ふたりは家族
「……あつい」
ぼやきながら目を開ける。朝だ。まだ眠いのにどうにも暑くて起きてしまった。
寝間着は汗でぐっしょりと濡れている。真夏だというのにクーラーを切って寝ていたのだろうか。
「……点いてるじゃん」
エアコンを見ながらそう零しつつ自分の頬に触れると、その熱さにびっくり仰天してしまう。
なんだこの熱さ……まさか、深夜ミヌートと別れてからずっと火照ったまま!? うっそだろおい、どんだけ照れてんだよ俺は!
ぶんぶんと首を振って熱を飛ばそうと試みる。しかしある事に気付き、図らずとも一気に顔の熱が引っ込んだ。
「セ、セツナ……?」
居ない。隣の布団はもぬけの殻だ。
急いで時計を見ると、時針は丁度七時を指していた。普段の彼女なら間違いなく起きている時間だ。
「朝風呂にでも行ったのかな……?」
大浴場を構える旅館で朝風呂に行くことは何ら珍しいことではない。寝ている俺に気を遣ってそのまま行ったのかな……うん、きっとそうだ。ここ数日のセツナは非常に調子が良い。出会ったばかりの頃に戻っているかのようだ。だからきっと、すぐに戻って……、
「…………」
彼女は無言のまま、突然目の前にヌッと現れた──瞬間移動能力だ。
「おはよ、セツナ! 昨晩は良く眠れたか?」
俺はすぐに頭を切り替えた。落胆の気持ちが無いわけではないが、こればかりは仕方の無いことだと理解している。
「…………」
セツナは何も答えない。俺の方を見てもいない。ふらふらと頼りなく上半身を揺らすだけ。
「……おっと、うかうかしてたら朝食時間が終わっちゃうよ。知ってるか? 朝食は部屋食じゃないんだ、母家に行かなきゃなんだぞ。さぁ、顔を洗って来てくれ。あっ、それとももう洗ったか?」
「ねぇ、ハル」
「…………どうした、セツナ」
「昨日の夜……縁側の方で、誰かと会ってなかった?」
心臓が飛び出すかと思った。
見られていた? ミヌートと話していたところを? だとすればとんでもないしくじりだ、どう誤魔化す? てか誤魔化せるのか? 見られていたとしてどこまで把握されている? それが分からなければ何も言えない、言えば言うだけ墓穴を掘ってしまう。もしも決定的な部分を──彼女が『ドゥーム』の悪魔だということを──知られてしまったのなら、俺は……。
──向かってくるものは容赦無く殺さなきゃいけないから
初めてミヌートと会った日、笑顔で告げられた言葉が脳裏をよぎる。他ならぬ彼女の言葉だ、そこには一縷の嘘も含まれてはいないのだろう。
「……っ」
やはり他言は出来ない。真実は話せない。無理矢理でもいい、誤魔化す以外に道はないんだ。
「ああ、他の宿泊客と偶然会ってな。寝付けない者同士世間話をしてたんだ」
そんな馬鹿な話はない。構造上、あの庭園はこの客室内からでなければ入れない。つまり空から直接入ってくるような奴でなければ侵入など出来ないのだ。焦っていたとはいえとんでもない誤魔化し方だと自己嫌悪に陥っていると、
「寝惚けていたから……定かでは、ないのだけれど……そう、なのね……」
ぼんやりとした面持ちのセツナは、見え見えの矛盾に気付くことなくあっさり俺の言葉を受け止めた。
言いようのない罪悪感に苛まれながらも、俺はとりあえず場を収められた事に安堵する。
しかし、
「あなたが話してた……相手……どこかで、会った気がするの……」
…………なんだって?
張り付けていた笑みが崩れそうになる。けれどすぐに考え直し、持ち堪えた。だってミヌートとセツナに面識は無い。少なくともミヌートにセツナを気に掛ける様子はなかった。他人の空似というやつだろう。
とはいえ、「面識なんか絶対に無い」と頑なに断言すると返って怪しまれるかもしれない。ここは無難に…….。
「女湯で見たとか、ロビーで見たとか。まぁ意識してなくても同じ旅館に泊まってるなら既視感はあるもんだよ」
「……いや……なんか……上手く言えないのだけれど……」
セツナはじっと俯き、夢を見ているかのように朧げな声を出す。俺が出した事例では到底納得出来ないと、そう言いたげだった。
「…………お……さま……みたいだった」
「……えっ?」
思わず取り繕うのも忘れて聞き返してしまう。あまりに声が小さ過ぎて上手く聞き取れなかったが、何か妙な事を言っていたような……?
「……あれ、今、あたし何か言ったかしら?」
「……あ、いや、特には」
「そう。なんだか半分寝ていたみたい」
セツナは途端に正気に戻りあっけらかんと言い放つと、いそいそと立ち上がって顔を洗いに行ってしまう。
「…………どういうことだ」
先程彼女が口にしたそのワードは、俺の心の深いところでぐるぐると渦巻き続けた……。
***
一度は正気に戻ったかと思われたセツナだったが、すぐに虚ろな表情で動かなくなってしまった。今日はやけに調子の波が激しいな……。
「……セツナ、今日は旅館の中でゆっくり過ごそうな」
だからと言って落ち込んでなんかいられない。俺とセツナは一生こうやって支え合っていくのだ。セツナのフォローを苦痛に感じるようなら俺にセツナの家族を名乗る資格は無い。
「ほら、口開けて」
「……んあ」
「はい。よく噛むんだぞ」
「はむはむ」
「偉いぞーセツナ」
夕食は部屋だが、朝食は母屋のレストラン。つまり今はレストランで食事を摂っている最中だ。
当然他の宿泊客も来ているので、こうしてセツナに食べさせていると奇異の視線が突き刺さる。明らかにラブラブカップルが食べさせ合いをしている雰囲気ではないので、当然といえば当然だが。
「はい、あーん」
「……うぅん」
「どうしたどうした、まだ残ってるぞ。あと少しだけ頑張ろうな?」
「……むー」
とはいえ、もう手慣れたものである。セツナに食べさせてあげることなんて家だとしょっちゅうだし、何ならお風呂だって俺がいないと駄目な時もある。入浴の手伝いなんて流石に恥ずかしい……なんて躊躇していた頃もあったけど、虚ろなセツナの表情を見ればそんなものはすぐに消えた。
心からセツナに尽くしたい、と。
そう思った瞬間から、彼女への気恥ずかしさが俺の中から一掃された。
彼女の身体を洗うことも、ご飯を食べさせてあげることも、歯を磨いてあげることも。彼女へのフォロー全てを尊いものだと思えるようになった。
無償の愛情。慈しむ心。あの時芽生えた尊い気持ちこそが、今の俺を真っ直ぐ正しい方向に突き動かしているのだ。
「よし、ちゃんと食べたな! さぁ、部屋に戻ろう、セツナ」
さて、こうなったからにはもう海には行かないし、今日は旅館内で過ごすことになる。色々考えることがあるからな……今日という時間を有効活用しなくては。
尚も周囲から奇異の視線を感じつつ、俺達はレストランを後にした。
***
「……くぁ」
「ん、眠いのか?」
部屋に戻ってすぐに、セツナが大きな欠伸を噛み殺していた。基本的に一度眠れば正気に戻ることが多いので我慢させる必要もない。
「おいで、布団まで運ぶよ」
とてとてと近寄ってきたセツナを抱え、寝室まで運んでいく。すると、首元から呻くような声が聴こえてきた。
「……あ、あちゅい……」
「え、クーラーは効いてるけど」
「うぅん……」
熱でもあるのかと、抱き抱えているセツナの頬に触れる。ひんやりとしていて気持ちがいい。あれ? ということは……俺の身体が熱いのか。
っと、俺よりもまずセツナだ。我に返ってささーっと速やかにセツナを布団に下ろし、自らの頬に手を添えてみた。
「……熱い、かな。そんな気もするけど」
苦しくもないし辛くもない。確かにほんのり熱い気もするが、いちいち気にするようなことでもないだろう。朝起きた時はもっと火照っていたし、それに比べれば至って普通だ。
ふと下を見やると、セツナは既にとても安からな顔で眠っていた。寝付きが良すぎて思わず口元が綻んでしまう。まったく、愛おしいったらありゃしない。
これを起こしてしまっては良心が痛むので、物音を立てないよう、忍び足でそーっと寝室を出て、ほっと胸を撫で下ろした。
「…………静かだな」
どうしてだろう、真夏だというのに蝉の声さえ聞こえない。ミンミンだのツクツクホーシだの、場合によっては耳障りにすら感じることもあるが、独りきりの今は少しだけ寂しかった。我ながらつくづく勝手な奴だ。
寝室から主室、そこを更に通り抜けて広縁に出る。雲一つない、突き抜けるような青い空。日本の夏特有の湿度の高ささえ無ければ、もう少し爽やかな気持ちになれるのだが。
「……っと、そうだ。あそこに行ってみようと思ってたんだった」
この旅館の地下にはこぢんまりとした図書室があるらしい。せっかくだし、そういういかにもな場所で物思いに耽るのも良いだろう。
宿泊者用の浴衣の帯をぎゅっと締め直し、俺はマップを頼りに旅館内の図書室へ赴くことにした。




