星の界
「はい、到着」
「ふぅ……なんかすげー久しぶりに感じる」
我が家のリビングを見回し、感慨を込めて溜息をつく。
そして……ソファに投げたままだったスマホで時刻を確認する。
「…………」
想像通り、ここを出発してまだ一日も経っていなかった。流石に陽は傾き始めているが、あっちでは少なくとも四日くらい過ごしたのに。
一日も経ってない地球の上で、俺の身体は四日分の経験を持っていて。なんだか、それはとても恐ろしいことのような気がして。
「……今更、何考えてんだかな」
気を取り直し、キッチンに直行したセツナの様子を見に行く。
「うーん、余り物で何か作ろうと思ったのだけれど、本当に何も無いわね」
「じゃあ俺が買いに行ってくるよ」
「だめよ、まだまだ本調子じゃないんだから。あなたはゆっくり休んでいるのよ、いいわね?」
やんわりと拒否される。神域から帰ったばかりのセツナは俺より余程危ういが……。
「セツナ、体調は?」
「え? あたしは元気よ」
「……そうか」
しばらく待って帰って来なかったら探しに行かなきゃ……。最近は無意識に徘徊する頻度が落ち着いてきていたが、神域に行ったからまたリセットされてるだろうし。
「それじゃあ行ってくるわね。ちゃんとしっかり休むのよ?」
「あ、うん。いってらっしゃい」
セツナを見送り、自室へと歩き出す。言われた通り、とりあえず休もう。実際のところ、まだ頭がフラフラする。無闇に出歩くのは正直言って辛い。
「……あ」
自室の扉を開け、思わず声が出た。
恐るべき『ドゥーム』の一角・大悪魔シャルミヌートが俺のベッドですやすやと寝息を立てていたのだ。
「……はは、本当にいるのか」
夢の中で彼女が言っていたことを思い出し、小さく吹き出してしまった。
「……ん。あら、帰って来たのね」
ゆったりと瞼を開き、桃色の可憐な瞳が俺の姿を捉えた。ごくごく自然な口調に若干の安心感を覚えつつ、とりあえず振りだけでも呆れた表情を浮かべる。
「なんで俺のベッドで寝てんだよ、ミヌート」
「私がここで寝てたら何か困るの?」
「困りはしないけど」
「じゃあいいわよね」
ごろんごろん。動物園のパンダみたいな挙動で転がる美女がそこにはいた。
相変わらず自然体だなぁ、ミヌートは。ま、そこが良いとこなんだけど。
「……あら、何か嫌なことでもあった?」
のそのそと起き上がったかと思えば、突然核心を突いてくる。敵わないな、本当に。
「いいや、別に大丈夫」
「そう、ならいいわ」
見抜いているのだろうが、深くは詮索してこない。これも彼女の優しさだろう。
「んで、どこ行ってたの?」
「ついさっきまで神域に居たんだ。四日くらい」
「へぇ、四日も。何かビッグイベントでもあったわけ?」
「ビッグではないけど、なんかテストを受けさせられたんだよ。上級悪魔と戦って死にかけて寝込んでた。結果は不合格だ」
「ふふっ、そりゃあ愉快ね」
「ああ。でも、ミヌートに教わった水鉄砲がかなり役に立ったよ。ありがとう」
「ふふん、私ったらコーチも上手いのね。何でもこなせて困っちゃう」
得意気に胸を張るミヌートに小さく笑いかけ、肯定の意味も込めて大きく頷いた。
「よし、じゃあアイスでも食べるか」
「あ、その前にね」
えっ、とミヌートの目を覗き込む。アイス目当てで来たんじゃないのか?
「さっきこの家を散策したんだけど、妙な部屋があったわ」
「妙な部屋?」
そんなの、ウチにあったかな? もしかして地下室のことだろうか? あそこは確かに妙な部屋だが。
「ピアノのある部屋よ」
「あぁー……」
「何よ、その表情」
「いやー……」
「キミ、ピアノ弾けるのね?」
「うーん……」
「とりあえずあの部屋行こうかしら」
「えぇー……」
***
窓から射し込む夕陽に満ちた部屋。その中央にて、淋しげにポツンと佇む漆黒のグランドピアノ。十年以上前に親から買い与えられた、紛れもなく俺のピアノだった。
「…………案外、綺麗だな」
俺がこの部屋に入ること自体、まず無い。生前母さんが時々掃除していたのか、それとも実はセツナが掃除してくれていたのか。仮にそうだとしたら少しくらい話題に出ても良いはずだが……。
「私ね、ピアノが好きなの」
窓際の壁にもたれかかって微笑むミヌート。茜色の夕陽を浴びる彼女は、圧倒的な美貌も相まっていっそ神々しくすらあった。神とは対極に位置する存在だというのに全く末恐ろしい。
「だから聴きたいの。弾けるんでしょ?」
「うーん……」
「何よ、さっきから。まさかここまできて弾けないなんてオチは……あっ! はっはーん、わかっちゃったわよ」
ポン、と手を叩いてにんまり笑う。なんだろう、たぶん分かっては無いと思うけど。
「キミ、習ってはいたけどすっごく下手だったんでしょ」
……それなら、ただの笑い話で済んだんだけど。
「……俺、ピアノだけは才能があったんだ。信じられないかもしれないけど」
「別に、ちゃんと信じてあげるわよ。でも、じゃあ何をそんなに渋ってんの?」
「もう十年以上弾いてないから」
「なんで?」
間髪入れず尋ねてくる。流石というか何というか……本当に遠慮がない。それとも、これに関しては遠慮する必要が無いと判断しているのか……。
「…………幼稚園の頃、ふと……気まぐれに、ピアノを弾きたいって言ったんだ。本当に、特にきっかけがあったわけじゃなくて。気付いたら、口に出てた。そしたら俺の親はポンとピアノを買ってきて、講師まで雇った」
「親バカねぇ」
はにかみながらミヌートの言葉に頷き、
「講習を始めて何ヶ月か経った頃、ある日講師が親に向かって言ったんだ。『この子は今すぐ海外に行くべきだ』ってな」
「ふぅん、よっぽど上手かったんだ」
鼻息荒く捲し立てる講師の顔は、今でも鮮明に覚えている。あのギラギラした感じが、俺には向いていなかったと思う。
「親は困惑してさ。まさか俺にそんな才能があるとは思ってなかったんだな。音楽一家でもなんでもなかったし、いきなり海外なんて言われても、って感じだった」
俺の知る限り、祖父母も音楽とは縁遠い。子供のご機嫌取りのつもりでしかなかった両親からしてみれば、俺の才能は全くもって予想外の事態だったのだ。
「俺自身もあまり興味が無かったから、乗り気じゃなさそうな親を見てすぐに言ったよ。『先生、俺ピアノ習うの辞めます』って」
「潔いにも程があるわね」
「それが却って気に障ったのかもしれない。講師は突然怒り狂って、俺の首を締め上げた」
「えっ……幼児の首を?」
「そりゃあもう凄い剣幕だった。『天賦の才を無駄にするな』、『お前はピアノを弾く為に生まれたんだ』、『お前なんかがどうして才能を持ったんだ』……その時の俺は苦痛も恐怖も忘れて唖然としてたよ。人があんなに怒ってるのを見たのは初めてだったから」
ふむ、と呟きながら人差し指を頬に添えるミヌート。
「それはキミへの嫉妬でしょうね。良い大人がみっともない」
「それだけ熱意のある人だったんだ。まぁその後、今度は俺の親がブチ切れて通報だなんだと警察沙汰になって……長々と話しちゃったけど、つまり俺はこの一件でトラウマを抱いたわけだな」
そっと、黒く滑らかな側板を撫でる。誰かに譲ることもなく、売り飛ばすこともせず十年以上の月日が流れてしまった。いつか、また弾くことがあるかもしれないと……心のどこかで、思っていたのかもしれない。
「今もトラウマを抱えたままだから、弾けないってこと?」
ミヌートの問い掛けに対し、俺は静かに首を振った。
「いいや、あの時のことはもう大丈夫。でも、難しい曲をいくらでも弾けた昔の俺はどこにもいない。今じゃすっかり錆び付いてるから。だから……ミヌートを喜ばせるような曲は弾けないと思う」
「ちょっと、何人聞きの悪いこと言ってんの。私がいつ難しい曲を弾けと言ったのかしら」
煌く桃色の瞳をスッと細めながら、ミヌートは唇を尖らせた。そんな言葉は心外だと、目で訴えかけているようだった。
「私はキミのピアノが聞きたいの」
息が詰まりそうなほど透き通った声が、どうしようもなく俺の耳朶を打つ。
「……分かったよ」
静々と椅子に座り、じっと鍵盤を眺める。
懐かしさと苦い思い出が入り混じった、マイナスともプラスとも取れない不思議な感情。
だが焦りはない。ミヌートは多くを求めない。俺が気負えば気負うほどミヌートの求めるものは零れ落ちていくだろう。
さて……何を弾こうか。完璧を求められていないことは分かっているけど、ミスしまくるのはやっぱり面白くない。簡単でも良いから、自分が弾けると思う曲が一番だ。
「……よし」
「曲は決まったかしら」
「うん」
スッと両手を前に出し──ある事が気掛かりで、ピタリと宙で止める。
「調律は……」
「大丈夫、済ませておいたわ」
「えっ!? い、いつの間に……」
「余計な事は考えず、弾くことだけ考えて」
有無を言わさぬ凛とした声音に口をつぐんだ。今は細かいことは置いておこう。
俺はゆっくり頷いてもう一度ピアノに向き合った。
指先が鍵盤に触れる。ひんやりしていて気持ちいい。
漠然とした妙な違和感を覚えてしまうのは、自分の手がやたら大きく感じるからだ。なんだかんだで成長を実感する。
「……ふぅ」
小さく息を吐き、トン、と鍵盤を叩く。
焦らず確実に、まずは感覚を取り戻すように弾いていく。
ああ、そうだ、こうして俺は弾いていた……昔の弾き方を、段々思い出してきた。辿々しかった指が、滑らかに回り始める。
奏でた音色が俺の耳に、そしてミヌートの耳に届いては染み込んで、広がって。
「『What a friend we have in Jesus』」
窓際のミヌートが、笑っていた。徐々に余裕が出てきた俺は、ピアノを弾いたまま彼女に微笑みかける。
「そう、『いつくしみ深き』。日本では『星の世界』って替え歌でも親しまれてる」
世界的にポピュラーな曲で、演奏はかなり簡単。長年のブランクがあってもこの曲なら大してミスはしないだろうという目論見だった。
「結婚式でもよく使われる曲……ふふ、まさか悪魔に讃美歌を贈るなんてね」
「あんた、そういうの全然気にしないクチだろ」
「あはっ! よく分かってるじゃない」
取ってつけたような上品な仕草で唇を押さえ、柔和な笑みを浮かべる。
そして、ゆっくりと瞼を閉じて、
「O what needless pain we bear, All because we do not carry……」
言葉に出来ないほどに美しい、天使のような歌声が空気を撫でる。
思わず指が止まりそうになった俺は、穏やかな顔付きですぐに鍵盤に視線を戻した。
表情とは裏腹に内心全く穏やかではない。やべぇぞ前言撤回だ、絶対にミス出来なくなった。彼女が俺に完璧を求めなくとも、俺は彼女の完璧な歌声に応えてみせたいのだ。
「Have we trials and temptations? Is there trouble anywhere?」
なんだろう、強張っていた気持ちがみるみる溶けていく。
指が軽い。心地が良い。弾き始めた時と全然違う。
ミヌートの歌声が俺の記憶と経験を呼び覚まし、さらに引き上げてくれているような、不思議な感覚。
──この演奏でミスは無い
するはずがない。断言出来る。だって、俺は一人じゃないから。ミヌートが其処にいてくれるんだから。
もはや鍵盤を見る必要もない。始まりから終わりまで、全ては自然に導かれる。俺は心の赴くままに指を踊らせれば良い。
「Can we find a friend so faithful who will all our sorrows share」
向上心もなければ、競争心も無い。
こんな俺がどうしてピアノの才能なんて持っていたのか……ずっと不思議だったけど。
──きっと、この時のためだったんだ
幸せな音色を奏でる時を夢見て。
誰かと分かち合える時を夢見て。
この瞬間のために、俺は──。
「……ふぅっ」
至福の一時は、あっという間に幕を閉じる。
小さく息を吐き出したミヌートは嬉しそうに顔を綻ばせながら、緩慢な足取りでこちらへ近寄ってきた。
「十年以上ブランクがあるとは思えない演奏だったわ。本当に上手いのね、キミ」
「いいや……違うよ。ミヌートのおかげなんだ」
「私の?」
「ミヌートが居てくれたからなんだ。俺一人じゃ、絶対に無理だった……ありがとう」
ぽかん、という表現がピッタリの顔で見つめられる。けれども俺は嘘偽りのない本音だったので、訂正などせずじっと彼女を見つめ返した。
「…………ふふっ、ま、そういうことにしとくわね」
俺の額に軽くデコピンをお見舞いし、妖艶に微笑んでくるりと踵を返した。
「気分も良いし、そろそろ帰る」
「あれ、アイスは?」
「また今度ね。だってそろそろ時間がないもん」
首を傾げたその瞬間、玄関の扉が開く音が響き渡った。
「ハルー、ただいまー」
セツナだ。良かった、今日は徘徊せずに無事帰れたみたいだな……。
「と、いうわけだから。私はひっそりと退散するわ」
「分かった。またな、ミヌート」
ミヌートはもう一度窓へ歩き、ガラッと勢いよく開ける。そのまま帰るのかと思いきや、ふと思い出したようにこちらへ振り返り、
「なんか私達、浮気カップルみたいね」
「なっ!?」
「んふふ、冗談よ。それじゃ」
ぴょん、と軽やかに窓から飛び出し、瞬きの間に姿を消した。
はぁ、びっくりした……最後になんつー爆弾発言を残していくんだ……。
「っと、ぼーっとしてる場合じゃないな」
俺は開けっ放しの窓を閉め、急いでセツナを出迎えに行くのだった。




