家族旅行
蝉の鳴き声がする。
みーん、みーん、みーん。
夏を感じる。風情を感じる。
いつもの俺ならそう思っていただろうが、今は生憎そんな気分になれなかった。
ただ、ただ、うるさかった。
「…………」
無言でベッドから起き上がる。
朝だ。もう朝が来た。時が進むのは本当に早い。早すぎて……泣きたくなる。
「ハル、起きて。朝よ、朝御飯が冷めてしまうわよ」
部屋の外からセツナの声がした。最近は身体の調子が良いらしい、大変に喜ばしいことだ。
「下で待っててくれ、すぐに行く」
のそのそとベッドから抜け出し、部屋のカーテンを開く。
暑い。今日は一段と暑くなりそうだ。
日本は八月に突入し、相変わらず連日の猛暑を記録している。
だが……変わったこともある。それが俺にもたらしている影響は、本当に大きくて。
毎日の活動に支障が出るほど、苦痛だった。
***
「ねぇ、ハル。宿題はちゃんとやってる?」
「ああ、やってないよ」
「よくもまぁ堂々と。ちゃんとやりなさい」
「はーい」
非常に美味なトマトのスープを啜りつつ生返事を返す。
宿題なんかヤバくなってからやるもんだ。俺は小学生の頃からずっとその方針でやってきた。まぁ大体完遂出来ずに終わるんだけど、それでもこの方針を変えるつもりはない。俺にとって八月初旬は遊ぶための時期であって、決して宿題なんぞに費やすためではないのだ。
「セツナ、一緒にどっか行くか」
「えっ? い、いや、今宿題しなさいって話したのに?」
「行こう」
「う、うーん……でも、うーん……そうね……行きましょうか!」
セツナはなんやかんや甘かった。でも彼女のことだからきっと、俺が普段より元気がない事を鑑みての返答だと思う。調子が良い時のセツナはこの上なく素晴らしい人格者だ。
「どこか行きたい所あるか?」
「あたし? いや……特に。あたしはハルの行きたい所に行くわ」
「じゃあ、海の見える場所にでも行こう。泊まりになってもいいから、景色の良い所でのんびりしていたい」
「とっ、泊まり!? いきなりすぎじゃないかしら!?」
何故か熟した林檎のように赤面するセツナ。もう一緒に住み始めてしばらく経つのに、今さら何を恥ずかしがっているんだろう。
「思えば、ゴールデンウィークはどこにも行けなかったし。夏休みくらい旅行の一つや二つ行ったってバチは当たらないよ」
ゴールデンウィークはセツナの不調が表面化していた時期だったから旅行などもってのほかだった。珍しく最近は調子が良いのだから、このチャンスを逃すのはとても勿体無い。セツナにもしっかり遊んでもらわないとな。
「泊まりで……海が見える場所。前々から言ってた、海外旅行に行くのね?」
セツナは首を傾げつつ、当然とも言える提案をしてきた。俺が色々な国を回ってみたいことは、彼女と出会った時から散々口にしていたからだ。
しかし。
「うーん、やめとこう。海外旅行となると月ちゃんとの約束が守れなくなるかもしれないし、それに……」
「……それに?」
「…………ぁ、なんでもなかった」
力なく誤魔化す。しかしセツナは察したのか、すぐさま朗らかな笑顔を浮かべて頷いた。
「じゃあ国内旅行にしましょう。国内で海が有名な場所といえば……オキナワとか……オキナワ……えーと……オキナワしかなくないかしら、日本って」
「そんなことねーよ! 色々あるよ、色々!」
「どこ?」
「………琵琶湖とか?」
「海……?」
このままでは己の無知を露見しかねないと判断した俺は、仕切り直しとばかりにかぶりを振った。
「とにかく! 別に県外に行かなくたっていいんだ。せっかく海のある県に住んでんだから、海の見える場所に行きたいなんていう漠然とした理由でわざわざ県外に出る必要もない。海無し県の奴等が聞いたら睨まれるぞ」
「なら、県内でプチ旅行ね?」
「ああ、そうしよう。二泊三日、ゆるーくのんびり過ごそう」
移動時間の少ない県内で二泊三日、さらに大して観光をする予定もない。とてつもなくゆったりとした、高校生らしからぬ旅行になるだろう。
でも今の俺には丁度いい。無理矢理大はしゃぎして気を紛らわせる手もあるが、後で虚しくなりそうだ。何より、これはそんな風に済ませて良いことじゃない。長すぎる俺の人生の、今後の身の振り方を定める……もはやそういうレベルの事なんだ。
「よし、じゃあ今日の予定は決まりだな。午前中は旅行の準備、午後には出発だ」
「ふふっ」
「ん、どうした?」
「いえ、ハルがいつにも増してスピーディだったから」
クスッと悪戯っぽく笑うセツナに、俺は苦笑いで返すしかなかった。
***
目的地までは新幹線と電車で行くことにした。県内といっても俺達の住む場所からは距離があるし、何よりセツナが新幹線に乗りたがったし。まぁ、新幹線で移動する時間は相当短いのだが。県内旅行の良いところでもあるし悪いところでもある。
「はい、乗車券。失くすなよ」
「ハル、あなたあたしを小さな子供だと思っていないかしら」
「はは、思ってない思ってない」
ぷんぷんしているセツナを微笑ましい眼差しで見ていると、構内に新幹線の到着を知らせる音楽が流れ始めてきた。
「行こう、こっちだ」
俺は片手でスーツケースを引きつつ、セツナと共に改札口を抜ける。俺達二人の荷物は、四〇リットルのスーツケース一つに詰め込んだ。と言っても中はまだ余裕がある。入っているものはアメニティで補えなさそうな日用品と着替え、それから水着くらい。しかも水着は俺のだけだ。セツナは水着を持っていなかったから、現地で一緒に買う予定なのだ。
「あれ、駅弁買ってたのか?」
「ハルのもあるのよ。はい、どうぞ」
「ありがとう、早速食べよう」
席に着いて一息つき、特徴的な形の弁当箱を二人で開きつつ、今後の予定を頭の中で反芻する。
とりあえず旅館にチェックインして、海水浴場を訪れぼーっとする。
その後は旅館に戻って海を眺めながらぼーっとする。
ご飯食べて、風呂入って、眠って、起きて。
その後も日がな一日ぼーっとする。
これがこの旅行の全容である。
……まるで人生を悟ったかのような過ごし方だ。実際は全くの逆だっていうのに。
にしても、海水浴場か……俺の旅行プラン中唯一の遊び場。俺は泳いだりもせずひたすらぼーっとするつもりだが、そこでは間違いなくセツナの水着姿を見る事になるだろう。
おそらく、いや確実に。この世のものとは思えないほど綺麗に違いない。
今更すぎることだが、テキトーに海を指定したことを後悔している俺がいる。なんと浅はかだったのか、と。
セツナほどの完璧な美人が水着で海に居るとなると、それはもう凄まじく目立つ。地上の星かってくらい浮世離れした輝きを放つことだろう。だがセツナの性格を考えれば大衆の視線を不愉快に感じても何ら不思議ではない。せっかく調子が良いのに悪影響が出てしまったらどうしよう……。
「あたし、海を見るなんてとっても久しぶりだわ。泳ぐのは任務で嫌ってほど経験したから好きじゃないのだけれど、海は好きよ。なんだか、懐かしい気持ちにさせてくれるわよね……」
遠い目をして静かな水平線に思いを馳せている……当の本人はもう行く気満々だ。
「ところでハル、今更ながら旅館の予約は平気なの?夏休みシーズン真っ只中なのに」
「ああ、色々な旅館やホテルに電話しまくったんだけど、一部屋だけ空きがあるって言う旅館があったから押さえといた。今日が平日で助かったよ、大人はまだ仕事してるからな。まぁでも、やっぱすげぇラッキーだったな」
盆休みに入る前で本当に良かったと思う。もし盆ならラッキーすらありえなかっただろう。
しかし実のところ、空いていた部屋はかなり良い部屋で相応に値段も高かった。高いから空いていたとも言えるが、通常クラスの部屋を予約するつもりだった俺としては想定外の出費と言う他ない。あんな風に旅行を切り出した手前、背に腹は変えられないので仕方ないけど……ま、良い部屋の方がセツナも喜ぶだろう。ポジティブにいこう、ポジティブに。
浪費の言い訳をしつつ窓の外を眺めた。今はトンネルの中で真っ暗だった。反射した自分の顔は、がっかりしたのか冴えない表情をしている。
「……トンネルを抜けたら、すぐに着く」
「そうなの? 急いでお弁当を食べなきゃ」
「……だな」
口元を綻ばせつつ、俺達は僅かな時間で目一杯弁当をかき込んだ。
***
新幹線から電車に乗り換え、さらにはフェリーに乗り込んで。俺達二人はようやく目的地の島に到着した。
家を出てからここに着くまで、およそ二時間程度かかった。旅路としては決して長くなかったものの、すでに十五時を過ぎている。これから旅館でチェックインを済ませて荷物を置いた後、セツナの水着を買いに行って、それから海水浴場に……まずいな、スケジュールに余裕が無いぞ。これじゃゆったり過ごすどころか時間に追われる焦燥で台無しになってしまう。
「セツナ、瞬……」
瞬間移動で旅館まで連れて行ってくれないか、という言葉を言い掛けてハッとした。
そもそも、家からここまでセツナの能力に頼れば時間を無駄にすることも無かったのだ。俺は馬鹿だから仕方ないにしても、能力者のセツナ本人はそれを分かっていたはずで、けれどもそんな提案は一言もせずここまで来ている。
何故か。理由は考えるまでもない。
彼女は、普通の旅を望んでいるんだ。目的地に辿り着くまでの道のりを楽しむのも旅の醍醐味だという、至極真っ当な考え方で。
なら……駄目だ。セツナに楽しんで貰うこともこの旅の重要なファクターなのに。俺が野暮なことを口にして彼女の機嫌を損ねるなど、それこそ台無しになってしまう。
「……しゅん?」
「いや、あの……知ってたか? 牡蠣の旬は今なんだぜ」
「あら、冬じゃないの?」
「岩牡蠣の場合は夏が旬だ」
「へぇ~、そうなの。じゃあ辺りのお店で売ってる牡蠣は岩牡蠣なのね」
「いや、たぶん養殖の真牡蠣だと思う」
「え……じゃあなんで唐突に岩牡蠣の話を?」
「……人が多いから、はぐれないようにな。よし行こう、着いて来てくれ」
苦し紛れだったが、とりあえず何とか誤魔化せたっぽいな……背後から視線は感じるけど。
「あ……っとと」
「ん?」
後ろを振り返ってみると、セツナが道端でしゃがみ込んでいた。何か怪我でもしたのだろうかと、俺は慌てて駆け寄る。
「セツナ、靴擦れか? 捻ったとか? 歩けるか?」
「もう、ハルったら心配しすぎよ。あたしは神使なんだから、徒歩で怪我なんかしないわ。ただ、ちょっと眩暈がしただけ」
「……眩暈」
思わずおうむ返しする俺に笑いかけ、よっこらせと立ち上がるセツナ。そのままよろめくように歩き始めた彼女の横顔を、半ば見送るように茫然と見つめてしまう。
顔色は悪くない、むしろ良い。精神面だって最近じゃ考えられないほど安定している。
だったら、俺の考え過ぎか? 人混みに酔ったとか、フェリーで実は酔ってたとか……? 馬鹿な、それこそあり得ない。神使の三半規管はそこまで脆弱じゃない。
じゃあ、でも、だったら。
彼女の身体の内側で、一体何が起きているというんだ……?
「……っ」
ずきん、と鈍い痛みがしてこめかみを押さえる。俺まで眩暈がしそうになった。
もう、本当に……色々……考えることが、多すぎる……。
「ハル、どうしたの? 早く行きましょう?」
「あ、ああ……すぐに行くよ」
どういう顔をしたら良いのか分からなくて、とりあえず無理矢理笑顔を浮かべた。
俺は……セツナの前では極力笑顔でいるのが正しいと思っている。いや、もはやちゃんと理論立てて思考しているのかも分からない。ただそうすべきだと無意識のうちに実践している。
怒ってみたり、悲しい顔をしてみたり。
そんなマイナスな感情をぶつけるなんて、今のセツナには毒でしかないと思うから。
「……は」
そこまで考えて、思わず乾いた笑いが漏れた。
何にも変わってない。神域で交わした月ちゃんやパルシド卿との会話を経ても、俺は結局何の進歩もしていないのだ。
毒でしかないなんてのは、つまるところ俺がそう思い込んでいるだけ。確証などあろうはずもない。
セツナとの関係を考えれば考えるほど、行き着く答えはいつも同じ。
ただひたすらに俺が怖気付いてるという、あまりにも情けないクソったれな答えだった。
「ハルが予約したのはこの旅館よね?」
「……えっ? う、うん、ここだ」
いつの間にか旅館に着いていたらしい。やばい、ずっと無言で歩いてたのか?セツナに不審がられてはいないだろうか?
違うやめろ、考えるな。不安がってばかりが家族なわけない、月ちゃんに言われたことを忘れてるわけじゃないのに、どうして俺は……。
「ハル?」
「あはは、ごめん、ちょっと暑くて。さぁ、入ろうか! スピーディスピーディ!」
「ふふ、変なハル」
じっとりと汗ばんだ手の平でスーツケースを引きずり、俺は目を伏せがちに旅館の中へ突入する。
「この度は当旅館にお越し頂き、誠に……」
ロビーに入るなり、数人のスタッフが丁寧かつ完璧な対応をしてくれた。華やかかつ嫌みのない上品さを醸し出す空間と接客は、それだけでここを選んで正解だったと思わせてくれる。
良かった、これならセツナも満足してくれるだろう……。
安心したのも束の間、あれよあれよという間に部屋に案内され色々と説明を受けた後、俺はようやく腰を下ろして大きく息を吐いた。
「はぁ……くたびれた」
「何を言っているのよ、着いてばかりで。これから海に行くのでしょう?」
「……ん、そうだな。時間も無いし早速出発しようか」
セツナの提案を無碍には出来ず、とりあえずそう返したものの……正直、海に行くのはもう遅すぎると思う。何しろ既に十六時を過ぎている。気に入った水着を選び、海に着くのが十七時半とすると、いくら夏とはいえもはや陽が沈み始めているだろう。
加えてこの旅館の夕食時間は十八時から二十二時|(ラストオーダーは二十一時)で、料理は全て自室に運ばれて来ることになっている。
就寝は極力日付けを跨ぎたくないし、スケジュールは相当厳しい……というか無理だ、無理だろ、どう贔屓目に見ても。
海水浴を楽しみにしているセツナに申し訳ないと思いつつも、俺は苦虫を噛み潰す思いで口を開いた。
「……うーん。なぁ、セツナ。今日はもう海で遊ぶのやめないか? 明日なら朝から晩まで付き合ってやるから」
「あら? あたしは別に構わないわ。どうしても今日の内にハルが行きたいのかなと思って」
「俺は海を眺められればそれで良いから、別に今日にこだわりはないよ。大人しく明日にしよう」
「分かったわ」
おっ! 俺の意見がすんなり通るなんて珍しい。少しはゆっくり過ごせそうでホッと胸を撫で下ろした。
てか俺、そんなに海水浴場に行きたがってるような顔でもしてたのだろうか?
……まぁしていないと言えば嘘になるか。セツナの水着姿はどれほど美しいのだろうと想像してみたりもしていたのだし。
ただ、それはそれとして、俺にとってはゆっくり過ごす事がこの旅行の本懐である事は揺らがない。それに雄大なる海はこの旅館からでも一望できる。海だけでなく美しい庭園や山だって見渡せるのだ。俺としちゃずっと旅館に篭ってても何の問題もない、明日だってわざわざ海水浴場に足を運ぶ必要もないくらい……なんだけど、流石にそれではセツナが退屈してしまうよな。馬鹿なことを考えるのはよそう。
「さて、せっかくだし御飯の前に温泉入ろう」
「一緒に!?」
「なわけねー!」
混浴などという突拍子もない疑問をぶつけてきたセツナに突っ込みを入れた直後、「そういえば」と顎をさすった。
「さっきスタッフの人から説明してもらった通り、この部屋の中には和風モダンな風呂がある。混浴自体は一応可能なのか……」
「や、でも、心の準備が……!」
いつの間にか爆発しそうなくらい真っ赤な顔をするセツナに、俺は慌てて弁明を図る。
「ごめんごめん、俺達が実際にやるわけじゃなくて! ただそういうことをする人もいるんだろうなって!」
まいった、セツナと妙な雰囲気になると後が困る。俺は数分に渡ってなんとか彼女を説き伏せ、ふうっと額の汗を拭った。温泉に入る前に良い汗掻いたぁ……。
「とにかく大浴場に行こう。セツナは……そういうとこ行くの初めてだよな。大丈夫か?」
「大丈夫って、何? 女性しか入って来ないのでしょう?」
「いや、勝手が分からなかったりしないかなって。いいか? 着替えのロッカーは鍵掛けないと駄目なんだ。あと、広いからって泳いだりしちゃだめだぞ」
「ハルのあたしへの認識がどんどん幼稚になってるのはなんなの?」
俺は本気で心配してるんだけど……それが伝わらないのは何とももどかしかった。まぁ今のセツナなら平気か。おかしくなった時のセツナを知ってる身としては、不安を完全に拭い去ることはできないが。
はぁ……確かにセツナにうざがられるのも仕方ないな、俺の過保護っぷりは。でも、うざがられる内はまだ良い。本当に恐ろしいのは、何を注意しても一切反応を示さなくなることだ。決してその時が訪れないよう、俺は生涯をかけて努力しなければならない。




