聖なるおビンタは冷血卿に愛を与える
「――次は君か、アーネッタ辺境伯令嬢。まるで次々と沸いて出る虫のようだな」
そう言って、イェルド公爵は酷薄な笑みを浮かべ振り返った。彼の前ではひとりの令嬢が屈辱に身体を震わせている。今さっきまで、イェルドに酷く罵られていたのだ。
なんとか機会をと伺い続け、距離を詰めていたのが良くなかったのだろう。アーネッタは息を呑み、イェルドを見つめた。
「君は何を望む。顔か、地位か、財力か? ああそれとも、義憤にでも駆られたかな? か弱い令嬢を苛む悪を見過ごすことはできぬと。――ハッご立派なことだ。余計な嘴を挟む前に、この女の家の狙いを、悪心を、ここで暴き立ててやろうか」
(ええい、ままよ!)
このまま彼を喋らせてはいけないと、アーネッタはキッと前を見据え腕を振り上げる。
パアン、と頬を張る高らかな音が、大広間に響いた。
§
呪い、あるいは邪気。そう呼ばれるものは実際に存在するのだと、アーネッタは実感していた。
幼い頃より、アーネッタには黒い靄が見えたのだ。手で払えば簡単に掻き消えるその靄は、部屋の片隅に、歴史ある品物に、あるいは人の肩や頭によく見ることができた。
頭が重い、気鬱だ、今日は良くない事ばかり起こると嘆く人には、よく靄が取り付いていた。幼いアーネッタが「いやなものがあるのだわ」とそれを払えば、父も、母も、使用人たちも、たちまち晴れやかな笑顔を取り戻すものだから、黒い靄は良くないものなのだとアーネッタは理解していた。自分にはそれが払えることも、他の者には見えないことも含めて。
父母に連れられ訪れた美術館で、目玉として展示されている宝飾品を見た時に、アーネッタは黒い靄の正体がいわゆる『呪い』と呼ばれるものなのだと気付いた。この宝飾品は持ち主を全て破滅へと導き、誰も所有することは叶わぬとこうして展示されることになったのです、と美術館の館長が朗々と語る横で、アーネッタの瞳には、濃密な黒い塊だけが映っていた。
人には見えないのだから、吹聴しないほうがいいのだと、聡明なアーネッタは幼心に決意した。以来アーネッタは黒い靄が見えることを誰にも打ち明けずに、そっと親しい人に取り付く靄をさり気なく追い払って過ごしてきた。
そして迎えたデビュタントの日。
王宮の大広間で、アーネッタは巨大な黒い塊を目にし、ぎょっとしたのだ。人であることが辛うじてわかる、濃密な黒い靄を纏った男性。姿形はわからずとも、周囲のざわめきでその人物が誰であるか察することができた。
――イェルド公爵。冷酷、冷淡と噂される司法卿。
人の心など持ち合わせていないと囁かれる若き公爵。付いたあだ名は『冷血卿』
口を開けば放たれる言葉は刃。浮かべる笑みは酷薄。淡々と法の鉄槌を下す、血も涙もない男だと恐れられているのだ。
(……当たり前だわ、あんなもの)
アーネッタには、イェルドがまともに生きていること自体奇跡に思えた。よりにもよって司法卿だなんて、いかにも恨みが集まりやすそうな職務に彼が就いていることが不憫に思えるほど、イェルドは黒い靄を身に纏って人の注目を浴び続けている。
「イェルド様!」
美しい令嬢が、媚をたっぷりと含んだ声音をあげて彼に近付く。黒い靄がまたその濃さを深めた。
(放ってはおけないもの……)
見てしまったからには無視できないと、アーネッタはそっと彼らに近寄り始める。噂は聞けども、アーネッタがデビュタントを迎えた今日まで、直接イェルドの姿を見ることがなかったのだ。アーネッタが王都を訪れることすら稀で、互いにプライベートで付き合いがあるような親しい家系でもなかった。かといって敵対もしていないが。
(気付かれないようにそっと払えないかしら。あんな濃い靄を? 無理よ)
自問自答しながらアーネッタはイェルドの周囲を伺い続ける。そっと手を仰いでも黒い靄は揺らぐばかりで薄まる気配がない。アーネッタの手に奇跡は宿っているのだ。ダンスを申し込まれでもすれば直接触れる機会があるが、彼の噂を鑑みるに、そんな奇跡は起こりようもなかった。
うろうろとアーネッタはイェルドの周囲を歩き、イェルドにまとわりつく令嬢は無遠慮にイェルドに触れる。アーネッタが令嬢の心配をし始めた頃に、イェルドが自身にまとわりつく令嬢を罵り始めた。
そして時は冒頭に戻る。アーネッタの聖なるおビンタがイェルドの頬に華麗に決まった。
「……こんな」
イェルドは頬を押さえ、身体を震わせながらアーネッタを凝視した。なんということを、と周囲の人々は恐怖に身体を強張らせ、息を呑むように静まり返る。
「こんな気持ちは初めてだ……!! 貴女は今、私に何をした!?」
静まり返った大広間にイェルドの歓喜の声が響いた。
「頬を張りました」
「そう、そうだ! ああ、目が覚める思いだ……! こんな晴れやかな心地など、ついぞ覚えがない!」
「それは良うございました」
イェルドは瞳を輝かせ、アーネッタに詰め寄る。周囲からはざわめきが起こった。
(うまく頬に当たってよかったわ)
何せ今靄が晴れるまで、どこに人体があるのかもよく見えなかったのだ。声のするところを目標に据えたが、うまく当たってよかったとアーネッタは安堵の息を吐く。
「私は今まで暗黒の底にいたようだ……世界がこんなにも、美しく輝いて見える! アーネッタ辺境伯令嬢、貴女のおかげだ。――そう、貴女の」
ぞわり、と散らしたはずの黒い靄がまたぞろイェルドに集まり始める。イェルドの瞳がまるで沼のように濁り始めた。
「お前の。なんという屈辱だ、覚悟は」
(嫌だわ、しつこいのね!!)
イェルドはとにかく黒い靄を集めやすい体質なのだろう。このままでは、靄に取り付かれたイェルドによってアーネッタが裁かれかねない。アーネッタは先程見たイェルドの澄んだ瞳を信じ、再び手を振りかざした。
パアン、パアンと二度高らかな音が鳴る。――往復おビンタだ!
「ああ、まただ。また目が覚めた……!」
イェルドは再び瞳に輝きを取り戻し、感極まってアーネッタの両手を握りしめる。
「良うございました」
これでもう靄は寄ってこないだろう。アーネッタはふうと息を吐き、そして周囲の様子に気付く。
「あら、お待ちになって。何かあらぬ誤解が」
周囲は恐ろしいものを見るような目で、あるいは好奇に溢れる目でふたりを見つめている。イェルドはそんなものはどうでもいいと言わんばかりに頭を振り、アーネッタに詰め寄った。
「貴女は私の救いの女神に違いない! アーネッタ嬢、どうか私と結婚して欲しい!!」
「まあ、ですが……」
アーネッタはちらりとついさっきまでイェルドに言い寄っていた令嬢に視線を向ける。視線の先で、令嬢は顔を蒼白にして首を振った。腰が引けている。被虐趣味の変態は無理だと言わんばかりの態度だった。
「私はもう、貴女なしでは生きていけない」
うっとりと熱のこもったイェルドの視線を受けて、アーネッタは、まあそれもそうだろう、と思った。どのみちそろそろ結婚相手を考えなければいけない年頃でもあるのだ。アーネッタはもろとも責任を取ろうと決心し、イェルドを見つめ返し頷いた。
「わかりました。父が許せば、わたくしはそのお話をお受け致します」
数日後、アーネッタは父から正式に婚約が申し込まれた件と、本当にいいのかと確認する言葉が聞かされた。アーネッタが決意のこもった目で頷けば、父は諦めたように肩を落とし、暫く後に婚約が成立したと伝えられた。
イェルドからは、毎日のように花や装飾品が贈られてくる。忙しい身だろうに毎回心のこもった手紙が添えられていて、彼の深い感謝と本当の人柄が見て取れる。心からの愛情は疑う余地もなかった。アーネッタも毎回返事をしたためている。少し触れただけのアーネッタの興味や好みに、イェルドは直ぐに気付いて反応を返してくれる。アーネッタは、彼と生きる未来が心待ちに感じられた。
婚約祝いの品もあちこちから贈られ始めた。アーネッタは祝いの品を確かめながら、イェルドのことを考えていた。
きっと、この力は誰かを助けるためにあるのだとアーネッタは思っていた。そして、それはきっと彼だったのだ。
イェルドはその驚異的な精神力で、黒い靄に覆われながらも法を守り続けてきた。司法の頂点にたつ彼を、ひいてはこの国を守るために授かった力をつかっていこう、とアーネッタは頷く。
(尊敬できる方だわ。――それに)
黒く厚い靄の晴れ間から、現れた美しい顔と、喜びに溢れる笑顔。煌めく瞳。そしてその瞳が濁っていく様を思い返し、アーネッタは手を握りしめる。
(守ってさしあげたいわ、笑顔がかわいらしかったもの)
胸がときめくほど。アーネッタが目を離せばあの瞳はまた濁るのだと思えば胸が痛むほど。そんなことは断じて許さないとアーネッタは頭を振った。最近手紙の内容が闇々しくなってきた。そろそろ会わないと。アーネッタは互いに愛を築き始めた彼を取り戻さなければ、と握りしめた手に力を込める。あとそれから。
(…………あらぬ誤解を受けた責任もとってさしあげないと)
祝いの品に潜む、美しい装飾が施された最高級革のバラ鞭からそっと目を逸らし、アーネッタは決意を深くするのだった。