人を超越した人
「あのさ……イヴ」
「え……えっ!? 私を呼んでくれたんですか!? お、お願いします、もう一回呼んでください!」
キラキラと目を輝かせ、興奮気味にまくし立てるイヴ。
ただでさえ密着しているというのに、こうも顔を近付けられたら俺の顔は茹で蛸状態だ。頭のてっぺんから湯気でも出るんじゃないかと思うほど熱い。
「あ……あの……イヴ?」
気恥ずかしさ満載の声色でもう一度少女の名を呼ぶと、少女の体温が一気に跳ね上がった。
すでに体温が上がりまくっている俺を抱きしめているせいか、呼吸も荒々しい。
「~~っくぅ……あぁ……感無量です……」
恍惚とした表情で熱っぽい吐息を吐くイヴ。
今の一連の流れのどこに感無量要素があったのかは疑問だが、本当に嬉しそうだ。
なんだか段々と罪悪感のようなものが湧いてきた。こんなにも愛らしい少女を疑っている自分が最低な人間に思えてきてならない。
しかし、それでも聞かなければ。客観的に見て、イヴが怪しい存在なのは間違いないことなんだから。
自分自身への嫌悪感を押し殺し、俺は重々しく口を開いた。
「イヴ……聞きたいことがあるんだ。この世界が今みたいに変わってしまった理由……何か知らないか?」
「へ? 世界が変わった? そうなんですか?」
小首を傾げて逆に尋ね返してくる。その表情には一欠片の虚偽も見受けられない。
「知ら……ないのか?」
「う~ん、すみません。実は私、さっき目が覚めたばかりなんですよ。世界がどうのとかは、ちょっとよく分からないというか」
目が覚めたばかり、だって?
だとしたらこの子が魔力の提供者だという俺の予想は的外れだったことになるけど……それでも謎が解決したわけじゃない。
本当に、イヴは一体……?
「ハルッッッッッ!!!!」
──刹那、瞬きの間に
桜色の髪をはためかせながら、必死の形相を浮かべた神々しい少女が現れた。
セツナだ、と頭が理解する前に彼女は俺に抱き着いているイヴに手を添え、そのまま凄まじい力で突き飛ばしてしまった。
教会内のずらりと並んだ会衆席をバキバキに割り飛ばしながら、イヴは容赦なく壁に叩き付けられる。
「……なっ……!?」
「ハル! 怪我はない!?」
「ちょ、おまっ……いきなり人を突き飛ばすとか、何考えてんだよ! おい、大丈夫か!?」
慌ててイヴの元に駆け寄ろうとした俺を、セツナは左手のみで押しとどめてしまう。イヴを突き飛ばした時といい、その華奢な腕からは想像も出来ないとんでもない力だ。
「ばか! あれがただの人間なわけないじゃない!」
悲鳴にも似た鬼気迫るセツナの声で、前へ進もうとしていた足が止まる。
この焦り方は尋常じゃない。明らかにイヴを敵とみなしている。
セツナの反応はきっと正しいのだろう。
イヴが怪しいのは明白で、事実俺だって彼女を疑っていたんだから。
でも……だけど……。
「う……あ…………」
頭から血を流し、体中傷だらけで、それでも必死に立ち上がろうとするイヴの姿に、胸の奥がズキズキと痛んだ。
「ま、待って……待ってくれよセツナ。あの子、本当にただの人間なんじゃ──」
「──あたしがこの星に降り立った時」
俺の震え声を、セツナは鋭く遮った。
「正真正銘、間違いなくあなたしかいなかった。それなのに……あの金髪の女は、今、ここにいる。アレはきっと……人類が滅びたその後に生まれてきたのよ」
「は……」
セツナの真意を確かめる間もなく、教会内に新たな異変が生じた。
ぶわり、と。
イヴを中心として霧のような「何か」が放出され始めた。
決して不快ではないがかと言って爽やかさの欠片もない、独特な感じのする「何か」が教会の隅々まで行き渡っていく。見たことも感じたこともないが……俺は確信する。これが魔力というものに違いない。
「えっ、なによこれ……」
前言撤回。これは魔力ではない。
「えぇ……じゃ、じゃあ一体なんなんだよ」
「分からないわよ! とにかく現時点ではっきりしてるのは、今のあたしの手には余るってことだけ!」
半ばやけくそ気味にセツナが喚いた、その時だった。
セツナの立つ位置から僅か五〇センチほど離れた地点で、霧状の「何か」が竜巻のごとく渦巻き始めたのだ。
「わっ、わわっ……マズイ……ひ、引きずり込まれっ……!?」
「セツナ!?」
じりじりと霧の渦に引きずり込まれていくセツナの手を急いで握る。不思議なことに、近くにいるはずの俺には何の影響もなかった。
「くっ……一旦退くわよ、ハル!!」
冷や汗を流しながら、セツナはかすれた声でそう叫ぶ。
この瀬戸際の状況で「退く」という選択肢を堂々と言えるのは、おそらく彼女の持つ瞬間移動能力のストックがまだ残っているからだろう。
「う……うぅ……葉瑠……さん……」
血まみれの少女が発したか細い声にハッと息を呑んだ。未だ意識を朦朧とさせつつも、イヴが確かに俺の名前を呼んでいる。
少女の必死な呼び掛けに再び胸が痛くなるが、セツナは俺の返答を待つことなく瞬間移動の力を行使した。
***
どしゃりという鈍い音とともに、二人して家のリビングに転がった。
起き上がろうとする暇はなかった。すぐさま、セツナが俺の顔の両側に手を突くようにして覆い被さってきたからだ。
もはや吐息が混じり合う距離。
所轄「床ドン」状態だが、俺はもちろんセツナの方もそういったロマンチックな感情は持ち合わせていないだろう。
「はぁ……はぁ……説明してもらうわよ、ハル。あの女は何?」
「…………分からない……」
「あたしを馬鹿にしているの? あの金髪、あなたの名前を呼んでいたわ。それにあなたもあの女を心配していたし、何より……抱き合っていたじゃないの」
セツナの顔は……怒りよりも遥かに悲しみの色合いが濃かった。
心苦しいけれど、俺も嘘をついているわけではない。
「セツナを馬鹿になんてするもんか。俺は今日初めてあの子と会ったんだ、それは絶対に間違いない……けどあの子は俺の名前を知っていた。その理由は……俺にも分からないんだ」
「……………………」
白銀の瞳を不安げに揺らし、じっと俺の目を見据えてくる。
今の俺に、これ以上の弁解は出来ない。あまりにも分からないことが多すぎるため、セツナを完全に納得させることが不可能だからだ。
むしろ、こんな状況でその場しのぎの言葉を並び立てることこそ彼女の信頼を踏みにじる行為に他ならない。
「……あの日、あたしは、あなたを信じることを選んだわ。あなたは嘘をついていないと。あなたはあたしの敵ではないと」
ああ、そうだ。セツナは、一人この世界に残った怪しい俺を信じてくれた。
神使ならば疑って当然、捕縛するのが当たり前な状況で、セツナは温かな笑顔で月野葉瑠という人間を信じる道を選んでくれたんだ。
俺も当然、セツナの信頼を裏切ることなどしないが……今の俺はそれを主張できる立場にない。
「…………………………はー」
長い長い沈黙を、セツナの小さなため息が打ち破った。
ぽたぽたと滴る冷や汗を拭いながらゆっくりと立ち上がっていく。
「…………とりあえず、信じてあげる。そうね、嘘をついているようには見えないものね」
振り返りざまに、凛とした声でそう告げてくれた。
色々と考え抜いた末に、彼女はもう一度俺を信じてくれたのだ。
ならば俺も、精一杯セツナの信頼に応えなくては。
「俺は絶対にセツナを裏切ったりしない。約束するよ」
「…………あたしの選択……どうか後悔させないで」
「ああ、もちろん」
俺が大きく頷くと、ようやくセツナの表情が柔らかくなった。
そしてそのままソファに深々と体を沈ませる。疲労困憊といった様子の彼女を見てハッとした俺は、急いでキンキンに冷えた水を目の前に差し出した。
「あら、ありがと」
そう言って、一息で水を飲み干してしまう。
大量の冷や汗を流していたこともそうだが、セツナはあの教会での一件にかなり神経を擦り減らしていたようだ。それだけの危機的状況だった、ということだろう。
「……なぁ、セツナ。イヴのことなんだけど」
「イヴ? あの金髪の事?」
「ああ、さっき教会で自己紹介してもらった。だけど、その時少し違和感があってさ。自分の名前を言うとき……少し、考えてたんだ。まるで自分の名前を思い出そうとしてるみたいだった。たった二文字の名前なのに」
俺の言葉にセツナは少し考える仕草をしつつも、すぐに首を横に振った。
「それについてはよく分からないわね。ただ、あたしから言えるのは、アレは紛れもなく人間だということ」
イヴは、紛れもなく人間。
確かにセツナはそう言った。俺も最初はそう思った。
だが、最後に彼女が放った謎の力はどう見ても人間業ではなかったはずだ。
「間違いなく人間でありながら、ただの人間では決して抱えきれない膨大な力を内に秘めている……正直、不気味でしかないわね。たぶん神使のあたしよりも強いわよ」
人間でありながら人間を超えており、神使であるセツナよりも強い存在……?
駄目だ、頭がこんがらがってきた。
セツナは俺の表情を見て心の中の混乱っぷりを察したのか、苦笑いを浮かべながら紙とペンを取ってきた。
「とりあえず、教会内の出来事や現時点で分かってることを書き出して整理してみるわよ。さ、一個ずつ話してみて」
セツナの妙案に頷き、俺は教会でのイヴとの会話や気になった点を話していく……。