星を終わらせる者
「……ふむ……うん…………よし、まぁこんなところかしら」
一通り話し終え、セツナは静かにペンを置いた。
真っ白な紙には、現時点で分かっていることが分かりやすく箇条書きにされている。
【一つ。当初は神様のレーダーに葉瑠しか反応がなかったにもかかわらず、現在は一人分──少女イヴのものだと思われる──反応が増えている。人類が消失したあとに誕生?】
【二つ。イヴは葉瑠を知っている。一方で葉瑠はイヴのことを知らず、イヴもそれを当然のこととして受け止めていた。だからこそ自己紹介をしている】
【三つ。イヴはこの世界の惨状について一切の知識を持ち合わせていなかった】
【四つ。イヴは人間でありながら人間を超えた力を有する。その力は神使さえ凌駕する】
「ハル、他になにかある?」
「……ん、ああ。そこに書いてあることとはちょっとベクトルが違うかもだけど……俺はあの子が……イヴが悪い奴だとはどうしても思えない」
吸い込まれてしまいそうな白銀の瞳を見つめながら、はっきりと自分の考えを口にした。
今のところ、どうにもセツナはイヴをこの事件の元凶だと思っている節がある。
取り返しがつかなくなる前に、ちゃんと自分の考えを伝えておきたかったんだ。
「ハル、あたしあの子に攻撃されそうだったのよ?」
「あの時のイヴは意識が朦朧としてたから、あれだけで決めつけるのは良くないよ」
「ばかに肩を持つわね……まぁ、今更あなたがスパイだのと疑う気にはならないけれど」
やれやれと呆れ顔で肩をすくめながらも、俺の言葉を否定したりはしなかった。ここら辺からもセツナの人柄の良さが垣間見える。
「まぁ、あの子が悪者かどうかはさておき、地上の生物が消えたのはあの子の仕業じゃないわね」
「や、やっぱりそうなのか!?」
「ええ、これはほぼ確定。たしかにあの子は凄い力を持っているけれど、地上の生物を一掃できるほどじゃない。魔力も持ってないみたいだし、この家に魔力を提供しているのもあの子じゃないわ。この惨状を引き起こした黒幕は……別にいる」
「…………」
謎は深まるばかりだ。
提供者ではないとしたら、俺とイヴの接点は何なんだ? なぜ彼女はあそこまで俺を慕っている?
「苦々しい顔ね。そんなに考えたって、現状の情報だけで答えは得られないわよ?」
「う……それは確かにそうだけど」
そもそも俺は難しいことを考えるのが苦手なタイプだ。圧倒的に情報が足りていない今、どれだけ考えたって正しい答えなど出てはこない。
「さてと、あたしシャワー浴びてくるわ。ハルも疲れたでしょうし、少し休んだら?」
「ああ、そうするよ。自分の部屋に戻ってるから、何か用事があれば声掛けてくれ」
「分かったわ、それじゃ」
軽く手を振りながら部屋を後にするセツナを見送り、俺は大きく息を吐いた。
教会からここに戻って以降、とにかく気持ちが落ち着かない。
その原因はすでに自分でも分かっている。イヴの安否についてだ。
──葉瑠さん
頭の中で何度も彼女の声が木霊する。
笑っちゃうくらいに楽しそうにオルガンを奏でるイヴ。
俺を見て、涙を流すほど喜んでいたイヴ。
きょとんと目を丸くして、頬を赤く染めていたイヴ。
そして……最も頭にこびりついて離れないのが、傷だらけでよろめく血に濡れたイヴの姿だ。
緊急事態だったとはいえ、必死に俺の名前を呼んでいる少女を置き去りにしてきてしまった。
今頃彼女はどうなっているんだ?
このまま放置していていいのか?
いや、駄目に決まっている。そんなことは絶対にしてはならない。
イヴが怪しいのは、もう分かってる。
この星が滅茶苦茶になったことと、確かにイヴは関係があるのかもしれない。
だけど、それでも俺は……イヴにもう一度会いに行きたい。
もう一度、イヴと話がしたいんだ。
しかしこの望みを実現するのは難しい。
日が沈み、セツナが眠ったのを見計らってあの教会に赴くことは可能だろう。
だけどそれは、セツナの信頼を裏切る行為になる。
つまり……俺があの教会に行くためにはたった一つしか方法がない。
大きく深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。
ああ、当然だ。それくらいの覚悟はしなくちゃいけないよな。
「ふぅー、さっぱりしたぁ。あれ、まだ部屋に戻っていなかったの?」
濡れてキラキラと艶めく桜色の髪を拭きながら、笑顔でこちらに歩み寄ってくるセツナ。
ようやく汗を洗い流せてスッキリしたのか、機嫌もよさそうだ。
今からこの爽やか気分のセツナを不機嫌にさせてしまうのかと思うと気が重くなるが、それは覚悟の上だ。
「ああ、話があるんだ。イヴの事で」
その名を聞いた瞬間、ピタリ、と歩みを止めた。
「何? まだ何か話すことがあるの?」
「うん。俺、イヴにもう一度会いに行こうと思う」
そう、これがたった一つの方法。
きちんと面と向かって、セツナと話し合うことだ。
「ばかなの?」
食い気味に罵倒された。うん、まぁしょうがない。それくらいは織り込み済みだ。
「さっきも言っただろ。俺はあの子が悪者だとは思えないんだ。傷だらけのあの子をこのまま放っておくことはできねーよ」
「……」
セツナは何も言わず、ただ唇を噛み締めていた。怒りとも呆れともとれない、ひどく複雑そうな表情を浮かべている。
「……なぜ、わざわざあたしに言ったの? あたしの目を盗んで教会まで行くこともできたはずよね?」
「ああ、できた。だけどそれじゃあセツナを裏切ることになる」
ピシ、と空気が張り詰める。永遠にも感じられる、数秒の沈黙。
ごくりと唾を呑み込もうとした時、セツナが瞼を閉じて小さく笑った。
「……そ。まったく、手が付けられないわね。いいわ、行けばいいじゃない」
「えっ、本当か!?」
「ただし条件があるわ。あたしも一緒に行くこと。これが呑めないのなら縛り上げてでも止めるわよ」
「分かった、一緒に行こう! よし、そうと決まればさっそく……」
「いや、今は無理よ」
走り出そうとした俺の襟を引っ掴んで、冷静にそう告げられてしまった。
うごっ、苦しい……シャツが首にギッチギチに食い込んでる……。
「な、なんで駄目なんだ?」
「瞬間移動のストックが残っていないからよ。そりゃあ、ハルがあの子から攻撃をされることはないでしょうけれど、あたしは分からないでしょ。それ以外にも何か想定外のことが起きたりするかもしれないし、万全を期さないと」
うーん、確かに……。
教会内で謎の霧が充満した時も、もしも瞬間移動のストックが切れていればセツナの身が危なかった。万全を期す、という彼女の意見はもっともだろう。
「だけど……イヴ、平気かな。血も出てたし……」
「あの程度で死にはしないわよ。とにかく教会に行くのは明日! いいわね?」
「……ああ、わかった」
本当なら今すぐにでも行きたかったところだが、約束は約束。とりあえずセツナの了承を得られたのだから、ひとまずは良しとしよう。
「明日の準備もあるし、あたしは部屋に戻るわ。夕飯の時間になったら呼ぶからハルも部屋で休んだ方がいいわよ?」
「ん、ああ。ところで準備って?」
「……ま、色々よ」
そう言い残し、セツナは自室の方へと歩いて行ってしまった。
***
二十四時間が経過し、セツナの瞬間移動能力のストックが満タンになったのを機に俺達は教会へ向けて出発した。
救急箱を片手で持っただけの身軽な俺に対し、セツナは登山でもするのかと思うほど大きなリュックサックを背負っている。
「なにそれ?」
「んー……ま、色々ね」
昨日と同じくはぐらかされる。何なんだ、一体。
兎にも角にも相も変わらず静かな町を歩き続け、やがて教会前に到着した。
よし、ようやくイヴの具合を確かめられるぞ。
「ハル、あの子にはあなた一人で会いに行って」
まさに歩き出そうとした瞬間に思いも寄らないことを言われ、驚いて振り返る。
わざわざそんな大きな荷物を背負ってきたのに、急にどうしたというのだろう。
「あたしが一緒に居たら警戒されるかもしれないわ。でも、ちゃんと遠くから見守ってるから、ハルは安心して会ってきて」
警戒……まぁ、確かにされるかもしれないけど。
しかし、遠くから見守るだけならその大きな荷物は何のために持ってきたのかと聞きたくなる。
だがそれよりも、早くイヴに会わなければという気持ちの方が勝った。セツナの言葉に大人しく頷き、教会の扉へ歩み寄っていく。
教会内に足を踏み入れた瞬間、俺は思わず眉をひそめた。
昨日、バキバキに割れてしまっていた会衆席が何事もなかったかのように綺麗に並べられている。昨日あんなことがあったとは思えないほどに。
「イヴー、おーい」
返事はない。
物音一つせず、ひっそりと静まり返っている。ここにはいないようだ。
教会に来る機会など無かったから詳しくはないけれど、確かここの教会は庭園があったはずだ。イヴがいるとすればそこか、もしくはパイプオルガンの脇にある小さな扉の先か。
どちらにせよ選択肢は少ないんだから、見落とさないようじっくり探していこう。まずは庭園の方へ行ってみるか。
「こっちかな……」
コツコツという自分の足音がやけにうるさい。
ここに来るまでの道中で散々味わってきた静寂と似た感じがする。
今、この教会には本当に人がいるのかな……。
「あ」
いた。
庭園の隅っこに、煌く星のごとき輝きを放つ少女がしゃがみこんでいる。
ここからじゃ背中しか見えないな……一体あんなところで何をしているんだ?
「イヴ」
左手で救急箱を握りしめ、歩み寄りながら名前を呼ぶと、イヴはふわふわの金髪を揺らしてゆっくりとこちらに振り返った。
俺の顔を見て柔和な笑みを浮かべつつ、唇に人差し指を押し当てている。
静かに、というジェスチャーだ。
もしかして……そこに何か動物がいるのか!?
ちょいちょい、と小さく手招きされるがまま、俺は期待に胸を膨らませてイヴの隣まで歩いて行き、彼女に倣うようにしてしゃがみ込んだ。
「見てください、葉瑠さん」
イヴが指差す先には、双葉の芽がちょこんと生えていた。これは予想外だった。
「え、ええと……芽、だな」
「はい、今朝生えてきたみたいなんです」
イヴは、心の底から嬉しそうにニコニコと笑っている。
「こんな隅っこの、人目に付かないところですけれど……この命は確かに生まれてきたんです。きっと、誰に望まれるでもなく。うふふっ、なんだか不思議ですよね。昨日何もなかった場所に今日は新しい命が生まれていて……それをあなたと私が見つけるっていうのは。運命……ですね、きっと」
慈愛に満ちた眼差しで小さな芽を見つめるイヴの横顔は、本当に天使のようだった。ぶっちゃけ先程の彼女の言葉は完全には理解できなかったんだけど、彼女が嬉しそうな顔をしていると俺の方まで自然と笑みが零れてしまう。
まだ再会して一分程度しか経っていないが、それでもこの子が途方もなく優しい性格だというのははっきり分かる。
イヴは決して悪者なんかじゃない、という俺の考えはやっぱり正しかったんだ。
「さてと。せっかく葉瑠さんが来てくれたんですから、お茶でも出させてください。私の部屋に案内しますから」
イヴはそう言いながら、おもむろに俺の右手を握って立ち上がる。
彼女の柔らかな手の感触と体温に、否応なしに鼓動が加速した。
うーむ、しかしこうしてあらためて見てみると……本当にとんでもなく綺麗な女の子だ。顔のパーツに一切の欠点が無い。
そのうえ体付きがなんというか、その……全体的に非常にえっちぃ。
その中でも特にけしからんのが胸だ。最低でもFカップ、あわよくばGにさえ届いているんじゃなかろうか。いやはや、まったくけしからんぞこれは。
「葉瑠さん? どうかしましたか?」
「えっ!? い、いやなんでも……」
いかん、無意識のうちに凝視してしまっていたようだ。気を確かに持たないと……。
「それならいいんですけれど。ところで葉瑠さん、その手に持っているのは?」
「ん? これか。これはイヴの手当てをしようと思って……あれ?」
そこまで言ってようやく気付いた。
そうだ、そもそも俺はイヴの怪我の様子が心配でここまで足を運んできたんだ。
それなのになぜ、こんなにも普通に会話していたのか。
その答えは……ああ、深く考えるまでもない。
目の前の少女を見れば一目瞭然なんだから。
「イヴ……怪我は……?」
「治りましたよ?」
「治ったって……そ、そんなのって……」
そう、今のイヴの体にはかすり傷一つ見受けられなかったのだ。
会衆席を吹き飛ばしながら壁に激突した彼女は、かなりの怪我を負っていたはずなのに。たった一日で完治するような怪我ではなかったはずなのに。
明らかにこの世の理から逸脱している……って、馬鹿か俺は! 不審がるよりもまず、この子に言うべきことがあるだろうが!
「ごめん、イヴ」
イヴの右手をそっと離し、誠心誠意を込めて頭を下げた。
「今は治ってるとはいっても、昨日イヴを傷付けてしまったのは紛れもない事実だ。本当に……ごめん」
「……顔、上げてください。あなたが私に頭を下げるなんて……あってはならないんです」
イヴのひどく震えた声に若干驚きつつ顔を上げる。
視線の先のイヴは、俺と出会って以降初めて顔を曇らせていた。
「そもそもなぜ、あなたが謝るんです? 私に傷を負わせたのは葉瑠さんじゃありませんよね」
「それは、そうだけど。でもセツナは俺を守ろうとしていただけだったんだ。どうか、あいつを責めないでほしい」
俺の訴えに対し、イヴは苦虫を噛み潰したような顔で俯いてしまった。
「セツナって……私を突き飛ばした挙句にあなたを連れて消えた、あの女性ですよね?」
「……ああ」
「アレ、人間じゃありませんよね? あんなのと葉瑠さんがなぜ一緒に行動しているんですか? アレは葉瑠さんとどういう関係なんですか?」
「セツナは恩人だよ。俺の命の恩人だ」
イヴの問い掛けに間髪入れず答える。
そう、今の俺がこうして二本の足で立てているのはセツナがそばにいてくれたからだ。この事実だけは何があろうとも覆ることはない。
「命の恩人……ですか。その言葉を出されてしまうと、私からは何も言えなくなってしまいますね……」
多少不満そうに頬を膨らませてはいるが、なんとなく納得してくれたのか、イヴは一度だけ小さく頷いてくれた。
「では最後にもう一つだけ聞かせてもらえますか?」
「ああ、もちろん何でも答えるよ」
するとイヴはなおも頬を膨らませたまま、心の底から不安げな眼差しで俺の顔をジトリと見据えてきた。
責めるような視線にも感じるが……気のせいだろうか?
「そのぅ……葉瑠さんは……あの女性と……えぇとぉ……浮気、と言いますか……不倫、と言いますか……えっと……」
は? 浮気? 不倫?
「…………………………………………浮気、してます?」
何言ってんだこの子……?
何でも答えるとは言ったけど……駄目だ、わけわからん。
浮気だの不倫だの、いきなりトンチンカンなワードが二つも飛び出してきて唖然とするなっていう方が難しいぞ。
「ごめん、ちょっと何言ってるか分からない」
十七年間生きてきたが、浮気などというものには全く縁がない。恋人がいたことが一度としてないのだから当然だ。不倫なんてのはもってのほか。選択肢として挙がることすらおかしい。
「あ、あの女性とはそういう関係になっているわけではない……と?」
「それセツナのことだよな? 全然そういう関係じゃないけど。それにセツナは……」
そこまで言って口をつぐむ。
「神使だから」、と言おうとしたが……それをイヴに言うのは現状得策ではない気がしたのだ。
「……そうですか、思い過ごしでしたか。とりあえず安心しました。私があなたと四六時中一緒に居られればいいんですけど、まだここから出られないみたいなので……」
胸を撫で下ろしながらも残念そうに溜め息を吐くイヴ。
やはり、どうにも謎が多い女の子だ。言動に不明瞭な点がありすぎて、いまいち掴み所がない。
「さてと、それじゃあ今度こそ私の部屋に案内しますね。こっちです、さぁさぁ行きましょう葉瑠さん。美味しいお茶をご馳走しますから」
イヴは興奮気味に庭園の出口を指差しながらにっこりと笑った。
先程とは一転してとてもウキウキしているようだ。
「えーと、オルガンの横……ほら、あそこですね。あそこの扉の先が私の部屋です」
ずらりと並ぶ会衆席の隙間を縫って、荘厳な雰囲気を醸し出すパイプオルガンへ近付いていく。
二人で心地の良い足音を刻みながら、そういえば、と心の中で首を傾げた。
セツナは今どうしてるんだろう。 見守る、と言っていたがチラリとも見かけないな。一体何をしてるんだ……?
ふと教会の入口を見やった、まさにその時。
パキン、という音が鼓膜を震わせた。
飴玉を無理矢理噛み砕いた時のような、この場に似つかわしくない不躾な音。
眉をひそめた瞬間だった。
すうっと、流れるように。
一筋の白銀の閃光が俺の眼前を凄まじい速度で通過していったのだ。
──まずい、あれはイヴに当たる
コンマ数秒の狭間に脳裏をよぎった最悪の結果。
だがもう間に合わない。もうとっくに閃光は俺を置き去りにしている。
イヴへ警告を叫ぶ間もなく、謎の閃光が彼女の後頭部めがけて吸い込まれるように伸びていく……!
直後、耳をつんざくような甲高い音が教会中に響き渡った。
「……なっ……」
結論から言うと、イヴは無事だった。
イヴの傍らに立つ、謎の怪物のおかげで。
闇そのものとさえ思える漆黒の鎧を身に纏った、二メートル近くもある人型の怪物。突如として現れたその怪物の手の平には、先程急襲してきたと思われる白銀の弾丸が握られている。イヴはこの黒い怪物に助けられたんだ。
しかし……それを把握したうえでも、俺の頭の中で警鐘が鳴り響いて止まらない。
この世のあらゆる恐怖を体現したかのような、圧倒的な禍々しさ。
一切の輝きを忘れた漆黒の鎧を見ているだけで明確に「死」を感じる。
決して太刀打ちできない相手だという事を本能で理解しているのかもしれない。
根拠なんて無いけれど。
証拠なんて無いけれど。
それでもこの怪物を見た瞬間に、俺はどうしようもなく確信してしまった。
──地上の生物を一夜にして一掃したのは……こいつだ……!!
「『輝力』を込めた催眠弾か。愚かな神の小間使い如きが……ふざけた真似をしてくれる」
低く、重厚感溢れる声。脳が委縮してしまいそうなほどの迫力だ。
「あら、ミラ様! もう元気になったんですね」
「あぁ、ついさっきだがな」
思わずズッコケそうになった。
この緊迫した空間において、ほんわかとしたイヴの物言いは異質でしかない。だがそのおかげでなんとか冷静さを取り戻すことが出来た。
地上の生物を消し去ったであろうこの怪物とイヴが顔見知りと言う事実については、特に驚きはない。イヴが何らかの形で世界の終末と関わっていることなど、すでに昨日の時点で分かっている。
問題なのは、ミラと呼ばれた怪物が言い放った言葉の方だ。
神の小間使い、というのは十中八九セツナのことだろう。催眠弾とやらをイヴに向けて撃ったのもセツナという事になる。
それは……非常にまずい。このままじゃセツナは……。
「さて、害虫駆除だ」
人と同じ体躯をした黒き怪物は、ただひたすらに冷たく死刑宣告を告げる。
その声音に一切の容赦は含まれていない。
俺が口を開こうとしたときにはもう遅かった。
ミラと呼ばれた漆黒の怪物は、軽く床を蹴っただけで一気に会衆席の後列へ跳躍してしまう。
「ステルス能力もあるのか。よほど位の高い神使なんだろうが……ほら、ここだ」
黒き怪物は埃を払うように軽くデコピンをしただけで、透明化していたらしいセツナを大きく吹き飛ばした。
パッと姿を現したセツナは昨日のイヴを再現したかのように、会衆席を盛大に散らしながらゴロゴロと転がっていく。
その両手には、純白に輝く長大なライフルを抱えていた。
「ぐっ……まさか、ミラが黒幕だったなんてっ……」
苦し気な声を漏らしながらもすぐに立ち上がる。あくまでも人間であるイヴに比べてセツナはかなり頑丈なのかもしれない。
だが、多少頑丈だとしてもそんなのは気休めにもならない。あの漆黒の怪物にかかれば人だろうが神使だろうが微塵の差も無いに違いない。
「勝手が過ぎたな。お前はここで死ね」
絶大な威圧感を放ちながら、淀みのない足取りでセツナに迫り来る怪物。
駄目だ、このままじゃ確実にセツナは殺される……! それだけは何としても防がなければ!
何の力もない俺なんかが出てもすぐに殺されることは分かってる。それでも、このままみすみすセツナが殺されるなんて嫌だ!!
恐怖で竦んでしまいそうな足を突き動かし、無我夢中でセツナの元へ駆け出す。
黒の怪物はすでにセツナの目の前まで迫っていた。禍々しい鎧に覆われた拳を握り締め、セツナの心臓をぶち抜こうと大きく振りかぶっている。
「待て、待ってくれ!!」
あらん限りの声を張り上げ、セツナと怪物の間に滑り込むように割り込んだ。
「ハ、ハル!?」
「……」
よし、とりあえず怪物の動きが止まった!
「頼む、この子に手を出さないでくれ! 撃とうとしたのは謝る、だからっ……」
「危ないよ、葉瑠くん」
……え?
今までの重厚なものとは似ても似つかない透き通った声が、間違いなく、目の前の怪物から放たれた。
思考が停止する。
いや、今すぐ考えるのをやめろと俺の心が絶叫している。
だって、この声は。この呼び方は。
俺が世界で一番会いたいと願った、決して会ってはならない人のものだったからだ……!!
こ、この声は……この、怪物は……!!
「…………命拾いしたな、女。とっとと消えろ」
再び低い声で呟くと振りかぶった拳をゆっくりと下げ、セツナから視線を外してイヴの元へ歩き出す。
「あのミラが……見逃した!? この局面で……!?」
セツナが何やら呟いているが、今の俺はそれを気にしていられる状況になかった。
ただ茫然と漆黒の背中を見送ることしかできない。
「……くっ、退くわよハル」
セツナが俺の肩を掴んで瞬間移動する直前に、ミラと呼ばれた漆黒の怪物は、静かに俺の目を見据えていた。
そして、もう一度、澄み切った声音で。
「また会えて良かった、葉瑠くん」
泣きたくなるくらいに昔と同じ口調のまま、そんな言葉を告げてきた。
……ああ、まるで悪夢だ。
あの漆黒の怪物は。
地上の生物を消し去り、世界を終わらせた邪悪なる存在は。
「俺の……姉さんだ……」