恒星の導
ぷかぷか、ゆらゆら。
揺蕩っていた。
ぴちょん、ぴちょん。
雨が降っていた。
凍えそうな気温。
凍えそうな身体。
それでも俺は立っている。
人形みたいに立ち尽くしている。
何をしているのか。
何故此処にいるのか。
とんと見当がつかなくて。
当てもなく訳もなく。
天を仰いで見つめてる。
暗い暗い闇の月。
「葉瑠さん」
声。
名前。
俺の名前を呼んでいる。
月を見上げたまま、すい、と視線だけ向けた。
そこにいたのは。
「…………イヴ」
「はい。あなたのイヴですよー」
ニコニコ笑いながらピースサインを見せつけてくる。こんなに馬鹿っぽかっただろうか、イヴという少女は。
……言葉を慎もう。この俺がイヴを否定するなどあってはならない。
「なんですか? アレ」
天に揺らめく黒き月を指差して尋ねられるも、俺だって全く知らないので答えようがなかった。困り顔でゆっくりと首を横に振ると、イヴは興味なさげに肩をすくめる。
「とにかく、こんな所で雨に打たれては良くありませんよ。私と話をしましょう」
「話?」
「ええ。場所は分かりますよね? 先に行って待っていてください」
やんわりとした口調でそう言い残し、イヴは忽然と姿を消した。
俺はもう一度黒い月を見上げ、緩慢に瞼を閉じて俯いた。
***
システマチックに並べられた会衆席。
美しいパイプオルガンの音が木霊する。
綺麗過ぎるあまり、どこか儚い音色。
この曲は……そうだ、確かあの時聴いたんだ。
イヴと初めて出会った、あの時に──
「どうですか、今の気分は」
椅子に深々と身体を預けている俺の目の前に、いつの間にかイヴが立っていた。
今しがた奏でられていた音色はとうに消えている。教会の中はしんと静まり返り、俺達以外の生命をまるで感じることができない。さながら、初めて出逢ったあの日を再現したかのように……。
「……参ったよ。セツナの調子は最悪で、一向に話が出来ないまま。神域が滅ぼされることについても全然考えられてないし、何より……花が枯れたことへの、心の整理が……まだ付いていない……」
「そうですか。ところで私が別れ際に言ったことを憶えていますか、葉瑠さん」
「……忘れるわけないよ。あの日、イヴは花を見つけてもう一度水をあげて欲しいと……泣きながら言っていた」
俯きがちに、今も尚鮮明に残るかつての会話を思い起こす。
たとえ記憶が無くなっても必ず花を見つけ出してやる。誓いを胸に彼女と約束を交わした俺は、『巻き戻し』の影響を受けずその日のうちに花を見つけ出す事に成功した。彼女との約束をきちんと果たしたのだ。
「ねぇ、おかしくないですか?」
ハッと顔を上げる。イヴの顔は、まるで能面の様に感情という感情が剥ぎ取られていた。怒りも悲しみもなく、ただひたすらに「無」を張り付けて。
「この世でたった一輪の花でしたのに、どうして見過ごしたんですか? 普通、枯れないよう精一杯手を尽くして少しでも共に居たいと思うはずでしょう? 婚約者ならそれが普通でしょう?」
「イ、イヴ……」
心臓が止まるかと思うほどの、絶大な衝撃。しかし鼓動は嫌になる程加速していく。
「葉瑠さんはフラワーアレンジメントの知識を少なからず持っていましたよね。当然ドライフラワーやハーバリウム、プリザーブドフラワーのことは知っていたはず。けれどむざむざ馬鹿正直に枯れさせて、この世から私を消滅させた。紛れもない完全消滅です。もう何にも無くなってしまいました」
「……………っ、あ、でも……俺は、俺の考えはっ……」
「貴方は私を見殺しにした。努力の余地があったにも関わらずそれを怠って、私の気持ちを踏み躙った……何が“一つの正解”ですか。都合の良い事を言って、正当化して。そんなに自分が可愛いですか、葉瑠さん」
「……ち、違う! そうじゃない! 俺だって、本当はどんなに花を残したいと思ったか!! それでもやらなかったのは、れっきとした考えがあってのことで──」
「詭弁は聞きたくありません。葉瑠さんの思想・美学がどうであれ、結果的に詭弁にしかなりません。だってそうでしょう? 現に私という存在は消えているのですから。そばに置いてくれると約束したのに、存在を消されたんですから」
「……いや、待てよ。そもそもお前はこう言っていただろ。たとえ花が枯れても、こうして夢で会えるなら……思い出をずっと忘れないでいられると。つまりイヴは、花が枯れることを前提にこれからの話をしていた……」
「『イヴ』はそんな事を言っていませんよ、葉瑠さん。貴方が夢の中で都合の良い台詞を吐かせたお人形は居たかもしれませんが」
「──あ」
眩暈がする。視界が歪む。
ちゃんと、分かっていたはずなのに。
既にこの世のどこにも『イヴ』はいない、目の前にいる何かは俺の生み出した幻影に過ぎない。
この幻影が口にすることは全て俺の深層心理の反映であり、決して『イヴ』の言葉なんかじゃない。
全部分かっていたのに。そのはずだったのに。
都合の良い人形遊びに興じるあまり頭がおかしくなってしまったのか?夢現の区別が付かなくなるほどに?
あぁ……全く、馬鹿げている。これじゃあ、心の整理が付くはずもなかったんだ。
「償いをすべきですよ、葉瑠さん」
ひたすら無表情だった幻影はそう言うと、一転してニコリと笑った。
「……償い?」
「そうですよ。花が枯れて一緒に居られなくなったなら、もう貴方に残された道は一つしかないでしょう?」
ゆっくりと、人差し指を立てて。
酷く美しい、微笑みを浮かべて。
「死んでください。死んで私の所まで来てください。それならずーっと一緒です」
「…………」
沈黙する。沈黙以外に何の反応も示せないのは、俺の意志が確固たるものへと切り替わったからだ。
今の言葉は、ある意味決定的だった。あまりにも本来の人物像と掛け離れた物言いは、混乱極まっていた俺に冷静さを取り戻してくれた。
「……イヴは、俺に生きろと言った。俺の好きな正真正銘の『イヴ』がだ。まかり間違っても、誰かの死を望むような子じゃない」
瞠目し、しかと目の前の幻影を見据える。
よく見りゃ綻びだらけだ。服の装飾があやふやで上手く再現出来ていないし、輝く金髪はふわふわ度が全然足りていない。極め付けにあの美しい瞳が薄汚く濁ってるときたもんだ。夢の中とはいえこんなパチモンに踊らされてたのかよ、俺は。
「…………失せろ」
「は?」
彼女の虹色の瞳などとは似ても似つかないそれを睨め付け、俺は力の限りを尽くして怒号を浴びせた。
「お前じゃない……お前はイヴじゃないんだよ!! 失せろ、偽物!!」
「──逃げるのですか」
幻影は生意気にも全く動じることなく、さらに質問を投げ掛けてくる。だが、既に狼狽えるばかりの俺ではない。真っ向からとことんまでぶつかり合ってやる。
「逃げに聞こえたかよ。夢の中でお前みたいな出来の悪い偽者と馴れ合ってる方が逃げだろ」
「救いを求めて私を映し出しているのは貴方ですのに」
「ああ……今まではな。けど、それも終わりだ。もう……夢は終わりだ」
大きく息を吸い込んで、俺は瞼を閉じる。その裏には、かつてこの教会で光となったイヴの姿が刻まれている。地球上全ての生命を救うべく、自ら道を選んだ彼女の姿が。
「俺とイヴはあの日、ちゃんと別れを済ませてるんだ。そして……あの花にイヴの命や意志は宿っていない。花という生命が枯れるのはどうしたって避けられないことで、だからこそ命は尊いんだよ。そうやってこの地球は回っている。動物も、植物も、人間も。それに……イヴが別れ際に遺したあの言葉……『花を見つけて水をあげてほしい』という願いは……ドライでもプリザーブドでもハーバリウムでも成し得ない。そうだろ、アレらは水やりの必要がない、してはいけないんだ。だから──割り切れないことなんて、ないんだ」
自分で自分の気持ちと状況を理解し、整理していくように告げていく。あぁ、まさにその通り。目の前の幻影は、俺の負の心そのものなのだから。
「……ならば、もう後がありませんよ」
「ああ、そうなるな」
滔々と述べられた現実に、俺は大きく頷いて肯定する。
「これでもう、『イヴ』の痕跡がなくなったということは」
「残ったのは、記憶だけだ」
そもそも、俺がどうしてそこまで花が枯れることを恐れていたかといえば、形見も無しに永遠にイヴとの思い出を保ち続けるのは難しいと思ったからだ。
セツナや姉さん、シルヴァニアンと触れ合った時間は、どれほど大切に思っていても忘却には勝てない、という諦観を俺にもたらしていた。
彼女らはみんな忘れたくて忘れてるわけじゃない。それが何より恐ろしかった。つまり忘却という事象は当人の意志に関係無く訪れ、絶対に避けようが無いのだと。
ただ一人、ミヌートだけは何もかも覚えていたが……彼女はあまりに特別で参考にならないと思った。彼女は「キミも特別だからきっと覚えていられる」と励ましてくれたが、やっぱり俺は俺をそこまで過大評価出来なくて、結局人形遊びから抜け出せなくて。
でも……あの時のミヌートの言葉があったからこそ、俺がなんとか今日まで生きてこられているのは紛れもない事実だ。あの言葉がなければ、俺はきっと生きることさえ諦めていただろう。言うなれば、俺は彼女の言葉で未来を生きる決心がついたのだ。
だったら……それが俺の“軸”なんだ。
気恥ずかしいけど。分不相応だとも思うけど。
それでも、生きると決めたのならば。
これから先の未来は、月野葉瑠という特別ではない存在を特別と認めるために進んでいこう。
俺は俺を信じる。
俺を信じたミヌートを信じている。
故にこそ、俺は。
「──忘れないよ。一千年経とうが一万年経とうが、俺は生涯イヴを忘れない」
「何故断言出来るのです?」
「信じてるからだよ」
「…………」
幾許かの沈黙。
そして、
「……何を……いえ。誰を、なんて。聞くだけ野暮ですね」
「ああ」
瞑目し、嘲笑とも失笑ともつかない笑みを浮かべる幻影。
「……しかしそれは最大の裏切りじゃないですか」
「裏切り? なんでそうなる」
「だって、つまり、そういうことでしょう?」
「はっきり言えよ。この期に及んでお前は一体何を……」
「貴方がシャルミヌートを好きってことですよ」
………え?
思考が止まる。一気呵成に論破してやろうという気概は一瞬にして潰された。
「…………な、にを」
「違うのですか?」
俺がミヌートを好き……? いや、そりゃ好きか嫌いかで言えばもちろん好きだ。今のところ嫌いになる要素が無い。
だけどそうじゃない、こいつの言い方はそういう事じゃない。
端的に言えば、LikeではなくLoveだと。俺がミヌートを一人の女性として愛しているのだと、そう言っているわけなのだ。
「……好き? ガチな方で、ミヌートを……?」
「自覚してるわけではなかったのですね。じゃあ、まだギリギリ裏切りではありません。まだ間に合いますよ」
唖然とする俺に笑いかけながら、イヴに酷似した幻影はスタスタと近寄ってくる。
そして、
トスッ、と。
短剣が俺の胸を貫いていた。
「──は?」
「『イヴ』を裏切る前で良かったですね。さぁ、このまま永久に沈みましょう。『イヴ』に操を立てるためです、裏切るくらいなら死ぬべきでしょう」
天地が漆黒に染まる。教会など元から無かったかのように、全てが黒く塗り潰されていく。
そしてこいつの言った通りに、俺の身体はぐんぐんと際限なく沈み始めた。
「おま……何を、した……」
「貴方が悪いんですよ。貴方が『イヴ』以外を愛そうとしたから。だからこれは当然の帰結ですよね」
そう言い捨てて、幻影は闇に溶け入るように消失していった。ここから先は必要ない、と言わんばかりに。




