【行間 三】 王
私は白いフリルの日傘を差しながら、鼻唄交じりに狂界を闊歩していた。
「ふんふんふーん、ららら、ふんふーん」
狂界の大地は不気味に赤黒い。年がら年中殺し合ってる馬鹿共が汚しているのもあるけど、でもまぁ元からこんな色だ。
「おーおー、やってるやってる」
狂界の空には漆黒の月がある。遥か上空に浮かぶ、一点の曇りも無く黒い月が。
……元人間らしく洒落た言い回しをしちゃったけど、もちろんあれは月じゃない。物体ですらない。
その光を寄せ付けないはずの月に、今は僅かな輝きがあった。縦横無尽に動き回る様は、さながら闇夜に踊る蛍のよう。
「………打つ手がないのね、ゾフィオス」
ちっぽけな光の正体は、まさしく『ドゥーム』ゾフィオスだった。私ら三人に啖呵を切った通り、本当に"アレ"に挑んだのね。
どちらが有利かなんて一目でわかる。いや、というよりその段階にすら達していない。有利不利というものは勝負が成り立つ相手に対して生まれるものであって、現在上空で行われているのは単なる一人相撲だ。
あれだけの大口を叩いておいて、結局打つ手なんか無かったらしい。あんな馬鹿はこの世にニ人といないわ。
「あ、終わった」
唐突に光が消えた。かと言って私には当然何の感慨も湧き上がらない。奴はただ殺されるべくして殺されただけだ。
「さて、帰ろっと……ん?」
踵を返した直後、何かに気付いて空を見上げた。
黒の月が落ちている……中心へ向かってみるみる収縮しつつ、地面に降り立とうとしている。
あ……まさかこれって……。
「よぉ、久々だな……シャルミヌート」
黒き月の中心──すなわち発生源とも言える存在が、暗い声で私を呼んだ。
「エメラナとガルヴェライザはどこだ? テメーら三体に話してぇことがある、オレの城まで連れて来い」
一方的に告げた後、黒い外套をはためかせて男は消えた。
黒髪に喪服、さらに黒い外套を着込んだ長身痩躯の男──あの男こそ、たった今ゾフィオスをぶち殺した相手であり、そして、何より──
「何を考えてるのかしら……"王"は」
この狂界の創造主である絶対的な存在──"悪魔王"その人だった。
***
エメラナクォーツ。
ガルヴェライザ。
シャルミヌート。
ゾフィオス。
大悪魔を超越した大悪魔達。
正式名称は【悪魔王直属精鋭部隊『ドゥーム』】。
狂界で王の存在を知っている者は、王に選ばれし最強の四体のみ。凡百の悪魔は知ることすら叶わず死んでいく。
「エメラナクォーツ」
「はっ」
「ガルヴェライザ」
「此処に」
「シャルミヌート」
「はい」
物々しい玉座に腰を下ろした悪魔王は、『ドゥーム』の名を一人ずつ呼んでいく。何を考えているのか全く分からない。何も考えてなさそうにも見えるし、思い詰めているようにも見える。
ていうか王の姿を見るのも随分久しぶり……三千年振りくらいかしら。時々狂界から出かけているのは知ってるけど、面と向かって会うのは本当に久しぶり。
「あー、早速だが。テメーらも知っての通りゾフィオスは裏切った」
「裏切ったというより、これが本来の役目では」
「テメーは相変わらずだなぁシャルミヌート。が、その通りだ。奴の裏切りは既定路線だった」
王はまるで表情を変えないまま小さく息を吐いた。
「まったく、ゾフィオスも情けねぇよな。シャルミヌートが加わる遥か昔から『ドゥーム』として迎え入れ、オレの側近として面倒を見てやったってのに……この通りだ」
やれやれと肩を竦める悪魔王。正直、ゾフィオスに一ミリでも期待していた時点で大変愚かな性分だなと思った。
「王様、ゾフィオスは何やら策があるような口振りでした。実際はどうでしたか?」
エメラナクォーツが穏やかな物腰で尋ねる。こいつによくありがちな演技臭さを感じないのは、こいつが心の底から悪魔王を崇拝しているからだ。
「あぁ、確かにそれらしいものは見受けられたが……それだけだ」
「我が王は完全なる存在。ゾフィオス如きが傷を付けることなど決してありえぬ」
ガルヴェライザが怒りを込めて声を上げた。こいつが感情を昂らせると気温が上がるから嫌だわ。
「にしてもゾフィオスがよぉ、死ぬ前に面白ぇこと言ってたぜ」
「面白いこと……?」
その割には全く面白くなさそうな顔。でも、いつもこんな顔だからほんとは面白いのかも? よく分かんないわね。
「『幾星霜の果てに、貴様と再び相見える』……だとよ。奴ぁタイムトラベラーにでもなったつもりかと、オレは呆れそうになった」
瞬間、悪魔王の眼差しが変わった。王たる風格を纏った強烈な眼光が『ドゥーム』を見据える。
「だが奴は本気だった。心の底から、オレとの再会を確信していた」
「……馬鹿な。王を前にして、そのような戯言を抜かすなど。気が触れたとしか思えん」
「それなら問答無用でぶち殺したが、奴は正真正銘本心からほざきやがった」
……ん?
「王、ゾフィオスを殺さなかったんですか?」
すかさず問い掛ける。まるで殺していないかのような言い方が気になった。私はこの目でゾフィオスの消滅を見たはずなのに。
「肉体は滅ぼした。だが魂は見逃してやった。奴も、オレなら見逃すと思っていたんだろうぜ」
「なぜ見逃したのですか?」
「あ? 何か支障でもあんのか」
「いえ、そういうわけではありませんが。これだけ待って駄目だったのなら、奴にはもう期待出来ないかと」
エメラナクォーツもガルヴェライザも口を挟まない。これに関しては二人とも気になるようだ。
「ま、やる気だけはあるらしいからな。やりてぇようにやらせりゃいいのさ、ああいう馬鹿は。今日挑まれてよーく分かった。たとえゾフィオスが何度生まれ変わろうと、オレには全く歯が立たねぇ」
少し──ほんの少しだけ、王の憂いが垣間見えた。『ドゥーム』でさえ図りかねる、底無しの憂いが。
「期待なんざしねぇよ……もう、何もな」
虚空を一点に見つめて、溜息と共にポツリと零す。
「では、王様」
「ああ、そうだな」
エメラナの声に対し、悪魔王は音もなくゆらりと立ち上がった。
「ここらが潮時かもな」
その言葉が意味すること。
それは。
「世界、滅ぼすか」
清々しいほど無感情に。
正真正銘無敵の力を持った存在が、滔々と言い放った。
王の言う世界とは、もちろん矮小な地球における「世界」のことじゃない。言わば概念、この世の全てだ。
「おい、ガルヴェライザ」
轟々と燃え盛る炎の龍に、王が漆黒の瞳を向けた。瞬間、ガルヴェライザはスッと瞼を閉じ、深く深く頭を垂れる。
「は……如何致しましょう」
「とりあえず手始めに神域ぶっ壊してこい。時期はテメーに任せる」
「御意」
「テメーだけで潰せ。やれるな?」
「無論です」
王は私達に背を向け、ポケットに両手を突っ込んで歩き始めた。
いくら『ドゥーム』といえど、たった一体で神域の全戦力を壊滅させるのは骨が折れるはず。あえてガルヴェライザだけ行かせるのは、単純に王の余興だと思う。
まぁたとえ一体でも、ガルヴェライザなら高確率で神域を滅ぼせるでしょうね。『ドゥーム』随一の殲滅力を誇る、〈炎極〉のガルヴェライザならば。
「エメラナとシャルミヌートは一先ず大人しくしとけ。まずは神域、ガルヴェライザ次第だ。以上」
「仰せのままに」
「了解でーす」
私達の返答を聞いたのか聞いてないのか、足を止めることなくその場から立ち去る王。
ふうっ、とりあえず私にしばらく役目はないようね。帰ろっと!
「待つんだ、シャルミヌート」
颯爽と悪魔王の城を出て行こうとした私をエメラナクォーツが呼び止めた。チッ、こちとら暇じゃないのよね!
「王はああ仰られたがね、僕は独自に動いてみるつもりだよ」
「はぁ、それで?」
「『ドゥーム』の末席を埋めるつもりさ。君もそうしたまえ」
「やーよ、懲りないわね。あんた、見る目ないのよ、はっきり言って。シルヴァニアンもミラもあんたが潰したようなもんでしょ」
傘の先端をガッと床に突き付け、大口を開けて息を吐き出す。
「シルヴァニアンはあまりに伸び代が無かった。想定外だったよ」
「伸び代はあったわ。ただ戦闘向きじゃなかっただけ」
「最低限の強さは持ってくれないと困る。あれは弱すぎた」
「どんな奴も使い方次第。あんたはその指南があまりに下手。根本的に向いてないのよ」
「くだらん言い争いはそこまでにしろ、心底くだらん」
部屋全体の大気が揺らめく。ガルヴェライザの発する獄炎が一層熱を帯びていた。
「亡者のことなどどうでも良い。重要なのは王の言葉だ。王の意志だ。貴様らは王の言葉通り大人しくしていれば良いのだ」
はんっ、エメラナもウザいけどこいつもまた別ベクトルでウゼーわね。ていうか私はハナからそのつもりだったっての。くそー、ムカつくわ。
「んじゃ、私はこれで……っと、ガルヴェライザ!」
「何だ」
「神域に行くことになったら、私にも教えなさい」
「何故だ?」
「なんでもよ。別に着いて行くつもりはないから安心して、それじゃ!」
ふー、いきなり神域ぶっ壊されたら堪んないわ。もしもあの人が滞在してる時に襲撃されたら困るものね。
何はともあれ、予定調和の時は過ぎ去った。
遂に全ての歯車が動き出す。
この世の終わり、この世の果て。
森羅万象全てを終焉に導くために。




