安寧の存在
夜も更け始め、涙もすっかり乾ききった頃。俺とミヌートはベッドの上で言葉を交わしていた。
「よく泣いたわね」
「ああ、こんなに泣いたのは地球が巻き戻った日以来だよ」
「割と最近じゃないの」
ミヌートが小さく吹き出すと、俺も釣られて笑い声を上げた。同時に、この分だと今日もまた徹夜かもしれないと思った。けどまぁそれもいいか。
「シルヴァニアンは、幸せ者ね。自分の死で泣いてくれる人が居たんだから」
「……そうなのかな」
「悪魔なんて一人で死ぬのが当たり前。だから、過程はどうあれ、キミに泣いて貰えた時点であの子は幸せ者だと思うわよ」
穏やかな笑みを口元に湛えて言葉を紡ぐ。表情も雰囲気も相変わらず悪魔とは思えないほど柔和で、途方もなく綺麗だった。
「……少しでも幸せになっていたら、嬉しいけど…………自分の死に泣いてくれる人……か」
大抵の人間には、そういった存在が居る。家族や友人、恋人や同僚。誰かが亡くなれば誰かは泣く。人の繋がりとはそういうものだ。
だけど、悪魔には居ないんだ。彼らは常に一人きり。ただひたすらに何かを壊し続ける、血に塗れた存在なのだから。
しかし例外的に、姉さんとシルヴァニアンには俺がいた。俺は、彼らのために涙を流せるだけの繋がりを持っていた。
いつか死ぬ時のことを考えれば考えるほどに、「繋がり」という目には見えない曖昧なものがどれだけ大切か痛感させられる。きっと、悪魔という生物はそれを放棄して当然だと思っている。この世に誕生したその瞬間から、ずっと。
「……ミヌートは、どうなんだ?」
「え、何が?」
「死ぬ時に一人だなんて嫌じゃないのか?」
小声で尋ねると、ミヌートはあどけない表情で目をぱちくりとさせ、不思議そうに首を傾げた。
「キミ、知らないの? 悪魔に寿命なんてもんは無いのよ?」
「それは知ってる。でも、別に不死身ではないじゃん?」
俺が聞き返すと、ようやく合点がいったらしく「あー」と溜め息混じりの声を漏らす。
「私、自分の死に際を想像したことがないのよねぇ。一度も死にたいと思ったこと無いし、死にそうだと思ったこともない。じゃあ死ぬ道理もないわよね」
「え……?」
「つまりね、自殺という選択肢を取らない限り私が死ぬなんてありえない。だって私、絶対負けないもん」
「お、おぉ……」
大真面目に断言され、思わず狼狽えてしまう。ただ……ミヌートって悪魔は全く嘘をつかない。短い付き合いではあるけど、その性分くらいは把握していた。
だからなのか、俺はうっかり、口を滑らせてしまったんだ。
「ミヌートって、もしかして『ドゥーム』?」
「今頃気付いたの?」
「……」
絶句……というよりは、『あーやっぱりか』という気持ちだった。
だって、ちょっとおかしいもんなこの人。何というか、ただの悪魔にしては余りにも異質過ぎるし。
「とっくに気付いてんのかと思ってたわよ」
「いや、薄々は思ってたけど……」
先刻、シルヴァニアンの話にミヌートが登場してきた時に「あれ?」とは思ったんだ。もしかしたらそうなんじゃないかなー、と。
ただの大悪魔とは別次元の強さを誇るという、最強の悪魔組織『ドゥーム』。四体しか属していない超精鋭の、その一角こそがシャルミヌート……つまりは目の前の銀髪美女なのだ。
「何よ、私が『ドゥーム』だと見方が変わるわけ?」
唇を尖らせつつ、ジトリとした視線を突き刺してくるミヌート。くっ、正直なところほんのちょっぴりくらいはビビってしまった……が、多少は大目に見て欲しいところだ。こちとら、『ドゥーム』がいかにヤバい奴らなのかって話を散々聞かされてきたんだから。
とは言っても、そんな事情はミヌートからしてみれば知ったこっちゃないわけで。不愉快な思いをさせたんだったら、俺もそれなりのフォローをしないといけない。
「まぁ、見方は変わるわな。滅茶苦茶恐ろしいっていう『ドゥーム』の悪魔が、嬉しそうにアイス食べて笑ってたってことだろ? そりゃあ見方の一つも変わるってもんだ」
チョコミントにブチギレ、バニラアイスに笑顔。あの夜のミヌートを思い出し、笑いながらそう告げると、
「……ほんと、変わってる」
俺の心を見透かしたような柔らかい表情で、微かに口元を綻ばせていた。
「別に普通だよ。これからも普通に話そうな」
「うん……そうね」
静謐な表情を浮かべてゆっくりと頷くミヌート。今の詳しい心境は分からないが、それでもやっぱり、どことなく嬉しそうなのは確かだ。
たとえ最強の悪魔の一人であっても、元々はれっきとした人間だったんだから。人の心があるのなら、誰だって一人ぼっちは嫌に決まっている。どんなに強くたって寒々しい孤独には耐えられない。
もし悪魔だからという理由で心の繋がりを諦めているのなら、俺が繋がってみせる。こんな俺で申し訳ないけれど、いないよりはマシだ。どんな奴でも一人よりはずっといい。
「なんか、ちょっと不安になるわね」
「え!? なんで!?」
「キミが他の悪魔にも優しく話しかけてしまいそうだから。私を悪魔の基準にしてたら痛い目に遭うわよ」
「いやぁ、それは大丈夫。ミヌートは特殊だって分かってるから」
「そ。ならいいけどね」
ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く。今のは、もしかして心配してくれたんだろうか? 心遣いはありがたいが、もうミヌート以外の悪魔と関わることなんてないと思う。
俺は神域の戦闘員ではないし、戦闘員になるつもりもない。何よりセツナが絶対嫌な顔をする。これからも変わらずここで暮らしていくつもりだ。
「……ところで、真面目なこと聞いてもいいか?」
僅か数秒の沈黙を逃さまいと、俺は神妙に切り出す。どうしても気になることがあった。それもミヌートにしか聞けないことだ。
「シルヴァニアンの殺意を消したのは、ミヌートだろ? でもシルヴァニアンの殺意を暴走させる呪いをかけたのも『ドゥーム』の悪魔だって話じゃないか。どういうことだ?」
「……あの兎ときたら、そんな話をしなくてもいいのに」
かったるそうに天を仰ぎながらポツリと呟く。やはり答えにくい質問だったのか。
「四体の大悪魔が『ドゥーム』という一つの部隊に属しているのは確かよ。でもね、私達は『ドゥーム』である前に一人の悪魔なの。無闇につるんだりしないし仲間意識もほとんど無い」
肩をすくめたミヌートはさらに口を開くと、
「とは言っても『ドゥーム』同士で争うことは禁じられてるから、敵だとも思ってないけどね」
意味深にニヤリと笑ってそう付け加える。
とりあえず、おかげで事情は分かった。『ドゥーム』の内の一人が何をしたって他のメンバーの知ったことではない、というわけだ。
もう少し組織的に動いているもんだと勝手に思っていたが、悪魔のトップってことを考えれば当然かもしれない。
「ありがとう、色々教えてくれて」
「別にー。全然大した情報じゃないし」
「そうなのか? まぁ一応誰にも言わないでおくよ」
「好きにすればいいわ」
あっけらかんとした表情で片手をひらひら振るミヌートは、妙に頼もしかった。というか本当に物凄い安心感がある。一体どうしてこの子はこんなに頼もしいのだろうと考えて、思わず笑みが溢れた。
わざわざ考えることじゃない。だってその理由は、彼女を見ればすぐに分かることなんだから。
「……? 何よ、人の顔ジロジロ見てくれちゃって」
「大したことじゃないよ。あんたは本当に凄いなと思っただけ」
「あら、そんな当たり前のこと考えてたの」
そう、これがミヌートに対して絶対的な安心感を抱いてしまう単純明快な理由だ。
ミヌートという女性は、いついかなる時も絶対的な自信で満ち溢れている。根拠のない自信を抱く単なる死に急ぎではない、それに見合うだけの圧倒的な力と知識があるんだ。そりゃあ安心感も生まれるわけだよ。
「さて、それじゃ今日はそろそろ帰るわね。どうやらキミはお疲れのようだから」
「え? 疲れて見えた?」
「うん、どう見ても。ただの人間よりはマシといっても、所詮は半神使なんだからちゃんと休まないと駄目よ?」
ミヌートはよっこらせと細い腰を上げてフリルの裾を伸ばすと、ゆっくりと部屋の窓を開けた。
「今日は窓から入って来たのか?」
「まぁね。ほら、ブーツ履いたままよ」
「えー! ウチは土足禁止だぞ!」
「気付くの遅すぎ。ほらね、さっさと寝た方がいいわ」
快活な笑顔を浮かべながら身を乗り出し、ぴょーんと虚空に身を投げ出したかと思えば、
「あっ、言い忘れてた」
一縷のブレもなく宙に浮いたまま俺の方へ振り返り、
「また来るから」
とっても綺麗に微笑んで、さらりと言い放つのだった。
「……ああ、待ってる」
力強い声で応じ、微笑み返す。もはや恒例とも言えるやり取りが心地良かった。
そして今度こそ夜空に消えていくミヌートに手を振り、今宵の別れを告げた。
「さてと……寝よう」
窓を閉めて消灯し、いそいそと布団の中に潜り込む。暗闇に染まる天井をぼうっと見つめながら、ふと左胸に手を当ててみた。
とくん、とくん……穏やかな心音が手の平から直接伝わってくる。この部屋に来るまでは、激しい運動をしたわけでもないのに妙に鼓動が速くて、息苦しささえ感じていたというのに。
「ミヌートのおかげだ」
彼女と言葉を交わしただけで、信じられないほどに心が軽くなった。あれだけ憔悴していたにも関わらず、今は随分とリラックス出来ている。
彼女と話しているとなんだかふわふわとした気持ちになって、どこかくすぐったくて。
けれども全然嫌な感じじゃなくて、むしろその逆。本当に不思議な存在だ、ミヌートって。
「……すぅ」
安堵感に包まれているうちに強烈な睡魔が来襲してきた。ミヌートもああ言ってたことだし、今日はもう眠って……また、明日だ。
俺は明日も、これからも、生きていくんだから。今日消えた友人の分まで、必死に生きていくんだから。
「…………おやすみ、シルヴァニアン」
意識が途切れる寸前に、小さく呟いて。
俺は、ゆっくりと瞼を閉じた。




