歪なカタチ
テスト勉強を始めて四時間ほど経つ。なけなしの集中力が遂に限界を迎えて来た頃、コテージの扉がゆっくりと開かれた。
「あっ! セツナ!」
主人の帰宅を喜ぶ犬のように扉へ駆け寄り、満面の笑顔で出迎えた。もし俺に尻尾があればぶん回っていたことだろう。
セツナは意外そうに、しかし嬉しそうに目尻を下げる。
「あらハル、どうしたの? ばかにハイテンションね」
「いやー、えへへ」
「どうやらタイムリミットみたい」
困り顔で肩をすくめながら、月ちゃんがセツナに声を掛けた。彼女の表情を見たセツナは俺を訝しげに覗き込み、
「あなた、ちゃんと勉強したの?」
「し、したよ! なぁ月ちゃん!」
「うん、まぁ。ただ……やっぱり時間が足りないかな。もう完全に集中力切れてるから、お開きにするけど」
うっ、バレてる。
「どうかしら、ポップ。ハルは赤点回避出来そうなの?」
「元々ツッキーが自信持ってた英語は絶対いけるよ。一応国語も大丈夫だと思う……古典は危ないけど、筋は良い。やっぱり文系寄りだね、ツッキーは」
案外褒めてくれて驚いた。勉強中は全然褒めてくれなかったのに……これが飴と鞭ってやつか。
「それで理数系は……もうとにかく私の作った問題集を繰り返しやって。もぉ本当に、それだけしていれば赤点だけは大丈夫だから。ね、わかった? 絶対だからね?」
「は、はい」
「ほっ、つまりハルは安泰ってことなのね」
セツナが胸を撫で下ろす。この念の押され方で安泰だと言い切るのはどうかと思うが、心の底から安堵しているようだ……けれども、俺は戦々恐々だった。月ちゃんは、まだ肝心な部分を言っていないのである。
「あー、理数系は百歩譲って安泰だとして、日本史は……無理だね! 絶ッッ対無理!」
「え、ええっ!?」
一転して赤点確定の烙印を押された俺に、セツナがたまらず素っ頓狂な声を上げた。
「日本史が駄目だとは言ってもまさかここまでとはね……」
「で、でも、まぁ、ね? 安泰じゃないだけでしょう? ポップの問題集もあるし、運が良ければ赤点くらいクリア出来るでしょう?」
「いや、無理。ツッキーが赤点になる確率、聞く?」
「ちょ、いいよそんなの。聞きたくないしセツナにも聞かせたくない」
どうせ一〇〇%って言うに決まってるしな。わざわざそんな心臓に悪い数字をセツナに聞かせるなんてやめてほしいもんだ。
「でもハル、あなたの赤点如何はあなただけの問題じゃないわ。本当に色々な影響が出てしまうの。そう言ったわよね?」
「うん……」
「ここはきちんと受け止めるのよ。聞きましょう」
「……分かった、分かったよ。それじゃ月ちゃん先生、俺の赤点確率は?」
「一〇〇〇%」
「「い、いっせん!?」」
マジでか!? 未だかつてそんな確率が当てはまる事象に出会ったことはないが……マジでか!? 俺か!?
「生きている人間はみんな生まれたことがあるか……うん、そんなの一〇〇%に決まってるよね。んで、ツッキーの赤点確率は一〇〇〇%……もはやこの世のものとは呼べないよね」
「俺のおつむはオカルトレベルかよ」
「ハル……」
「や、やめてくれセツナ! そんな目で見ないでくれ! セツナにそんな目で見られると泣きそうになる!」
くっ……確かに俺は日本史が苦手だ、それは自分でも分かってる。しかしだからと言って円グラフ十周分は無いだろう! あまりに酷い、現役高校生を舐め過ぎている!
「そのイカれた数字の理由は?」
「ツッキーさ、日本史苦手っていうか毛ほども興味無いでしょ」
「うん」
「だからでしょ」
「なるほど」
あっさり納得してしまうと、突然背後から強力な負の気配を感じた──セツナである。
「ハル……どうするの? 赤点を取ったら、あたしとの休日の予定も狂うって……前々から言ってたのに……もしかしてどうでも良かった?」
な、なんだぁ!? この沈み方は尋常じゃないぞ!
「ど、どうでも良いわけないじゃん!? 俺がそんな事思うわけないじゃん!? でもっ……人には向き不向きがある! 日本史は……ごめん、覚えられないんだよ! 難しい漢字ばっかだし! 人名も似たような奴らばっかだし! 何よりなぁ、遥か昔の事なんか勉強して何の役に立つんだよ!?」
「でもツッキー、世界史は得意だったんじゃないの?」
「それは姉さんのためというか、世界を旅する時に役立つかもと思えたからで。地理も普通に得意だしな」
俺の弁明に対し、月ちゃんは渋い顔で若葉色の髪をかき上げ、
「要はやる気の問題だよ。最初から覚える気がないから覚えられない。少し、ほんの少しでもいいから、英語や世界史へ向ける情熱を日本史へ分けてあげればいいのに……ていうかそもそも普通に世界史を選択していれば良かったのに」
「それを言っちゃおしまいでしょう先生」
ともかく、と小柄な辣腕講師が大仰に腕を組んだ。
「このままじゃ駄目、絶対! ツッキーはしばらくここに缶詰だよ!」
「かっ、缶詰ェ!?」
とんでもないことになってきた。俺達、あと何時間神域に居なきゃいけないんだろう。俺はまだ良いとして、セツナは……。
「……月さん、いや、月先生」
「きゅっ、急に本名で呼ばないでよ! びっくりしたなぁもう!」
あ、なんか照れてる。若干態度が軟化したかもしれない、これなら俺の要求も……。
「あと一時間で手を打ちませんか?」
「だめ」
だめだった。
「あの惨状でその申し出ができる度胸は認めてあげる。でもだめ。休憩時間を抜きにしてもあと九時間は要るよ」
「そんなに!?」
「うん。一万歩譲歩して九時間」
恐ろしさすら感じるほどの真顔だった。もう俺に拘泥の余地は残されていない。
さて、俺自身は諦めるとして……セツナはどうする?
彼女の本音は聞かずとも分かる、とっとと神域から出たいはずなのだ。それこそ、今すぐにでも。
かと言って俺を置き去りにする選択肢は、彼女の中に無い。それくらいはもう分かる。であれば、俺が彼女に道を作ってやらねば。
「セツナ、先にウチに帰っててもいいよ」
「え……」
「瞬間移動のストックはまだ二回分残ってるだろ? 一度帰っておいて休憩しつつ、時間が来たらまた迎えに来てくれよ」
本来なら神域から帰りたてのセツナを一人きりにするなど言語道断だが、今回は大丈夫なはずだ。ごく短時間だし。
というのも、俺が神域で半日過ごしたところで、地球上の時間は大して進まない。ここと地球では時間の流れが異なるから、こんな風に利用してやれば無駄がないのである。
「……でも、あたしだけ帰るなんて。ハルに悪いし」
「むしろ残られたら俺の罪悪感が凄いんだよ。考えてもみてくれ、こうなったのも俺の頭が悪いからだ。惨めな俺の心を助けると思って、ここは一つ頼む」
パンっと両手を合わせて拝み倒す。俺のため、というのも事実だが、何よりもセツナのメンタルのためだ。これに関しては土下座してでも了承させてみせる。
「…………そうね。それが一番ね。離れる時間も少ないのだし」
僅かな逡巡の末、セツナは俺の提案を呑んでくれた。そして軽く佇まいを正し、月ちゃんへ向き直った。
「ポップ、ハルのおむつをお願いね」
「おつむね。まぁ出来る限りのことはするから」
軽く挨拶を済ませ、セツナは決まり悪そうな顔のまま神域を発った。若干渋っていたもののすぐに俺の提案を受け入れたあたり、本当に神域に居るのが嫌なんだろうな……。
「……どうしたの? セツナさん、具合が悪そうには見えなかったけど」
「……病気ってわけじゃないんだけどな。心配なところがあるのは確かだ」
脳へのダメージによる後遺症……というのは建前で、彼女の異変は何か別の要因がある。以前クライア様との会話で得た確信だ。いつかは詳しい理由を知りたいが……。
「にしても、良いねぇ。あの能力があれば楽だろうなぁ」
頬に手を添えてぼやく月ちゃん。あの能力、というのはセツナの瞬間移動のことだろう。
再び二人きりになったのを機に、俺はふと気になることを尋ねてみた。
「そういえば、セツナは瞬間移動能力で星とここを行き来出来るけど、他の神使達はどう移動してるんだ?」
「基本的には乗り物かな。ほら、ラランベリ様と一緒に乗ったUFOみたいな」
「あー、なるほど」
もちろん瞬間移動には及ぶべくもないが、あのUFOもえげつないスピードで飛んでいたはずだ。あの乗り物があれば星間移動さえ苦ではないのか。
「でもねぇ、乗るのにいちいち手続きしなきゃいけないから。その点、セツナさんはお手軽で良いなって思う」
「はは、そうだな」
月ちゃんの能力も充分当たりだし、ミヌート曰く俺の能力も当たりとのことだが、セツナの瞬間移動はさらに頭一つ抜けた力だと思う。ストック制とはいえ、距離制限無しの瞬間移動という凄まじい性能は、とても同じ神使とは思えない。いや、まぁ俺は半神使なんだけども。
「さて、それじゃ勉強を……ううん、ちょっと休憩した方がいいよね。何か食べる?」
「え、なんかくれるの? 食べる食べる!」
世間話もそこそこに、俺達は次なる勉強に向けて準備を整えるのだった。
***
「はいそこまで……ちょっ、何書いてんの! タイムアップだよツッキー!」
「………うーーーーん」
「今から採点するから。先に聞いておくけど、自信のほどは?」
「ギリギリ合格点ってとこかな」
「おっ、凄い自信。それじゃちょっと待ってて」
二時間の過酷な復習を終えた俺は、成果を確かめるため月ちゃんお手製の小テストに取り組んでいた。局所的範囲を復習しその部分だけを解く小テストに挑む、という流れをとにかく繰り返し、最低限の点数を確保する算段らしい。
「よし、採点終わったよー。五〇点満点中十二点! 赤点!」
「なにっ!?」
あれ、思ったより高いぞ!?
ぶっちゃけ赤点なのは分かっていたんだけど、まさか二桁あるとは思わなかった。
「ふふ、ちょっと前進したの、自分でも分かるでしょ?」
「うん、まぁ」
「あとたったの十八点取れれば、本番でも赤点回避出来るんだから。さぁ、やる気出していこ?」
「はーい」
カタツムリ並みの速度ではあるが、着実に進んでいる。これなら何とかなるんじゃないかという希望が湧いてくる。
俺が思うに、月ちゃんは講師としてだけでなくモチベーターとしても優秀なんだ。彼女を喜ばせたい、彼女に喜んで欲しいと思わせる何かを月ちゃんは持っている。
「さてと。ちょっと遅くなっちゃったけど晩御飯にしよっか。その後お風呂入って、勉強して、ぐっすり寝る。わかった?」
「オッケー……っと、月ちゃん、俺はどこで寝ればいい?」
「え? そりゃベッドで…………あっ!?」
「ん、どうしたよ」
「えっ、あっ!! ベッドが!! 一つしかない!!!!」
「は、はぁ……それで?」
いきなり大きな声を出したかと思えば、月ちゃんの首から上が沸騰したみたいに赤くなった。あまりの急変貌に着いて行けず、俺はただ呆気に取られてしまう。
「えっ、えっ、もしかして一緒に寝ることになるの……!?」
「いやいや……」
びっくりした。あの僅かな沈黙でやらしい方面に想像を働かせるとは。
俺は純粋に自分の寝床を尋ねたもんだから、そういう発想は全くなかったのに……月ちゃんがそんなに恥ずかしそうにしてるから俺まで恥ずかしくなってきた。
「あ、あのなぁ月ちゃん。ベッドが一つしかないからって、別に一緒に寝る必要はないじゃん。そもそも俺は、ベッドを使わせて貰おうなんて厚かましいこと考えてなかったよ」
「でもでも、ツッキーが雑魚寝なんて。お坊ちゃんなのに」
「お、お坊ちゃんて! やめてくれほんと!」
雑魚寝も許容できないような奴だと思われてたのか……地味にショックだ。
「ともあれお客さんを雑魚寝させるのは普通に嫌だなぁ……あ、そうだ! ベッドは一つしか無いけど、ハンモックがあるよ!」
「ハンモック!?」
まさかの提案に今度は俺のテンションが突き抜ける。というのも、俺は生まれてこの方ハンモックを使ったことがない。一体どんな寝心地なんだろうと、幼少の頃より憧れに近い感情を抱いていたのだ。
「ハンモックってアレだよな、木と木の間に括り付けて使うネットのアレ!」
「ううん、ウチのは組み立て式スタンド型のハンモックだけど」
「組み立て式?」
「そう。室内でも屋外でも使えるの」
「あ……そうなんだ……」
俺の中でのハンモックといえば、ネットを木と木の間に張り巡らせ、木漏れ日を浴びつつうたた寝を……みたいなイメージだった。そうか、組み立て式か……。
「時代は変わるんだなぁ……」
「組み立て式自体はずっと前からあるけど……あっ、でもでも、ネットだから! ツッキーが想像してる通りの網々ネットだから!」
「お、おん」
しまった、気を遣わせてしまったか。月ちゃんの好意を無碍にするのはマズイ、気を付けないと。
「よし! じゃあ早速見せてもらおうかな」
「うん、こっちの部屋のクローゼットにあるから着いてきて」
言われるままその小さな背中を追っていくと、
「あった! これこれ!」
あまり使われてなさそうな部屋のあまり使われてなさそうなクローゼットに手を突っ込んだ月ちゃんが、嬉々として声を上げた。
引っ張り出したのは、木製スタンドと折り畳まれたネット。ほほう、これが噂の組み立て式か。
「どこで組み立てよっか。ここは、あまり掃除出来てない部屋だから」
少しはにかみながら言う月ちゃん。任務で忙しいだろうし、一部屋くらい掃除が行き届いていなくとも仕方ないだろう。ていうか俺からしてみれば充分綺麗な部類だし。
「ここで組み立てればいいよ。んで、移動するのも手間だし寝るのもここでいい」
「えーっ? 汚いよ?」
「別に普通だろ。それに、俺は押しかけてる立場なんだからさ」
謎の拘泥を見せる月ちゃんを一分かけて説き伏せ、ようやくハンモックを組み立て始める。ちゃんと組み立てられるかな、なんて心配していると、
「ここをこうしてこう! ほら出来た!」
「うわっ、すげぇ簡単! 何のやり甲斐もない!」
「求められるのはやり甲斐ではなく如何に楽か、だよ」
「月ちゃんは企業の回し者かよ」
正論ではあるけど。まさかここまであっさり完成するとは思わなんだ。俺の知らないうちにここまで進んでいたのか、ハンモック界隈は。
「さ、試しに寝転がってみなよ」
「それじゃ早速」
ぴょん、と待望のハンモックに飛び乗ったところ、
「ぐぇーーッ!!」
「ツッキー!?!?」
何かが割れる音と共に床に叩き付けられてしまった!
会話中にいきなりビンタされたかのような衝撃を受け、俺はネットに絡まりみっともなく手足をばたつかせてもがく。
「おいぶっ壊れたぞこのハンモック!」
「うわっ、亀甲縛りだ!」
「馬鹿なこと言ってないでさぁ!」
やいのやいのと騒ぎつつも絡まったネットを引き剥がし、ふぅと二人で息を吐いた。
当然だが、俺の視線は視線を逸らす月ちゃんの横顔へと注がれている。
「……あのさ、ボロくね?」
「い、いやぁ、あはは……」
ただボロいってレベルじゃない、ガチで相当ボロくなければ起きえない事態が起きてしまった。お陰で俺のハンモックデビューは滅茶苦茶である。
「月ちゃん、正直に答えて欲しい。一度でもあのハンモックで寝たことがありますか?」
「な、ないです……」
「ないよな? あのな? 企業の回し者なら安全も確認しような?」
「この度は弊社の不手際で……」
「ノリの良さに免じて許す」
とにもかくにもハンモックは壊れ、俺の寝床は失われた。ついでに俺の憧憬も粉々に砕け散った。
まぁ元々雑魚寝する予定だったし、そもそもハンモックが無かったと考えれば問題ない。
「さ、気を取り直して夕飯の準備でもするか。良かったら手伝うよ」
部屋を出ながら月ちゃんにそう申し出ると、とんでもなく意外そうな顔をされた。
「え? 助かるけど……ツッキー料理出来るの?」
「人並みには」
「へー、意外! じゃあいつもセツナさんを手伝ってるんだね」
「いや、手伝ってない。手伝わないようにしてる」
問われたことを滔々と述べた。蔑まれるだろうが、嘘をついても仕方ない。
「料理が出来るくせに手伝う気がないって……まるでぐうたら駄目夫だね」
「なんつー比喩だ。俺はそこまで堕ちてない」
小さく嘆息し、天井の木目を見つめてポツリと零す。
「セツナはな……怒るんだよ。俺が手伝おうとすると」
「怒る?」
「ああ。前に一度、俺が家事全般を担おうとした時があったんだ。セツナの不安定な部分が目立ち始めてた頃な」
完全な善意だった。家族を支えたい一心で行動を起こすことに、何の躊躇いも無かった。
「その日は早起きして家ん中を掃除した。朝食も俺が作ろうと下拵えをしていたら……セツナが起きてきた」
頭の中で鮮烈に刻まれている、あの日の記憶を呼び起こす。
あの日から、俺は……セツナへの認識を改めることになった。
「キッチンに立つ俺を見るなり、セツナは……ブチギレてた。『なんでそんなことしてるの』って本気で怒ったんだ」
「ど、どうして? 何か粗相をしたってわけでもないのに」
「どうしてもこうしてもないよ。俺が家事やってんのが気に入らなかったんだ。それも相当だぜ、セツナがあんなに怒ったのは後にも先にもあの時だけだ」
「でも、普通は有難いもんじゃない? 手伝ってくれたら単純に楽できるし」
「俺もそう思ったよ。大体の奴らはそう思うだろうな。でも──セツナは違う。『料理も掃除も全部あたしの仕事、あなたは何もしなくていい』と怒鳴ってた」
優しい顔、困った顔、必死な顔、泣いている顔──俺はセツナの色々な表情を見てきたが、あの時の表情は初めて見るものだった。
痛々しいまでの、圧倒的な憤怒。あの表情を見た瞬間、俺の取るべき行動は決まってしまったのだ。
「セツナの言葉に従って……というより、あいつのメンタル面を考慮して俺は家事をしない方が良いんだって結論に落ち着いた。実際、もうブチギレたりすることは無くなったしな」
「……何か、あるのかな。セツナさん」
「うん、ある。間違いなくある……けど、まだよく分かんない」
俺がセツナに対していつまで経っても一歩引いているのは、慎重に立ち回ろうとした結果だ。ストレートに言ってしまえば、また怒らせてしまうのが嫌で怯えている。
俺はセツナを本当にかけがえのない家族だと思っている。セツナを支えたい、もっと仲良くなりたいと思っている。でも……もし彼女に一歩踏み込めば……後戻り出来なくなる気がして。
俺はそれが何よりも、何よりも怖いんだ。これからもセツナと一緒にいたい。離れ離れにはなりたくない……。
「……ツッキーも、色々大変なんだね」
俺に倣うように天井を見上げつつ、小声で呟く月ちゃん。
湿っぽくなり過ぎたなと、俺は苦笑混じりに肩を回して見せた。
「さ、夕飯作るか! 久々に包丁持つから緊張するなー! そういや今日の献立は?」
「クラムチャウダーだよ」
「お、いいね! 月ちゃん牡蠣好きだし入れるんだろ?」
「もっちろん! 牡蠣無しクラムチャウダーはクラムチャウダーに有らず!だよ!」
「過激派だなぁ……」
世間一般的に、正統派クラムチャウダーは牡蠣ではなくアサリを使用したものである。
とはいえ俺も牡蠣は好物なので素直に嬉しい。流石に必須とまでは思わないけど。
「牡蠣の下拵えは私が担当するから、ツッキーは玉葱人参じゃがいもそれからベーコンついでにセロリを切ってくれる?」
「多いな……あと俺、セロリ嫌いなんだよな」
「えー!? 私が丹精込めて育てたセロリなのに!?」
「……わかったよ」
「えへへ、よろしくね」
こうも眩い無邪気な笑顔を向けられれば、断ることなど出来るはずもない。たとえ計算だと分かっていても、だ。
腕を捲って、手を洗い、久々にキッチンに立つ。料理好きというほどではないが久々なのでちょっと楽しい。
「そんじゃ作りますか!」
「うん! 包丁とまな板はここにあって……」
クラムチャウダー作りは終始和気藹々とした雰囲気で進行し、滞りなく完成を迎えた。ついでに野菜のマリネとガーリックトースト、牡蠣フライまで作った。
想像以上に月ちゃんの手際が良く、セツナという凄まじい料理スキルの持ち主を見慣れている俺でも驚きを隠せなかった。どうしてそんなに上手いのか聞いてみたところ、
「家にいると暇だから」
とのことだ。任務で出払っている時以外は基本的に庭園の手入れか料理の二択らしい。けれど、マンションに誰も寄せ付けず暮らしていたセツナと比べればかなり充実した生活をしている。
「いただきます」
「いただきまーす」
見た目も香りも文句の付けようがないクラムチャウダーだ……さて、残る問題は味だけ。ヘマをしたとすれば俺だろうから、もし不味けりゃ素直に謝ろう。
ぷっくりと膨らんだ牡蠣を敢えて避け、白いスープを掬い上げてパクリと口に含んだ。
「おっ、ちゃんと美味いな。牡蠣の旨味がしっかり出てる」
「ふふ、バゲットと合わせて食べるとさらに美味しいよ」
月ちゃんも満足そうに舌鼓を打つ。ふうっ、どうやら致命的なミスはしてなかったらしい。
「もったいない。ツッキー、ちゃんと料理手伝えるのにね」
「え? ……いや、でも、こればっかりは仕方ない。セツナの気持ちが一番なんだよ、俺にとっては」
丸々とした牡蠣を掬い上げて口に含む。濃厚な風味が口一杯に広がった。
「……ねぇ。部外者の私が言うのもアレだけど、それでも言っていい?」
やたら神妙な顔付きで、月ちゃんは唐突にそんなことを言う。俺は首を傾げつつ、にこやかに口を開いた。
「部外者だなんて、そんな。何でも言ってくれよ」
「うん。ずっと思ってたんだけど、ツッキーとセツナさん、全然家族に見えない」
カラン、という金属音が響く。
自らがスプーンを落とした音だと気付くのに数秒を要した。目の前の少女が口にした言葉は、それほどの衝撃を伴って俺の心に突き刺さったのだ。
「……家族に、見えない?」
「だって互いに遠慮してばかりだもん。私の知ってる家族と随分違う。かと言って恋人にも見えないし、友人とも言えない。なんか……歪だよね」
歪。またその言葉だ。
「でも……俺とセツナは……」
「遠慮して、怖がって、顔色ばかり伺って。なのにツッキーは、自分らを真っ当な家族だと思い込もうとしてる。そういう風にしか見えないよ、私には」
瞬きも忘れて零れ落ちたスプーンに目を向ける。
掴めない。掴む気が起きない。すぐにでも掴める場所にあるそれを、俺は指を震わせて見ているだけ。
「血の繋がりが無い人と家族になるっていうのは、ツッキーが思ってるよりずっと大変なことだと思うな」
月ちゃんはそっとスプーンを拾い上げ、所在なさげな俺の手を取って無理矢理握らせた。落とさないよう、包み込むように。
「ツッキーがセツナさんを大切に思ってるのは、見てれば分かるよ。だからこそ、まずは対等な関係にならないと駄目だと思う」
にっこりと、慈愛に満ちた表情で告げる月ちゃん。小さな手の平から伝わる温もりは、途方もなく優しかった。
「……対等な関係ですら無いのか、俺達」
「うん。どっちも自分を下に見てる感じ。ある意味で対等なのかもしれないけど、とっても不健全」
自覚はない。俺はセツナと対等だと思っている。だけど、心のモヤモヤが一向に晴れないのは……きっと月ちゃんの言葉に思い当たる節があるからだ。
「……怖い」
「え、何が?」
「頑張ってみようとは思うけど、正直、セツナと腹を割って話すの……怖い」
「ビビりだねぇ」
全くその通りだった。呆れられるのも無理はない。
とはいえ今のような臆病な考えじゃ月ちゃんの言う対等な関係にはなれないだろう。
でも怖いもんは怖い。以前のように怒られるのはまだいいとしても、泣かれたりしたらどうしていいか分からない。
「ま、私達の場合時間だけは腐るほどあるんだから。焦らず、ツッキーのペースで頑張ればいいんだよ」
「……うん。ありがとう、月ちゃん」
「いいよ、御礼なんて」
そう言ってにっこりと笑う月ちゃんに、俺は心の底から尊敬の念を抱いていた。勉強が出来るだけでなく、俺とセツナの関係も気にかけ、適切な助言をくれる。あまりにも素晴らしい先輩だ……頼もしいことこの上ない。
「ほんと、精神的に成熟してるというか……月ちゃんは大人だな」
「そりゃ大人だよ。もうとっくに二十歳超えてるんだから」
「あ、そっか」
俺にとっては今でも二つ上の先輩という認識だけれど、実際は大分離れてしまっている。神域に住む者は、まず時空の歪みを受け入れなければならないのだから。
「身体は全然変わらないんだし、せめて精神的には成長しないとね」
「……そうだな。俺も見習わないと」
確かに月ちゃんの言う通り、時間は膨大にある。けれど、事が事だけにズルズル引き伸ばすのは間違いなく良くない。近いうちに覚悟を決めないとな……。
「さ、食べよ食べよ! せっかくの料理が冷めちゃうよ!」
「ああ、そうだな!」
俺達は笑い合い、二人で作り上げた料理にもう一度手を伸ばし始めるのだった。




