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てんしちゃんとあくまちゃん

 その図書室は、中々に興味深い空間だった。

 決して広くはない空間に、文庫本、詩集、写真集、雑誌……様々な種類の本が備えられている。やたら草臥れている本が多いのに、どこか郷愁を感じて粋だと思ってしまうのはこの旅館のずるい所だと思った。

 しかし、図書室に入った俺の目を奪ったのは年季の入った本や本棚ではなく──椅子に座って絵本を読んでいた、一人の男だった。

 一九〇センチはあろうかという長身に加え、漆黒のスーツに漆黒の外套を纏った、明らかにこの場に似つかわしくない雰囲気の男。それだけではない、何より俺が驚いたのは、その男が顔見知りであったことだ。


「あ! あの……この前、神域でお会いしましたよね?」

「ん、そうだな」


 男は俺に一瞥もくれることなく返事をする。

 そう、俺が初めて神域を訪れた際、俺はこの男と話をしたことがある。あの時は彼を神使だと勘違いして失礼を働いてしまったけれど……この男の正体は神なのだ。何故ここにいるのかは不明だが、今回ばかりは失礼のないようにしなければ……!!


「……あの時はすみませんでした。まさか神様だとは思わず……」

「別に気にしちゃいねぇよ、オレは神じゃねぇからな」

「……えっ?」


 神じゃないって……でも、神使でもないんだよな? ええと……じゃあこの人って何者だ?

 虚を衝かれ、出来の悪い脳味噌を必死で働かせている俺を余所に、男はぼーっと絵本を眺めていた。俺の視線も自然とその絵本に吸い寄せられ──その独特な絵柄を見た瞬間、十年近く前の記憶が蘇る。


「あっ、それ『がんばりてんしちゃん』ですよね? 俺も小学生の頃に読んだことありますよ」

「へぇ、テメーも?」

「はい、有名ですし。でも子供向けの絵本にしちゃ妙な話ですよね。だからかも、すぐに思い出せたのは」


『がんばりてんしちゃん』……海外の若き絵本作家が七十年以上前に描いたとても有名な作品だ。しかし子供向けとしてはあまり推奨できない結末を迎えるために、国によっては忌避されることもあるとかないとか。


 内容はこうだ。雲の上で暮らしていた「てんしちゃん」は、ひょんなことから人間達の暮らす地上に落っこちる。地上の人間達は、どういうわけか一様に意気消沈していた。


『どうしておちこんでいるの』と尋ねる「てんしちゃん」に、人間達は『今、この星に巨大隕石が迫っているんだ。何もかも終わりだ』と嘆く。

 彼らを大層憐れに思った「てんしちゃん」は隕石をどうにかする方法を模索し始める。


 それから数日後、いよいよ隕石が降ってこようかという時に「てんしちゃん」が姿を表す。聖なるパワーで隕石の軌道を逸らし、星の救世主として人々から感謝されハッピーエンド……となれば良かったのだが、更に物語は続いていく。


 星を救った「てんしちゃん」を、人類は信仰の対象として崇め奉るようになり、無理矢理地上に拘束した。逃げ出さないよう、大恩人である「てんしちゃん」を檻に閉じ込め一切の自由を奪う暴挙に出たわけだ。


 隕石を逸らした際に力を使い果たした「てんしちゃん」は檻から出られず衰弱、そのまま死に至る……かと思いきや、死の直前に「てんしちゃん」は他者を思いやる心を捨てて「あくまちゃん」に変貌を遂げた。

「あくまちゃん」は漲る超パワーで檻を破壊し、周囲の人間を『えいや、とぉっ、やぁー!』と華麗にやっつける(絵柄で誤魔化されそうになるがどう見ても殺してる)。

 晴れて自由の身となった「あくまちゃん」が笑いながら『自由最高!(要約)』と叫んで物語は幕を閉じる。



「ハル」



 律儀に最後の一文まで読み切った男は、初めて俺の名を呼んだ。まさか覚えていてくれているとは思わずちょっとドキッとする。


「どう思った、この終わり方」

「ええと……何でわざわざこんな終わり方をしたのかな、と思いました。隕石逸らしてハッピーエンドで良かったんじゃないかって。その方が読者もスッキリしますし」

「ああ、大衆はハッピーエンドが好きだ。悪魔以外のあらゆる生物はハッピーエンドを良しとする。そして大衆はこう評価した、『この絵本はハッピーエンドではない』と」


 そうだ。この絵本はハッピーエンドではない。そうなれるタイミングはあったはずなのに、わざわざ蛇足染みた後味の悪い結末が用意されている。


「だが、見方によってはこれもハッピーエンドと言えるんじゃねぇか?」

「え? これがっすか?」

「読者目線からすれば後味の悪い終わり方だしよ、確かにハッピーエンドと言いたくないのも分かるぜ。だが主人公目線ならどうだ?」


 どこか俺を試すように、男は底無しの昏い瞳をこちらに向けた。

 主人公の視点で結末について考えた場合……それは……。


「……主人公は、衰弱死しなかった。最終的に生き残ることができた」

「だろう? 読者にとっちゃ後味が悪くても、こいつにとっちゃハッピーエンドさ」


 男は俺の返答を受け、トントンと細長い指で絵本のイラストを叩いた。指の上には、最高のスマイルを浮かべる「あくまちゃん」の顔がある。

 確かにこの人の言うことにも一理ある。主人公の立場なら、檻に閉じ込められたまま死ぬのが一番悪い終わり方だ。それだと何の救いもなくただ胸糞悪いだけのストーリーにしかならなかっただろう。


「けど、隕石を逸らした時点で終わっていればそもそも閉じ込められることさえなかったはずです」

「確かにその通りだ。しかしこの作者は続けた。大衆からすりゃ蛇足でしかない物語を頑なに付け足した……何故か分かるか?」

「何故ってそりゃ……作者が捻くれてるから?」

「それは間違ってねぇが」


 男は絵本をもう一度開き、とあるページを指し示した。「てんしちゃん」が聖なるパワーで隕石を逸らす重要シーンだ。


「コイツが隕石の話を聞いてからこのシーンに至るまで、数日のタイムラグがあっただろ」

「はい」

「聖なる力で隕石を逸らせるなら、話を聞いた時点で使っちまえば良いと思わねぇか?」

「確かに……あ、準備があったんじゃないですか? パワーを溜めるための」

「ん」


 男は正解と言わんばかりに軽く頷くと、今度は隕石を逸らした後──人間達が横たわる「てんしちゃん」を閉じ込めるページを開く。


「ぶっ倒れてるコイツをよーく見てみろよ。身体の色素が薄くなってるだろ」

「あ、ほんとだ……灰色っぽくなってる。力を使い果たして燃え尽きたって感じなのかな?」

「人間共に拉致される時も一切喋らないし抵抗もしない。つまりだ、コイツは生きてこそいるがその実何も出来ない抜け殻に成り下がってんだよ。隕石を逸らした時点で、コイツは幽閉如何に関わらず死に行く運命だったってわけだ」


 ポン、と本を叩く。ふわりと僅かに埃が舞い上がった。


「人間共がコイツの敵愾心を煽ったお陰でコイツは変貌し、見事生き延びた。図らずとも「力」と「自由」の両獲りに成功した。まさしくハッピーエンドだろ?」


 そうかもしれない。そういう考えもあるのは認める。

 しかしそれでも、俺にはどうしても違和感が拭えない。この終わり方を「ハッピーエンド」と称することは。


「でも、「てんしちゃん」は死んでます」

「おいおい、「てんしちゃん」と「あくまちゃん」は同一人物だろうがよ」

「それは分かってます……でも、実質死んだようなもんですよ。自らの命さえ投げ打ち無償で人類を救おうとした心優しい「てんしちゃん」は、最終的にどこにもいなくなってる。残ったのは、「てんしちゃん」によく似た人殺しだけですから」

「……たとえそうなるだけの理由があったとしても?」

「同情はしますし、絶対的な悪だと断じるつもりもないです。だけど結果として「てんしちゃん」は「てんしちゃん」ではなくなってしまった。それだけは紛れもない事実でしょ?」


 漆黒に包まれた男はゆったりとまばたきし、音もなく息を吐いた。



「……そうか。テメーは、思考が“奴”と似てるんだな」



 ぼそりと、しかし不思議なほど透き通った声色で。

 絵本の「あくまちゃん」を一点に見つめながら、小さく呟いた。


「ハル。テメーだったらどうする」

「どうする……って、何を?」

「もしもお前が世界を救えるほどの力を手にし、それを使えば碌な目に遭わねぇと分かっていたとする。それでもお前は力を使うか?」

「……自分が「てんしちゃん」だったらどうするか、ってわけですか。うーん……俺は正義漢でも何でもないんで、出来れば酷い目に遭うのは御免なんですけど……作中の隕石みたいに、差し迫った危機が俺の大切な家族や友人にも及ぶとしたら、迷わず使っちゃいますね」

「その先に地獄が待っているとしても?」

「はい。だって生きてて欲しいですから」


 そう答え、俺は男に向かってにっこりと微笑んだ。

 最優先は、セツナを始めとした俺にとっての大切な存在を生かすこと。セツナ達を救う過程で他の人々も救えたら万々歳……ただそれだけのことだった。

 男は、俺の答えをあらかじめ予想していたかのように緩慢に頷き、




「テメーだから……だろうな。ありとあらゆる条件が揃ってたわけか」




 ゆらりと腰を上げながら、感慨深そうに言葉を紡ぐ。

 どういう意味か分からず眉を顰めた直後、漆黒の男はそのまま煙のように立ち消えてしまった。



「………………」



 二人から、一人へ。

 冷たい静寂が訪れた小さな図書室で、俺は何かに取り憑かれたように無言のまま佇んでいた……。




       ***




 あのまま図書室にいる気分にはどうしてもなれなかったので、俺は当初の予定通り海の見えるロビーの一角を訪れていた。周囲に客はおらず、一人で考え込むには絶好のロケーションと言える。


「…………静かな海だな」


 時が止まっているのかと思うほど写実的で、故に極めて静謐な海だった。あのような状態を「凪」と言うのだろう。


「………………凪……姉さん……」


 凪。頭の中で浮かび上がった言葉に、口からは自然と愛しい姉の名が漏れた。

 姉さんが天に還ってしまう直前に、俺に遺してくれた言葉……それがずっと心で渦巻き続けている。



 ──絶対に……ちゃんと、幸せになってね……



 あの時、俺は大丈夫だと即答した。死にゆく姉さんを不安にさせないように。

 だが落ち着いて考えてみた時、俺は俺の幸せが分からないことに気付いた。どうなったらあの人の望む幸せに当てはまるのか、いくら時間を掛けても上手く想像することができないのだ。


 セツナが言う。あなたには幸せになってほしいと。

 月ちゃんも言う。ツッキーの幸せを願っていると。


 どうして彼女らがそんな事を言うのか分からなかった。俺がこのままイヴを愛し続けることはそんなに不幸なことなのか。そんなに不幸に見えているのか。


 幸せの定義は人によって違う。

 不幸の定義も人によって違う。


 そして俺はこの現状を……イヴを想い続ける自分を不幸だと思っていない。

 だが、反対に。

 今、そんな自分を幸せだと思っているかと聞かれれば………すぐに答えは出せない。言葉を濁す他ない。

 それはつまり……俺は内心、今、幸せではないのだと……そう感じているってことだ……。



「…………不幸じゃないからって、幸せとは限らない……」



 結局、今の俺はそういう状態だった。こうして自分の弱さと向き合うまで、こんな簡単な事にも気付けなかったのが何よりの証か。

 ならばこのままの状態を維持していいはずがない。姉さんの遺言を無碍にしたくないのなら、変わる努力をする必要がある。前に……一歩踏み出す必要があるんだ……。



「…………その重大な一歩が……あの花を看取ることだった……ってか」



 ポツリと自嘲気味に呟く。そんな風に考えて枯れていく花を眺めていたわけじゃない、これは単なるこじつけだ。しかし結果としてそういう事になっているのは事実で、それが無性に虚しくて。


 けれど昨夜ミヌートに話したことは紛れもなく本音なんだ。俺は、プリザーブドに手を出さなかったことを後悔していない。

 だから、あとはもう……この選択は正しかったと認めるだけで良い。自分は間違っていないと認めるだけで良いんだ。

 そのはず……なのに……。



「……………イヴ……俺、進んでも良いのかな…….」



 姉さんの遺言に応えたい……そのために、止まり続けているこの足を動かさなければ……そう頭では分かっているのに。




 ──貴方を信じた私が馬鹿でした




 夢で見たイヴの言葉と表情がフラッシュバックする。あの冷たい声と伽藍堂のような表情が、俺の足を凍てつかせて使い物にならなくしているのだ。

 どうすればこの氷は溶けるのだろう。

 どうすれば、俺も彼女も納得出来るのだろう。

 その答えが分からない限り、俺は……。


「…………部屋に戻ろう。セツナが起きてるかもしれないし」


 ゆっくりと立ち上がる。すると俺に呼応するかの如く、凪いでいた海に(さざなみ)が立つ。その光景がなんだかとても面白くて、俺は小さく吹き出した。

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