第1話 僕が異世界に来た理由
僕は孤立していた。精神的にも、物理的にも孤立していた。
みんなは向こう岸にいる。僕は中州に取り残されている。
さっきまで穏やかだったのに、いつのまにやら濁流が僕と彼らの間をうねりながら流れている。
だんだんと茶色い水が足もとに迫ってきている。
かすかに、甲高い悲鳴のような声がきこえた。向こう岸で何かが起きたのだろうか。
それとも、今にも水にのみこまれそうな僕を見て、ざまあみろとケタケタ笑ったりしているのだろうか。いや、それはないか。
そもそも、僕は、戻りたいと思っているのだろうか。
無事に生還できたとして、嫌な思い出ばかりを製造しつづけるであろう高校生活を続けていきたいのだろうか。
いっそ、もう、このまま――。
濁流が、ついに僕をのみこんだ。
★
誰も教えてくれなかった。上流で大雨が降ったという情報が入っていたのだろうが、誰も声をかけてくれなかった。
誰とも仲良くなかったからだ。
家族以外に、携帯に登録されたお友達はいなかった。
ぼーっとしながら、何もついていない釣り針を垂らしていた僕が異変に気付いたときには、もう手遅れだった。
もしも早く気づけたら、なんて思わないこともないけれど、もしかしたら、それよりずっと前、僕がクラスのイベントで失態をやらかした時から、こうなる運命に突入していたのかもしれない。
あれは去年、一年生の運動会。
「絶対に勝ちましょう!」
イベントごとになるとやる気を出す熱血な女教師のもとで、クラスは団結していた。
僕をのぞいて。
本番に向けての最後の朝練。
最もクラスの気合が高まっているとき。
もちろん、朝練なんていうのは強制的なものではなかった。でも、クラスの全員が毎日参加していた。
僕も行こうと思ってはいた。
寝坊して行けなかった。
運動会は惜敗した。本当にあと一歩、もう一歩、ぎりぎり一歩、チームワークが足りなくて敗北した。
その日から、世界が変わってしまった。
いじめ、というのとは全く違う。ただ僕の周囲だけ空気が重たくなったような、そんな異常な感覚に毎日襲われてしまって、僕はクラスの人間たちから逃げ続け、いつのまにか、誰も僕に話しかけなくなった。
そんなある日のこと、
「――あっ」
僕は久しぶりに学校で声を出した。
隣のクラスにいる幼馴染と、廊下でぶつかりそうになったのだ。
「…………」
相変わらず前髪が長いなと思った。
昔から陰気な幼馴染の女の子は、僕と目を合わさなかった。目を伏せたまま、僕の横を通り過ぎて行った。
それ以来、僕は先生以外とまともに会話を交わさなくなった。
合唱コンクールや文化祭などの行事があったが、僕は積極的に参加しなかった。クラスは両方で表彰された。何をやったのかは記憶にない。小さな声で歌ったし、文化祭でのクラスの出し物に至っては手伝いもしなかった。
春にクラス替えはあったけれど、担任が一緒だったし、その頃には僕はもう陰の者まっしぐらだったから上手く溶け込むこともできなかった。
翌年の新緑の頃、また学校のイベントがあった。
それが、宿泊を伴った校外学習。すなわち、いわゆる林間学校というやつである。
その自由時間中に、事件は起きた。
僕は誰からも孤立する場所へと釣り糸を垂らしに行き、そして鉄砲水に呑まれたというわけだ。
★
十六年と、およそ半年。暗く短い人生だったな。
そんなことを思いながら目を開くと、僕は知らない場所にいた。
何種類かの龍を描いたと思われる巨大な壁画が、レンガの壁にはめ込まれている。見上げた天井は高く、吹き抜けになっていて、天井の形を見る限り、屋根はドーム型のデザインのようだ。荘厳な装飾がいくつも取り付けられ、草の匂いがして、鳥の声が響いていた。
窓から差し込むやわらかな光に誘われて、僕は建物の外に出てみた。
緑の芝生が広がっている。ところどころ、シクラメンのような花が咲いている。あたたかく、心地よい匂いがして、とても落ち着く。まるで天国にでもいるかのよう。
「なるほど、死んだから」
ずいぶん久しぶりに声を出した気がする。
「あれ、でも、何かおかしいな」
違和感があった。
動きやすいジャージや体育着はしっかり濡れている。携帯を取り出してみたら起動した。地図を起動してみたものの位置情報は不明。ネット上で似た場所を探そうと思ったが、電波が届いていないので、調べようがなかった。
「でも、壊れてないのはすごいな。さすが、新しい携帯は防水性能が高い」
夢の世界にしては現実感があるし、現実だとしたら不可解だ。濁流に呑まれたのなら、深い水底か、どこかの岸辺にぼろぼろになって打ち上げられたりするのが自然だろう。
「何なんだ、ここは一体」
と、僕の呟いたひとりごとに、返答があった。
「あら、また転生者ですか。つまり、また新たに魔王が生まれたということ。今年は当たり年ですね」
声のした方に振り向くと、女の人がいた。知らない人だ。小豆色の服を着た、きれいな大人の女性だった。僕のクラスの担任でもなければ、クラスメイトでもなかった。
僕は安心しながらも目を伏せて、足下に咲く白い花に視線を送りながら、
「あの、すみません。ここはどこですか」
「その前に、あなたのお名前を聞いてもいいですか?」
「僕ですか? 伏野といいます」
「そうですか。いい名前です」
「はあ、どうも」
「ここは、フシノたちのような者からしたら、異世界ってやつですよ。異世界のマリーノーツという場所です」
要するに、僕は異世界に転移したのだ。