どうか、君とずっと
「風が気持ちいいわね、ハル。あたし、かなり走れるようになったと思わない?」
「補助輪付いてるけど」
「あたしはもうこれで良いかもしれないわ」
「それはどうかと思う」
俺とセツナは近所のそこそこ広い公園に来ていた。目的はただ一つ、自転車を乗りこなす練習である。
先日購入した自転車が届いたはいいものの、やはりセツナは乗れなかった。まぁそれはいいんだ、一発で乗れない人も多いし。
問題は補助輪での走行にめちゃくちゃ満足してしまっていること。これはちょっといただけない。
「そろそろ補助輪外すか。ちゃんと工具も持ってきてんだ」
「待って待って! 待って本当!」
数多くの修羅場を潜り抜けてきたであろうセツナがハンドルにしがみ付いて拘泥する様はかなり新鮮だった。いかに弱体化しているとはいっても、ちょっとこけたくらいでどうにかなるもんじゃないと思うが……。
「補助輪無しの自転車に乗れるようになったら、もっと気持ちよく走れるよ」
なるべく優しい声色で宥めると、セツナは渋い顔で渋々自転車を預けてくれる。
早速補助輪を取り外しにかかる最中、俺は一つ思案を巡らせていた。
セツナは、「変化」というものを快く思っていない節がある。せっかく貰ったデカいマンションには誰も住まわせず、友人も作ろうとしない。俺といるだけで問題ないのだと言い張っていたことは記憶に新しい。
もっと広い視野で人付き合いをしてほしい、という俺の願望は彼女にとって余計なお世話でしかないのかもしれない。
確かに一万年という長い時間をかけて形成してきた人格、思想を上塗りすることは容易ではない。けれど、それでもやっぱり、何とかして友人の一人くらいは作って欲しい。シルヴァニアンとの一件から、より一層その気持ちが強くなっていた。
仮に明日俺がぽっくり死んでしまったら、セツナはどうなるのか不安で仕方ないのだ。神域の神が面倒を見てくれるとは思えないし、セツナが他の神使に頼りに行くとも思えない。せめて一人、たった一人でもいいから頼れる存在がいてくれたら……。
「……よし、出来た。後ろを支えているから乗ってみてくれ」
「え、ええ」
おそるおそるサドルに跨り、ハンドルが壊れるんじゃないかと思うほどキツく握り締めるセツナ。そのままゆっくりとペダルを漕ぎ始め、二人三脚染みた平和な特訓が始まった。
「ゆ、揺れてる! どうして!?」
「もう少し速く漕ぐと良いぞ」
「でもそんなことしてもしあなたの手が離れたら、あたしフリーになってしまうわよ」
「大丈夫だよ、よほど暴走しない限りはずっと支えてる。一応は神使だし、腕力の心配はいらないって」
ポカポカとした陽射しの下で、俺達は延々と公園を周回し続ける。なんと穏やかな休日だろう。
「ねぇ、ハルも初めて自転車に乗る時は苦労したの?」
「いや、自転車には苦労した覚えがないな。気付いた時にはもう乗れてた」
「運動神経なかったはずじゃないの?」
「無かったけど、自転車に限ればエリートだったんだな、たぶん」
適当な話をしつつ、俺はいつこの手を離すかタイミングを図っていた。このまま日が暮れるまで押し続けるわけにはいかないし、それじゃ補助輪を外した意味が薄れる。
「…………ふーむ」
しばらく待つと段々スピードが増してきて、ブレが少なくなってきていた。ようやく軌道に乗ったかなという感じだ。そろそろ頃合いか。
「そうそう、あたし今ラーメンに凝っているの」
「ラーメン!? 知らなかったな、良い店は見つかったか!?」
「いえ、自分で一から作るのに凝っているのよ。納得いく味ができたら真っ先にあなたに味見してもらうわ」
「うん、楽しみにしてるー!」
「……あれ、なんでさっきから叫んでるの? ていうか声が遠い……」
違和感を感じたのか、セツナが背後を振り返る。すでに十メートル以上離れている俺を視認した瞬間、あんぐりと口を開けていた。
「え、ちょっと! あたし野放しになってるわよ! 約束が違うわ!」
「なに言ってんだよ! 走れてんじゃん! 一人でさ!」
「……あっ、本当! あたし、ちゃんと走れているわ!」
「おーい、それより早く前見ろ。せっかく乗れたのにこけるぞー!」
「いける! もっと速くなれるわ!」
「いやだから前! 前! ま……あー!」
どざざー、という音が聞こえる二秒前にはもう駆け出し始める。幸いにも、セツナが転倒したのは柔らかい砂場であった。神使の丈夫さから考えてまず怪我はしていないだろう。
「セツナ、平気か?」
「大丈夫、平気よ……でも砂が口に入ったわ。ぷぺぺっ」
「髪も砂だらけだ」
ポンポンと軽く髪をはたいて砂を落としてあげる。この程度じゃ全部の砂を取り除くのは無理だ、帰ったらソッコーでお風呂の用意をしないとな。
「くすっ……ふふふ」
絹のような触り心地の髪に感心をしていた最中、唐突にセツナが笑い声を漏らした。目を丸くする俺を見てセツナはさらに口元を緩ませていく。
「どうしたんだよ」
「だって、おかしいんだもの。みっともなくこけて、こんなに砂だらけになって……」
端正な顔にとびきりの笑顔を浮かべたまま、セツナは天を仰いで。
「それなのに、とても達成感でいっぱいなの。変かしら、あたしって」
あまりにも無邪気にそんなことを言う。
呆気にとられていた俺だが、それを聞いて思わず表情が綻んだ。
「……いいや、変じゃない。やったな、セツナ」
「ええ、ハル」
この子は「変化」を嫌っている、なんてのは、俺の勝手な想像でしかなかったんだ。彼女だって「変化」を望んでいる。「成長」を望んでいる。
今まさに、セツナは階段を登った。たった一段かもしれないし、何段も飛ばしたのかもしれない。いずれにせよこれからも階段を登り続けていくことに疑いの余地はない。
俺はその手助けをする。スムーズに行かないこともあるとは思うけど、根気強く手を差し伸べれば、こうして必ず応えてくれるのだと証明してくれたのだから。
「さて、帰ろうか。シャワー浴びないとな」
「ええ、そうね」
セツナの手を取ってゆっくり立ち上がる。倒れたままのママチャリを引っ張り上げた後、俺達は家への道を歩き始めた。
「セツナ、これからも一緒に頑張ろうな」
「? ええ、そうね?」
きょとんとしながらも返答してくれたセツナにもう一度笑いかけ、前を向く。
──もしアレ以上酷くなるなら、ハルの手には余る……
先日、偉大なる女神から告げられた言葉が脳裏をよぎった。
……きっと大丈夫。これからも二人で一緒に暮らしていける。クライア様の言う通りになんてならないさ。
見慣れた道を進みながら、俺はひたすらに明るい未来を願うばかりであった。
第二章 完。




