少し先の未来で
うっすらと瞼を開く。ひどくぼやけていて何も見えない。
懲りずに何度も目をしばたたかせた。若干、視界が色付いていく。
「…………う」
渾身の力を入れて出来ることと言えば、僅かに首を動かす程度。それでも必死に動こうとするのは、すぐそばに人の気配を感じたからだった。
「……あ」
俺の傍らに座っていたのは、俺にとってたった一人の家族だった。
美しい桜色の髪をポニーテールに束ねた彼女は、こくりこくりとうたた寝をしている。
「……ほっ」
安堵感で胸が一杯になった。そんなに離れていたわけでもないのに、随分久々に会えた気がする。普段一緒に過ごし過ぎている弊害だろうか。とにかく心底ホッとした。
「……ん……」
何かしら気配を感じ取ったのかセツナは微かに瞼を開き、少し寝惚けている白銀の瞳と見つめ合うこと五秒。
パッと表情を明るくしたかと思うと、目にはうっすらと涙を浮かべて俺の手を握り締めた。
「……おはよう、ハル」
「おはよう、セツナ」
にっこりと笑い合う。彼女が付きっきりで看病してくれていたのは聞かなくても分かった。
「もう何十時間も寝たきりだったのよ。とんだお寝坊さんだわ」
「ごめん、本当に」
「いいの、いいのよ、起きてくれさえすれば」
ぐしぐしと目を擦り、何度も頷くセツナ。ただでさえ精神的に不安定な彼女をここまで心配させたことに、胸がズキズキと痛む。
でも、俺は分かってて選んだんだ。この痛みから目を逸らしてはいけない。これが俺の選んだ道なんだから。
「あれ……そういえば、折れた手が治ってるな……痛みもないし……」
「ええ、それは、」
セツナが言いかけた時、不意に部屋の扉が──そういえばこの部屋どこだよ──ガチャリと開いた。
「ちょうど目覚めたようじゃな、ハル」
「ラ、ラランベリ様……? わざわざお見舞いに来てくださったんですか?」
部屋に入って来たのは、紛れもなく女神ラランベリ様だった。地味に眼鏡の色が変わっているが、それはこの際どうでもいい。
「そう睨むな、セツナよ。神に対してその目はなかろう」
「…………いえ、別に何も」
とてつもなく不穏な空気が漂っていた。ちょいちょいとセツナの手に触れ、ここはとりあえず鎮めろと暗に伝える。
「あ、あの、お見舞いありがとうございます」
「うむ、それもあるのじゃがな、ハル。テストの合否を伝えたいのじゃ」
「え? あぁ~……なるほど」
そういや俺にも合否あるんだっけ。あまり考えてなかった。
「ってその前に、月ちゃんはどこです? 腕の怪我は……」
「ポッピンラブキッスならとっくに完治して元気に動き回っておるわ。其方ら二人はテスト終了直後、艦内に設置されていた治療用ポッドにぶち込まれている。つまり怪我の治癒は済ませてあるのじゃ。あとは体力さえ回復すれば目覚めるはずじゃったが……ハルの場合、かなり時間がかかったな。やはり、普通の神使と半神使の差じゃろうな」
そう言って、緩慢に歩み寄ってくるラランベリ様。セツナの感情がどんどん尖っていくのが背中越しでも分かったが、ここはとりあえず堪えて欲しい。
「さて、結論から言うと其方は不合格じゃ」
「はい、分かりました」
予想通りの言葉に対し、俺は言い淀むことなくさっぱりと返答した。良かった、俺が合格なんてしたらいよいよセツナの機嫌がおかしくなるぞ。
「少しは本心を隠す努力をせい」
「えっ!? あっ、す、すみません」
やべぇ、バレバレだった。でも今更か。俺が合格したいなんてこれっぽっちも思ってなかったのは、神ならすぐに看破していたはずだ。
「まぁ不合格とは言ったが、其方の働き自体は非常に良かったぞ、ハル。とても初実戦とは思えん戦いぶりじゃったわ」
「は、はぁ……それはどうも」
うわ、雲行きが怪しくなって来たような。で、でも不合格なのは間違いないし、単なるお世辞に過ぎないし。もう大丈夫だろう……。
「特に驚いたのが、水の扱いじゃ。指先への集中、手の平全体での集中、さらには暴発による緊急回避……輝力の加減が絶妙に上手かった。確認じゃが本当に独学か?」
寝耳に水、と言わんばかりの表情でセツナが俺を見つめてきた。あまりの気まずさに俺は思わず目を逸らしてしまう。
セツナは、俺が水玉を生成したり、圧縮して噴射出来ることを知らない。手の平から水を湧かせるだけの、戦闘においてはてんで役に立たない能力という段階で情報が止まっているんだ。
「そ、そうです。一人で色々試しているうちに、なんとか出来るように」
「ふむ、そうか。才能はありそうじゃな」
……ミヌートの存在を匂わせてはいけない。そのためなら、俺は才能があるフリだってしてみせる。今後ボロが出るだろうが、その時はその時だ。
「ちなみにポッピンラブキッスは合格させた。じゃあなぜ其方が不合格かというと、一番の理由は肉体の脆さ。分かるな?」
「はい、もちろん」
セツナや月ちゃんといった本物の神使に比べ、俺の身体はあまりにヤワなのだ。
イザンナとの戦いにおいて、俺の身体はかなり早い段階で限界点に達していた。対して本物の神使である月ちゃんはタフで、貫かれた腕以外はそこまで堪えていなかったようだ。
まぁ内容はさておいても、こうして目が覚めるまでに俺と月ちゃんでは相当な時間差があったことからはっきりと明暗が別れている。
ボロボロにされた俺が言うのもアレだが、イザンナは上級悪魔の中でも弱い方なんだと思う。それで数十時間も寝込んでいたら、とてもじゃないが戦闘員としては使えないってことだ。戦闘の内容如何ではなく、使い勝手の悪さこそが不合格の最大の理由だろう。
「先も言ったように内容は良かったのじゃが、そもそもの話よっっっぽど活躍しない限りは不合格にする予定だったんじゃ」
顔色一つ変えずにさらりと話すラランベリ様。どうにも箍が外れたのか、セツナは椅子を吹き飛ばす勢いで立ち上がった。
「ならばどうしてテストなど受けさせたのです!? あなたのした事はハルを無闇に傷付けただけではないですか!」
「もしかしたらよっっっぽどの活躍を見せてくれるやもしれんじゃろ。半分人間だろうがなんでも試すのが妾の主義。それに絶対に死なせんと約束していたのだし、事実救ってやった」
「命があれば良いというものではありません!」
「いや、良い。怪我は余程でなければ治療できる。何をそんなに憤るのじゃ、セツナ」
「不合格前提の無意味なテストに憤るのは当然でしょう! ハルは何の戦闘経験も積んでいなかったのに、あまりに危険で無責任な考えです!」
「危機的状況で潜在能力が開花することは珍しくない。妾はそれを確かめたかった。此度のテスト、決して無意味ではないのじゃ」
「しかしですね……!」
「別に其方にとっても悪い話ではなかったじゃろう。これで晴れてハルの戦闘員への道は断たれたのじゃから」
「抜け抜けと! 今後成長の兆しがあれば、その道は復活するんでしょう!!」
「まぁそれはそうじゃな」
「クライア様は以前、ハルに「これからも普段通り過ごせ」と仰っていましたよ! テストを受けろ、戦闘員になれ、などとは一言も……」
「話は通した。クライアとしても死なない限りは多めに見るという判断じゃろう」
ヒートアップしていくセツナと、落ち着き払っているラランベリ様。全く対照的な二人の論争は止まるところを知らない。話の本題でありながら蚊帳の外である俺としては、どうやってこの場を収めるか悩むところである。
しかし凄いな。セツナがここまで憤慨するところは初めて見た。それも偉大な神に向かって。
「こんにちはー」
突然ドアが開き、一人の少女がふわふわの髪を揺らしながら部屋に入ってきた──月ちゃんだ、ナイスタイミング!
「あっ、ツッキー!」
「月ちゃん、ありがとう!」
俺の身体がこんなんじゃなければ、思いっきり抱きしめたくなるほど嬉しい。良かった、これで無理矢理セツナとラランベリ様の口論を止められる。
「いつ目が覚めたの? 私、一日二回はお見舞い来てるのに、立ち会えないなんてなぁ」
「ついさっきだよ。月ちゃんも元気そうだな、腕は平気?」
「うん、完治してるよー」
イザンナに貫かれていた右手を元気に振り回し、にっこり笑顔。荒れきったこの場において、月ちゃんの存在はまさしくオアシスだ。
「あれ、セツナさんはともかくラランベリ様も来ていたんですね?」
「うむ、そろそろ目覚めるじゃろうと思っての。ドンピシャじゃったわ」
「そうなんですねぇ」
またしても満面の笑み。癒しだ。全く最高だぜ。
「…………ふぅ」
力が抜けたのか、セツナは溜息を吐きながら椅子に座り直す。
俺のことで怒ってもらえるのは嬉しいのだが、さすがに相手がまずい。神に対してあの口の利き方は駄目だ、今後のセツナの立場を危うくしかねない。まぁ俺自身、ラランベリ様の言い分はいささか理不尽だと思うけど……終わったことだ、もうしょうがない。
「要件も伝えたことじゃし妾はそろそろ帰るとしよう。ハルとセツナも地球に帰還して良いぞ、ゆっくり休むがよい」
「ちょっ、まだ話は……」
「妾には無い。ではな」
ラランベリ様は食い下がろうとするセツナをさらりと払い除け、悠然と部屋を後にした。
「何か言い争っていたの?」
「……ええ、まぁ」
月ちゃんの問い掛けに歯切れ悪く返すと、セツナはすっくと立ち上がった。
「ハル、ちょっと出発の手続き済ませてくるから。そんなに掛からないと思うけれど、ここで待っていて」
「ああ、分かった」
束ねていた髪を解きつつ、セツナもとぼとぼとした足取りで部屋を出て行く。心労ばかり掛けてひたすらに申し訳ない。
「……セツナさん、三日くらいずっとここにいたの。ずっとツッキーの看病してたんだよ」
「ああ、分かってる」
「本当に、ツッキーのことが大切なんだね」
「家族だからな、俺とセツナは。セツナが倒れたら俺もそうする。だけど、驚いたよ。セツナがあんなに食ってかかるなんて」
「ラランベリ様は気性の穏やかな方だから、神使にも寛容なの。セツナさんもそれを知ってたんだろうねぇ」
「ちゃんと相手を選んでるってことか。その辺りの冷静さがあるなら、少し安心だけど」
とはいえ相当嫌だったんだろうな、俺が戦うの。
でも、もう大丈夫。セツナはこれからの成長云々言っていたが、半神使の伸び代なんてたかが知れている。これからはまた、普段通りの生活に戻るんだ。
「……ツッキー、林檎食べる?」
「え、あるの?」
「うん、持ってきた」
「じゃあ貰う。ありがとう」
「いいよ」
手提げ袋から真っ赤な林檎とミニナイフを取り出し、手際良く皮を剥いていく月ちゃん。
「すげぇ……」
「そう? 普通だよ」
謙遜しているが、もはや曲芸並みの巧さだ。あっという間に皮剥きを終わらせ、迷いの無い動きでサクサク分割していく。
「…………私はねぇ、ほんとのこと言うと、二人で合格したかったなぁ」
月ちゃんは手は動かしたまま、ぽつりと、小さな声でそう零す。
まさかそんな事を言われるとは思わなくて、目を丸くしてしまった。だって、そりゃ俺に戦闘員になって欲しかったってことだろ? なんでまた、そんな……。
「意外?」
「意外と言うと悪いけど、意外だわな」
「ツッキーは、合格なんてしたくなかったかもだけど……一緒に、あんなに頑張ったのに、私だけ合格なんて変じゃん?」
「別に。まったくもって妥当だと思う」
「そうかなぁ……ツッキーがいなかったら、私はどうなってたかわからないし。私一人じゃ絶対駄目だったし」
「そりゃ俺の台詞だよ。月ちゃんがいなけりゃ死んでた」
差し出された林檎を手に取って食べる。シャキシャキしてて美味い。
「もぐもぐ……そもそも俺は、別に成果が欲しくて戦ったわけじゃない。だからいいんだ」
「……でも、合格したら、もっとツッキーと居られたよ」
互いに林檎を齧りながら目を合わせる。
シャキシャキ音が重なり合って謎のハーモニーを奏でた。
「月ちゃんって、別に人見知りじゃないよな?」
「まぁ、そのつもり」
「俺なんかよりもっと優秀な奴と組んだ方が良いぞ」
「そういうことじゃないってば。わっかんないかなぁ、ねぇ」
俺そっちのけで林檎を次々と頬張る月ちゃん。小さな口をリスのように膨らませてもごもごしつつ、
「一旦帰っちゃったら、もう当分会えなくなるでしょ?」
琥珀色の美しい瞳を揺らして、囁くようにそう言った。
「そんなことない。聞いただろ、俺はセツナに許可貰ってんだ。近いうちにまた来るよ」
妙に不安そうな少女を宥めるように、穏やかに笑ってみせた。だが、月ちゃんの表情は浮かないままだ。
「近いうちって?」
「えっ、そりゃまぁ、一週間後とか?」
「それこっちじゃ二年以上先のことだよ?」
あっ……そっか。地球と神域じゃ時間の流れが違うんだ……。
「……ええと、」
「なんてね。ごめん、意地悪なこと言ったね。まだ普通の人間みたいなこと思っちゃうの」
一転して明るい声を上げた月ちゃんは、最後に残っていた一切れの林檎を俺の口に押し込み、にっこりと微笑む。
「また来てね。少し先で待ってる」
「……ああ」
俺にとっての一分と、月ちゃんにとっての一分は違う。本来平等なはずの時間という概念が不平等に歪み、捻れ、この結果を生んでいる。
神使である限り。この神域に居る限りは……どうしようもない事だ。
「必ずまた来る。月ちゃんこそ、任務頑張れよ」
「うん、もちろん!」
この神域で奇跡的に再会を果たした天霧月──今の名をポッピンラブキッスという俺の先輩と、またの再会を誓って固い握手を交わすのだった。




