蒼銀に包まれて
ズラリと並んだ会衆席。
巨大なパイプオルガン。
陽光に照らされた構内。
どこもかしこも見覚えのあるこの場所は、きっと隣町の教会なのだろう。
俺は迷いなく足を運び、丁度中心の椅子に腰を下ろした。
「葉瑠さん」
大気の揺らぎさえ起こさず、その少女は俺の隣に現れた。天使のような微笑を浮かべ、俺にニコニコと笑いかけている。
「イヴ」
彼女の笑顔に応えるように名前を呼んだ。俺にとってかけがえのない、愛すべき少女の名を。
すると、夢の中でしか会えないその子は、一転して頬を膨らませていた。
「もう、葉瑠さん! 最近めっきり私の夢を見ないんですから!」
「はは、ごめんごめん。でもどんな夢を見るかなんて選べないんだ。久々に会えて嬉しいよ、イヴ」
それがたとえ夢幻に過ぎないと分かっていても、やっぱりこの姿を見られるだけで嬉しい。
「……」
俺が笑いかけても、イヴは何も言わなかった。膨らませた頬はすっかり元に戻り、真顔で訴えかけるように見つめてくる。
「どうして助けてくれなかったんですか?」
「──、」
唐突に放たれたその問い掛けに、俺は何も答えられない。
後ろ暗かった。あまりにも負い目があった。
「イ、イヴ、俺は……」
震える唇を必死に動かそうとしても、ここから先の言葉は決して絞り出せなかった。
頭の中が真っ白だ。今の俺はミジンコにも劣る脳みそだろう。
「………葉瑠さん、私……」
イヴが口を開く。
嫌な汗が頬を伝う。何かを言われる前に鼓膜を破った方が良いとさえ思った。
だがそれすら出来ない。身体がもう動くことを拒絶している。
やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ……!!
「貴方の判断を許しません。貴方を信じた私が馬鹿でした」
目と鼻の先で。
俺は、イヴの顔を目の当たりにする。
それは全てに絶望しきった、伽藍堂のような──
***
「……ッッ!!」
悲鳴さえあげられないまま飛び起きた。
動悸が酷い。息が切れている。喉がカラカラに乾いてどうにかなりそうだ。
大きく、ゆっくりと息を吐き出しながら時計を確認する。
午前二時。横にいるセツナは穏やかな面持ちで、すぅすぅと安からな寝息を立てている。良かった、俺のせいで起こしたりなんかしたら申し訳ないどころの話じゃない。
俺は彼女の頭をそっと撫でて、忍び足で寝室から広縁に赴いた。
「……綺麗な月」
広縁に腰掛けて天を仰ぎ、微かに呟く。寝室から広縁までは大分離れており、ここなら多少独り言を呟いてもセツナを起こすことはない。
にしても広い部屋だ。それもそのはず、この旅館自体少し特殊な造りになっている。敷地内には、ロビーやレストランのある母屋とは別に家屋が十数軒建ち並び、その一軒一軒が独立した客室として機能している。故に、こうして庭園を楽しめる広縁が備わっていたりするのだ。他にも書斎があったり、先の和風モダンな風呂場があったり……まぁとにかくゆとりがある。二人で泊まるには広すぎるくらいだ。
「…………ふぅ」
美しく、煌々と輝く月を見つめながら息を吐く。セツナと共に過ごす時間は楽しいが、今の俺に一番必要なのは一人でじっくり考える時間だった。とにかく、本当に考えることが多いのだ。
それはセツナの容態であったり、神域に滅亡の危機が差し迫っていることだったり。
でも。
目下最大の悩みは、その二つではなくて。
「見つけたわよ、ばーか」
ふわり、と。いつの間にやら。
蒼銀の月光を浴びながら、銀色の髪をたなびかせた悪魔が目の前に立っていた。
思わず見惚れる。相変わらず、現世と乖離しているかのような美しさだ。
「……ミヌート」
目をぱちくりさせた俺は、自分でも意外なほど滑らかにその名を口にする。
きっと、彼女が会いに来るのは俺の中でもはや当たり前になっていて。
たとえそれがどれだけ離れた場所でも関係ないのだと、信頼しきっているから。
「こらっ」
スタスタと音もなく近づいて来たと思ったら、こつん、と額を小突かれてしまった。
「痛いなぁ、何すんだよ」
「あのねぇ、文句があるのは私の方だっつーの。勝手に旅行とかどういうこと? この私に一言言うべきでしょ?」
「今朝決めたからな。言う暇もなかった」
「んもー! ちゃんと分かってんのかしらこの男は! 私の話忘れちゃった!?」
「ちょ、ちょっと。あんまり大声出さないでくれよ。奥の寝室でセツナが寝てるんだ」
人差し指を唇に当てて警告すると、ミヌートはぶつくさ文句を言いながらも俺の隣に腰掛けた。しかしまだ苛立ちが収まらないのか、俺の太ももをぽむんと殴る。どうやらかなりご機嫌斜めらしい。
と言っても、彼女の場合死ぬほど手加減して殴っているのだろうから、これが軽いスキンシップに過ぎないことはすぐに理解できる。
「ミヌートの話を忘れたわけじゃないよ。神域に滅亡の時が近付いてることも、ちゃんと考えてる」
「むっ……ならどうしていきなりこんな旅行なんて」
端正な唇を尖らせて恨めしそうに唸るミヌート。正直、ここまで全面に不満をぶつけてくるとは思っていなかった。よく分からないがよっぽど気に入らなかったようだ。
「……ちょっと、景色の良いところで、ぼんやりしたくて」
月に照らされて淡く光る庭園の花を見つめながら、俺は消え入りそうな声を漏らす。
傍らのミヌートは訝しむように、
「神域滅亡以上の悩みでもあるって言うの?」
にわかには信じ難い、という少々批難の色が混じった追及に、俺は無言で応対する。
ミヌートは特に気にした風もなく、ゆるいウェーブのかかった銀髪をくるくる弄り始めた。
「……ふーん。さしずめ傷心旅行、ってところ?」
「…………うん、そうだよ」
そして俺は、しばしの沈黙を経て、素直にそう答えた。庭園の見事なまでに咲き誇る花弁から視線を外せないまま、だらしなく肩を落として、
「…………花が、枯れたんだ」
ぽつりと、夜闇に溶け入ってしまいそうな声を絞り出す。
花。
それは俺の部屋で咲いていた、この世に一輪しかない花。
そして、俺のことを本気で好きだと言ってくれた少女が宿っていた、奇跡の具現とも言える花。
それが、もう、かつての美しさが見る影もなく枯れてしまったのだ。
イヴがこの世に存在していたという、唯一無二の残滓が──。
こんなこと、ミヌートに言ったってどうしようもない。意味が分からないと困らせてしまうだけだ。
ミヌート相手だからって何を告白しても良いわけじゃないのに……俺は何を考えてるんだろう。
「そりゃいつかは枯れるでしょ、花なんだから」
いつもの調子で突きつけられる言葉に、今だけは耐えられなくて顔を逸らしてしまう。しかしミヌートは、わざわざ身を乗り出してまで俺の顔を覗き込もうとしてきた。
「な、なんだよ……もう」
可憐すぎる桃色の瞳から逃げるように更に顔を背けるも、彼女もまた更に身を乗りだしてくる。
「へんな反応。なによ、そんなにショックだったの?」
「…………」
胸が詰まる。言わなければ良かった、なんて自分勝手な後悔をしつつ、ゆっくりと瞼を閉じた。
「…………特別な、花だったんだ。本当に、本当に、特別な……世界に一輪しかない花だった」
「だからってそこまで落ち込むこたぁないでしょうに」
「………………だってさ、俺、その子のこと、好きだったんだよ」
「…………はぁ?」
正気を疑う、と言わんばかりの視線が突き刺さる。まぁ、俺は別にどんな目で見られたって構わない。他のことならともかく、彼女のことならなんの苦にもならないからだ。
「ん……あぁ、そっか。確かミラの件で……ふーん、そういうことね」
ミヌートは事情を察したように目を細めた直後、何故か芸術品めいた笑顔を浮かべた。
「あはっ……くすくすっ」
「……何だよ。何がそんなに面白いんだ」
「だってキミ、馬鹿みたいに健気なんだもん」
尚も笑みを絶やすことなく、目を剥いている俺をひたと見据えて、
「そんなのさっさと立ち直ってもらわないと困るわ。健気なのも程々にしてよ」
かったるそうに、肩をすくめてそう言い放ってきた。
それがミヌートなりの激励なのは分かっている。けれども俺は頷く気になれず、緩慢にまばたきをして唇を噛み締めた。
「……あの花は、あの子が遺したたった一つの残滓だったんだ。それが枯れたんだぞ……簡単に立ち直れるわけない」
「ずっと前から心の準備してたくせに?」
すぅっ、と微笑みが消え失せた。震え上がるほどの冷気を携えて、愛くるしい双眸が鋭く光る。
「本当に枯れさせたくなかったのなら、プリザーブドフラワーにでもすれば良かったのよ。永遠は無理でもしないよりは遥かに保つ。綺麗に咲いてる愛しのあの子ともっと一緒にいられたってわけ」
プリザーブドフラワー。溶液に花を浸して水分を抜いた後着色し、美しさを維持する加工法だ。当然、そんなのは俺も知っている。
確かに、プリザーブドフラワーは人間目線で見るならデメリットの少ない画期的な手法だと思う。お気に入りの花を最も美しい状態で何年も保持していられるのは凄く魅力的だしな。俺だって、ただ気に入っているだけの花ならプリザーブドをしていたかもしれない。しかし、あの花は……特別だ。特別過ぎたんだ、あまりにも。
「キミは加工しなかった。理由を当ててあげましょっか?」
「……いい。わざわざ言わなくて」
確たる根拠など無い。でも分かっていた。
目の前の大悪魔は答えに辿り着いている。俺の触れられたくない部分を、当たり前のように見透かしてしまっている。
だから、止めた。怖いから、止めた。
それなのに。
「キミは、有るべき寿命は避けるべきでないと思ってる。たとえそれが、愛した女でもね」
「………………言わなくていいって言ったじゃん」
全身の力が抜けて項垂れた。自然と地面と向かい合う。明らかに人の手が加えられている、あまりに整然とした土だった。
「今のキミには寿命が無いから。そんな自分を全然誇れないから。だから他の命はそうあってほしくないと、そう思っているんでしょ?」
「……なんで分かっちゃうんだよ」
「キミのことなんかすぐ分かるわよ」
俺が自嘲気味の乾いた笑い声を上げると、ミヌートはどこか嬉しそうに脚を組んだ。彼女のドヤ顔なんて珍しくもないが、今は比にならないほどドヤっている。
「キミほど分かりやすい奴もいないわよ。私が出会ってきた知的生命体の中でダントツ分かりやすいもの。それこそ、手に取るようにね!」
「誇るようなことかよ、そんなの」
陰鬱とした気持ちを一瞬だけ忘れ、いつものように彼女と笑い合った俺は、もう一度綺麗な月を見上げた。
「まぁミヌートには言ってるもんな。俺は半神使になったことを後悔してないけど、別に嬉しくはないんだってこと」
ミヌートには、というよりミヌートにだけは、という方が正しいか。こんな面倒な事情、他の誰にも言えやしないのだから。
「自分にもう寿命が存在しないと分かった時……正直言って、本当に恐ろしかった。死ぬのを怖がるのは生物として当然だ。でも、老いることなく生き続ける事を想像したら、死とは別の果てしない恐ろしさがあった。生物は死を怖がる一方で、最期があると分かっているから今を必死に頑張れるのかもしれない……」
「…………、」
俺に倣って月を眺めながら、ミヌートは神妙な顔付きで沈黙を貫いていた。この悪魔もまた寿命という箍を失い、悠久の時を生き続けた身だ。きっと思う所があるのだろう。
「だからこそ、生き続ける生命なんて間違っていると思う。生き続けたその先にあるのは、死ではない別の恐怖だけだ。だから、たとえそれが永遠ではないとしても、どうしてもプリザーブドには手を出せなかった。あれは便利で綺麗でアーティスティックである一方、植物としての在り方を決定的に捻じ曲げている。言うなれば生命としての在り方だ。彼女を俺と同じ場所に引き摺り込む……そんな真似だけは……」
グッと、思いきり拳を握り締めた。短く切り揃えていたはずの爪は、手の平の皮膚を突き破り血を滲ませている。だが痛みはない。表面上の痛みなんか目じゃないくらい、心が痛過ぎて。
「そこまで分かっていながら心の準備が出来ていなかったとでも言うの? キミは」
「……我ながら情けないとは思うよ。正しい事だって思いつつも、日に日に枯れていく花を見るのは辛くて……ずっと心が揺さぶられてた。枯れてしまったその日まで、俺は結局……心の準備なんて……」
「…………はぁ、ばか」
ミヌートは組んでいた長い脚を解き、広縁を立ち上がって歩き始めていく。
……無理もない。俺のような奴は愛想を尽かされて当然だ。ほとほと呆れ果てた、ということだろう。
「──ねぇ、キミ。結局キミは後悔してるの?」
「え」
いつの間にか足を止めていた華奢な背中に視線を送る。漆黒のドレスに包まれた体躯は、影を縫われたかのようにそそり立っている。
「後悔……?」
「そうよ。そんなに辛そうなんだもの、もし時間を戻せたら、キミは花の寿命を延ばそうとしたの?」
自らの血に濡れた手の平を見つめる。赤く、生温かい、ひどく憐憫な生気に溢れている。しかし自死を選ぶか殺されるかでなければ、この熱が失せることは永劫に無いという。
「──後悔は、ない。天寿を全うした命を、俺の我儘で引き留める……それだけは、したくなかったから」
心は痛くて辛くて苦しいけれど。
あの花を加工してしまったら、その後俺は必ず後悔するだろうから。
どんなに辛かろうとも、決して、後悔だけはしたくなかったから。
「…………そう。ならいいのよ、安心した」
幽かな透き通った声と共に銀色の髪を翻し、ミヌートはくるりとこちらに振り向いた。
その表情に、俺はどうしようもなく目を奪われた。
淡い月夜のその下で、彼女は。
途方もなく慈愛に溢れた、陽だまりのような笑顔を浮かべていたのだ。
「私もキミの判断は間違ってないと思うわ。命の見方は色々あれど、キミの見方は一つの正解だとも思う。ただ、間違っていないからこそ、ウダウダうだつの上がらないキミを見てらんないのよ」
「………あ、ああ……ごめん」
呆然としていた意識を引っ張り上げ、何とか口を開いた。
まさかまだ話をしてもらえるとは思ってもいなかった、というのもある。しかし一番の理由は、間違いなく彼女の笑顔に見惚れてしまったからだった。
「……でもな。ミヌートの言う通り、俺が選ばなかった正解もあるんだ。もしかしたら、彼女は……イヴは……俺とは別の選択を望んでいたんじゃないかって……」
「イヴ?」
何故かミヌートは目をぱちくりとさせる。が、すぐに「何でもない」と呟くと、気を取り直すように長い髪を払った。
「まぁ、もはや哲学染みたことだし。人によってまちまちなのよ、そんなのは。あとはどれだけ自分を信じられるかだけ」
「自分を、信じる……」
「キミは苦手そうね」
「……かもしれない」
俺が苦笑すら出来ないでいる一方、ミヌートの表情は全く対照的だった。どこまでも屈託のない、朗々とした笑みを湛えている。見るだけでわけもなく安心できてしまうような、そんな笑顔を。
「それじゃあ、約束ね。私が次に来るまでに、ちゃんと心の整理を付けとくこと!いい?」
「……断言はできないけど、善処するよ」
「だめよ、断言して。甘やかすとキミは答えを引き伸ばしそうだもの」
反論することが出来ず、俺は口をつぐむしかなかった。
例えば、夏休みの宿題。
例えば、セツナと打ち解けること。
例えば、神域から月ちゃんを逃す方法。
大小様々な事案の悉くを引き伸ばしてばかりいるのが、月野葉瑠という人間だった。
「………分かった。必ず整理を付ける」
「ん、よろしい。約束破ったら本気で殴るから」
片手を上げてヒラヒラと振りながら、何事も無かったように去ろうとするミヌート。
引き留めるつもりは毛頭なかった。そのまま見送ろうと思っていた。
それなのに、何故か俺は無意識の内に、遠ざかる彼女へ言葉を投げかけていた。
「なぁ、ミヌート」
「何よ」
「あんたは、どうしてそんなに優しいんだ?」
数メートル先の彼女は俺の言葉を聞いた瞬間、ズコー! なんていう擬音が聞こえてきそうなくらい、ド派手なリアクションを決めていた。
「あ、あのねぇキミ、私ゃ今殴るって脅したわよね? 聞き逃した? もっかい聞く?」
「俺を励ましてくれたんだろ? ミヌートは優しいから、それくらい分かる」
「……そ、そう純粋な目で見られると何とも反応しにくいわね……一応言っておくけど、私、誰にでも優しいわけじゃないのよ? つい最近も狂界で悪魔をバラしたし」
「あんたのことだ、よっぽどの理由があったんだろ?」
「いや、そう言われると……わりと衝動的というか……もにょもにょ」
妙にばつの悪そうな表情で語尾を濁すミヌート。まぁどんな事情があるにせよ、俺の中で今更彼女への信頼を損なうことはあり得ないので問題ない。
「……キミ、洗脳とかされやすいタイプだから気を付けた方がいいわよ」
「洗脳? まさか、かかるわけないよ」
「はぁ……ほっとけないというか、何というか……困った人ね、キミは」
溜め息がちに頬に手を添える。光の加減だろうか、不思議とその頬は赤らんでいるように見えた。
「うーん……まぁ、でも……そうね。確かにキミには優しいかもしれない、私って」
柔和な顔付きと、存外真面目な声色。複雑な心境を吐露するように、ミヌートは悩ましげな眼差しで俺を見据えてきた。
「狂界でも一人で考えてたの。何で私、キミを特別扱いしてんだろうって。なんとなく分かってるような、でも分かんないような……とにかくふわふわしてる」
「ふわふわ?」
彼女にしては珍しく要領を得ない表現に、俺は目を丸くして首を傾げた。しかし彼女もまた困り顔で首を傾げてしまう。
「……まぁいいわ。私も次に会うまでに結論付けとく。お互い宿題が出来ちゃったわね」
最後まで柔らかく微笑んだまま、霞みがかった美しい銀髪を揺らして小さく手を振り、
「それじゃ、またね──葉瑠」
「……えっ。あ、ああ……また」
驚いて反応が遅れてしまった。
俺がぎこちなく手を振り返した瞬間、ミヌートは目にも止まらぬ速さでこの場から掻き消えた。まるで、何かを誤魔化すように。
「………初めてだよな、今の」
誰もいなくなった庭園を茫然と見つめ、俺は宵闇の中ぽつりと独り言つ。
「全然呼ばないから、てっきり、忘れてんのかと思ってた……なんだよ、ちゃんと覚えてたのかよ……名前」
ふと、自分の顔に触れる。熱い。考えられないほどに熱い。けれど理由が分からない。
名前を呼ばれただけじゃないか。ただそれがミヌートだっただけ。
……どうしてミヌートに名前を呼ばれただけで、こんなにものぼせた気分になっているんだろう……?
「……寝よう」
何かいけない思考に至る気がして、いそいそと寝室に引き返した。
布団に潜り込み、眠りに落ちるその瞬間まで、俺の顔の火照りが収まることはなかった……。




