてきたのだ。
──なるほど、勝手に「下」だと思っていた人間が、実は「上」だったってわけね。
しかし、何が「上」で何が「下」なのか。在宅仕事、フリーランス、個人事業主、ブックデザイナー、などの要素のどれか、あるいは全てが彼女の価値観において「上」にあたるのだろうか。
──羨ましいんだったら、自分も在宅で何かやればいいのに。
いくら考えても、ユリにはさっぱりわからないのだった。
結局、数ヶ月後に夫の転勤が決まり、挨拶もできないまま引越すこととなる。そして引越し先の土地でケイタを幼稚園に入れ、マミコやミズホと知り合った。
これ以上、他人との間に波風を立てたくはない。
ユリは特にマミコに対して警戒している。何が誰の「地雷」になるのかわかったものではない。彼女は何かにつけて不満が溜まっているようだから、友人の忠告通り、会話には十分気をつけよう、余計なことは言わないでおこうとユリは決心したのだった。