【急】 Disturbing atmosphere
狂界って場所はとにかく人口密度が低い。悪魔の数は決して少なくないはずだけど、それをまるで感じさせないほど馬鹿みたいに広いのだ。
そしてその空白を埋めようとするかの如く、『ドゥーム』の悪魔はそれぞれ広大な領地を有する。各々、地球の表面積程度の領地を自由気ままに使っている。
そして私が今いるこの場所は、かつて『ドゥーム』の一角を担っていた大悪魔──王に反旗を翻し、成す術もなく敗れたゾフィオスの領地だ。
ゾフィオスは水を扱う能力の頂点に君臨する悪魔だった。その影響もあってか、この領地は絶えず雨が降り注いでは地形変動を起こし続ける圧巻の光景を保持している。
「でもなんだか、随分しょぼくなったわねぇ」
ゾフィオスの領地には一度しか来たことがないが、あの時の雨量はこんなものではなかった。それこそ視界のほとんどが水で埋め尽くされる程だったが、やはり王に肉体を滅ぼされたことによる影響か。
何故私がこんな場所に来ているかというと、ぶっちゃけただの暇潰し。それ以上でもそれ以下でもない。
彼が心の整理を付けるまでしばらく時間を置く必要がある。だって彼、すぐに整理を付けられないでしょうし。次に会う時は互いに答えを出した時という約束だし。
はぁー、それにしたって水しかない場所ね……ガルヴェライザの領地も炎しかないし、奴らにはもう少し遊び心ってもんが……。
「よぉ、シャルミヌート」
突然だった。本当に突然、悪魔王がぬぅっと目の前に現れた。全く予想していなかった事態に、さしもの私も少し面食らう。
「あら、王。戻っていたのですか」
「ああ、ついさっきな」
王はゆっくりとまばたきし、つまらなそうに虚空を眺めていた。私が言えたことじゃないけど、一体なんでこんな場所に……。
「少し話をしていた」
唐突に、王はそう零した。当然、私は首を傾げるほかない。
「話?」
「ガルヴェライザに「待て」と指示をしたんだが、それに関する事だ」
「あぁ、その件は驚きましたよ、王がわざわざ意見を翻したと聞いた時は」
「だがそれだけの価値はあったぜ」
しんしんと冷たい雨が降るだけの薄暗い空を見上げる王。常に諦観の念を纏っている漆黒の瞳だが、心なしか今は生気が宿っているように見える。あくまでも普段に比べれば、だけど。
私がその様子をなんとなく眺めていると、王は不意に瞼を閉じて、
「あんな甘ちゃんが、いつかオレの前に立ちはだかる時が来るのかねぇ」
まるで意味がわからないことを、当たり前のように言い出した。
「……何の話です? 王の前に立ちはだかる奴なんて、もう何処にも居ないでしょうに」
訝しむような眼差しを向けると、王は黒いネクタイの結び目を意味もなく掴み、
「シャルミヌート、テメーは元々地球人だろう」
静かな声色で、全く脈絡のない話題を繰り出してきた。
「ええ、知っての通り」
「最近、一人の地球人が半神使化したことを知っているか?」
「!!」
柄にもなく冷や汗が出るかと思った。あの悪魔王の口から、何故彼の話題が出てくる──?
「おい、知っているかと聞いてんだ」
「知っています。日本で暮らす十代の少年でしょう?」
王に対して嘘や誤魔化しは無意味だ。私は動揺を悟られないように、極力平静を装ってそう述べた。
「なんだ、知ってんのか」
「ええ、まぁ。しかし何故そのようなことをお聞きになるのです、王」
何よ……おかしくない? この話の流れはおかしいでしょ……王に立ちはだかる者の話をしてたわよね? それがなんでいきなり彼の話に……。
「…………そうか、アイツはシャルミヌートとも知り合いか。つくづく、難儀な奴もいたもんだぜ」
私の質問には答えず、自己完結的に独り言ちる王。以前からふつふつと湧き上がっていた胸騒ぎが、ここにきて更に重く強くなっていくのを感じる。
「……………なんですか、それ。それじゃまるで、あの半神使が王に立ちはだかるみたいな言い草じゃありませんか」
自分で口に出しておいて、その内容に吐き気を催しそうになる。
そんな馬鹿な話はない。そんな馬鹿な真似、この私が絶対にさせない。
「別にそうと決まってるわけじゃねぇが」
「だったら妙な事を仰らないで頂きたいですね。半神使なんか、ただ珍しいだけで普通の神使以下の力しか持ってないでしょう。王にしてみれば居ようが居まいがまるで関係のないほど微弱な存在に過ぎない。それなのに一体、何を世迷言を……」
「テメー、そんなに喋る奴だったか?」
鋭い指摘に思わず口をつぐむ。悪魔王に彼との関係を勘繰られるなんて面倒事は避けたい、彼にも悪影響を及ぼす可能性があるのだから。
「とにかく、王が滅多なことを言うものじゃありません。それじゃ私はこれで」
半ば逃げるようにこの場を立ち去ろうと宙へ浮かぶ。しかし、
「シャルミヌート」
雨の中で佇む王は、こちらに視線を寄越さないまま静かに口を開いた。
「テメーがどこで何をしていようと自由だが……この世には奇跡的に運が良い奴もいれば絶望的に運が悪い奴もいる。テメーが前者なら、奴は……」
それ以上は聞く気になれず、私は無言のまま飛び去った。
「………………なによ、何なのよ……」
猛スピードで空を駆けながら、自分のものとは思えないほど震えた声を絞り出す。
王の不穏な言い方……彼の身に何かが起きているって言うの? でも、私は何も感じなかった……それとも王にしか分からないような些細な事?
いや……それこそありえない。王なんかより私の方がずっと彼との付き合いが長いのよ。彼のどんな些細な機微も、私は見逃したりしないんだから。
約束をした手前、少し時間を置こうと思っていたけれど……四の五の言ってる場合じゃない、今すぐ会いに行こう。王の目が節穴なのか私の目が節穴なのか、ちゃんと確かめてやるわ……!
「………ちょっと待った」
その前に、ガルヴェライザは今何をしてるの?
王が狂界に帰ってきたということは、神域侵攻まで待機を命じていたガルヴェライザに何らかの説明をしていてもおかしくない。その内容如何によっては神域侵攻を決行している可能性も捨て切れない。そして、私に報告する間もなく彼が急遽神域に行くことになる……なんてハプニングもゼロとは言い切れない。
早く彼に会いに行きたいのは山々……しかしこの優先順位を覆すことがあってはならないのよ。ガルヴェライザの動向は彼の生死に直結しているのだから。
***
ガルヴェライザの領地に着いた瞬間、以前訪れた時との違いに眉を顰めた。
温い。明らかに気温が下がっている。地を這う業火も勢力を落とし、まるで小規模な野焼きのようだった。
「……む、シャルミヌートか」
「…………精神統一はやめたの?」
私の来訪に感付いて現れたガルヴェライザは、明らかに鋭気が削がれていた。全てを燃やし尽くさんとする気迫は彼方へ放り捨ててしまったようだ。
「王から正式に指示を賜った。小休止、と言ったところか。神域侵攻のタイミングは、我の準備期間も含めて完全に王に委ねられる。それまで待機、とのことだ」
「…………あの時の命令は跡形も無いわね」
悪魔王の城にて、『ドゥーム』三体を一堂に揃えたあの日。
王がこんな風に自分の命令を翻し、無かったことにするなど初めてだ。
「それほど……なの?」
「何?」
「王は……今回、それほど期待を……?」
「それは図りかねる。僅かばかりの好奇心によるところが大きいと予想しているがな。何にせよ、神域侵攻が決定事項である事は変わらない。あくまでも小休止だ、これは」
「……そう」
ありえない……そこまで確信があると言うの?
彼が……葉瑠が、王に立ちはだかる者だと……?
「…………信じ難い……あまりにも……」
私があの夜、あの旅館を立ち去ってからの極僅かな間に、何かが変わったとでも言うの……?
悪魔王が命令を覆すほどの、何かが……。




