甘き呪縛
「なぁ……イヴってなんだと思う?」
「え……いや、花よね?」
「ごめん言葉が足りなかった。イヴだったあの花、何の花か分かる?」
学校へ向かう支度をしながら、俺はセツナにそう尋ねていた。あの花はとても綺麗だが、俺の知っている花のどれにも合致しない。前々から気にはなっていたのだ。
「あたし、花にはあまり詳しくないのよね。ハルが知らないなら、あたしにも分からないと思うわ」
「うーん、そっか」
既存の花に当てはまらないのだろうか。まぁ、何しろ心を持って生まれた花なのだから、全くの新種と言われても納得できないことはないけど。
「ネットや図書館で花の図鑑を見たりしてるんだけど、どれも何かが違っててさぁ。それだけイヴが特別ってことなのかな?」
「そうかもしれないわね」
セツナの返事は淡白だった。タンクローリーで均したのかと思うほど平坦な声だった。
「…………ハル。花のことを調べてどうするの?」
「え……いや、どうもしないけど……なんか知っておきたいじゃん。話しただろ? 俺とイヴは、婚約者なんだ」
「婚約者だった、ね?」
「………な、何だよセツナ。わざわざそんな」
「いえ、この際色々とはっきり言っておくわ。良いわね?」
「だめ」
「だめなのはあなたよ、何が何でも言わせてもらうわ」
えぇー……。
「……ハル、あたしはね。あなたには幸せに笑っていて欲しいの」
エプロンを外しながら、セツナは険しい顔付きでそんなことを言う。
地上から命が消えたあの世界で、姉さんも似たようなことを言っていた。もしかして俺、側から見てるとそんなに不幸な奴に見えるの?
ていうか、言葉の意味がよく分からない。今、イヴの話してたよな? どうして俺の幸せの話になるんだ?
「分からないって顔してるわね。あなたは自覚がないと思うけれど、ひどく歪になってしまったわ。歪な思考回路になってしまったわ。あんな別れ方をしたから……仕方ないことかもしれないけれど」
え!? い、歪!? そこまで言われなきゃいけない事したか俺!?
「このままじゃ……あなた、幸せになれないわよ。いつまでもずっとイヴのことばかり考えていたら……幸せになんて、なれるはずない……」
「いやいや! いやいやいや! 俺が幸せだって思ってたら幸せなんじゃねーの!? なぁそうだろ!? 俺の人生は俺のなんだから! 」
たまらず抗議の声を上げる。セツナは恩人だし大切な家族だが、そこまで言われて黙ってられるほど大人じゃない。イヴのことを考えてたら幸せになれないとか、一体何の根拠があってそんな酷いことを言えるのか。
「……あと何年生きていくと思っているの? 今はまだ実感が湧いていないのかもしれないけれど……本当に途方も無く長い時を生きていくんだから」
「だから前向いて行けってことだろ? いや分かるよ、それは分かるけど! イヴのこと考えるくらいはいいだろ!? イヴだってその方が嬉しいと思う!」
「そうかもしれない……イヴは、ね」
不穏な言い回し。セツナはさらに何か言おうと口を開く──その直前だった。
ビビビッ、と俺のスマホが鳴り出した。遅刻防止のためのアラームだった。
「もう! このままじゃ遅刻するからもう行くからなっ!!」
これ以上セツナに何も言われないよう、わざと大声で遮ってそそくさと玄関に向かう。
「ハル! ちょっと待ちなさい!」
「いや無理だし!!!! 遅刻するし!!!!」
「お弁当! ほら、忘れてるわよ!」
「…… ありがと!!!!! それじゃ!!」
素直になりきれない小学生みたいな口調で弁当を受け取り、俺は急いで家を飛び出した。
バス停までの道のりを歩きつつ、弁当箱を丁重にリュックの中に詰め込む。
「……なんだよ、好き勝手言ってくれちゃってさぁ……」
ポツリと、愚痴をこぼす。
「……分かってるっつーの。わざわざセツナに言われなくても……」
先程セツナが口走ろうとした話の内容など、もう見当が付いている。そしてそんな話を持ち出されたって、今の俺にはどうしようもないってことさえ自覚出来ている。
イヴはきっと、俺が生涯イヴを愛し続けることを望んでいるだろう。彼女の望みをこの俺が裏切るなど、あってはならないことだ。
だけど……今の俺が背負っているのはイヴの命だけじゃない。もう一人、とても大切な人の分まで背負っているんだ。
確信を持って言える。「その人」はそれを望まない。
俺の姉……凪姉さんは。
あの人は確かにイヴを特別視していた。ああ、それは間違いなく確かなんだけど……自分で言うのもなんだが、姉さんにとっての「一番」はいつだって俺だ。特に悪魔と化してからは顕著だが、あの人にとっての「月野葉瑠」は俺が思っていたより遥かに大きい存在なのだ。それこそ、イヴでさえ太刀打ち出来ないほどに。
そもそも『イヴ』の成り立ちからしてそうなのである。姉さんは、俺が幸せになると思ったからイヴという花嫁を見繕ってくっつけさせようとしていたんだ。
姉さんは最期に、俺に幸せになれと言った。いわばそれは、尊重すべき遺言のようなものだ。
もうこの世のどこにも存在しないイヴを愛し続ける、というのは、姉さんの願いに反する行為に違いない。
「………………しょうがないじゃん、まだ好きなんだから。つーかはえーよ、セツナ。まだ一ヶ月くらいしか経ってないのに、もう切り替えろって言うのかよ……どうかしてるって……」
セツナの目の前でそれを言う度胸もない俺は、一人でブツブツと愚痴るばかり。
本当に小学生みたいだな……。
***
「はぁ……おはよ黒瀬さん」
「おはよう月野くん。冴えない顔してどうしたの?」
教室に到着し、隣の席の黒瀬さんに挨拶して一息ついた。
「なぁ、黒瀬さん。幸せって何だと思う?」
「えらく哲学的なことで悩んでるね」
黒瀬さんは腕を組んで考え込む素振りを見せる。それからすぐにポンと手を叩いた。
「人それぞれ、じゃない?」
「だよな。俺もそう思う」
まぁ結局はそうなんだろう。幸せなんてもの、突き詰めれば突き詰めるほど抽象的な言葉でしか言い表せなくなるのが、この世の理なのかもしれない。
でもそれで納得できるならわざわざ尋ねたりしない。何か具体的な意見が聞いてみたいな。
「じゃあ黒瀬さんにとっての幸せって?」
「そうだなぁ……蟻の巣潰し?」
「陰湿すぎる」
蟻の巣潰しで幸福感じる女子高生とか闇が深過ぎるわ。
「あはは、冗談だよ。でも私の幸せなんて、そんなに大したことでもないから」
「いや、別に構わないけど。めちゃくちゃ壮大な幸せの感じ方してたら逆に引くよ」
「引くんだ……」
その時、チャイムの音が校舎に鳴り響いた。くっ、時間切れか……。
先生が教室に入ってきて、朝のホームルームが始まる。結局俺の中の悶々とした気持ちが晴れることはなかった。
***
「……疲れた。もう帰ろう」
疲労感たっぷりに呟き、俺は重い腰を上げる。
一日中考え事をしていたら、あっという間に放課後になっていた。それだけでも参るというのに、他の苦労も重なっててんてこ舞いである。
他の苦労、というのは何を隠そう『半神使』のことに他ならない。ただ授業を受けるだけならまだ良いが、体育となると話は別だ。もうマジで相当気を遣う。
軽く走るだけでもえげつないスピードが出てしまうのだ。身体能力の向上が止まるところを知らない。別に見た目は変わっていないから、体内の輝力が強まっているということなんだろうけど……ちょっとした接触で怪我をさせてしまうのだと考えると、かなり神経質にならざるを得ない。
……やめやめ。半神使のことに関しちゃ、ネガティブに考えないようにしないとな。さぁ、さっさと家に帰ろう。
***
「ん? セツナだ」
バスから降りると、ぽつんと一人で佇むセツナを発見した。あっ、そうか、今日は神域に行った翌日……例の「散歩」が、また……。
胸に手を当てて深呼吸──よし、行こう。
「おーい、セツナ」
「ハル」
ん?
はて、と心の中で首を捻る。なんか、いつもと違って……いや、むしろいつも通り?
「なんか買い物?」
「いえ、ここであなたを待っていたのよ」
やっぱりだ。このセツナは「散歩」ではなく明確に自分の意思でここまで来たんだ。靴もちゃんと履いているし。
それにしても俺を待ってたって……どういうことだ?
「もしもシルヴァニアンを見つけたら瞬間移動ですぐに逃げられるように、あたしが付いているわ。その方が安全だし安心できるから」
「あー、なるほど」
大きく頷きつつ、俺とセツナは隣り合って歩き始める。
朝は色々と言い合ったりもしたが、少し時間が経てばこんな風に普通に話せる。なんだかんだで、俺とセツナは家族なんだなと思う。切っても切れない強い結び付き……そういうモノが、ふとした日常で感じられることも多くなっていた。
「ハル、学校はどう?」
「ん、楽しく過ごしてるよ。勉強はできないし進路も不安だけど」
「えっ? 進路? ハル、進学や就職をするつもりなの?」
「そ、そうだけど……なんだよ、なんか変か?」
「あなたには働かなくてもいいくらいの遺産があるわ。それに、何年経っても全然老けないから怪しまれるわよ……」
「いや、それでも年相応に道を選んでみたい。怪しまれてどうしようもなくなったら、そん時はしょうがないけど。それまでは普通に暮らしてたいかな」
「…………そう」
少し沈黙した後、セツナは小さく笑ってそう呟いた。
どこか哀しそうに見えるのは、きっと気のせいではないだろう。
「ねぇハル、今朝の話覚えてる?」
「むっ! イヴのことなら聞く耳持たないぞ」
「だと思ったわ。まぁイヴについては、しばらくの間見逃してあげる。今あたしが言いたいのはね、あなたの幸せとシルヴァニアンのことよ」
セツナはゆっくりと俺から顔を逸らし、前だけを見つめて唇を動かす。
「シルヴァニアンの件が無事に終わったら、もう神域に関わるのはやめましょうね。あたしがクライア様に色々掛け合って、なんとかしてみせるから」
「か、掛け合うって……そんなわざわざ。セツナ、神域に行くの辛いだろ?」
「ええ。それでもハルが神域と関わらないで済むのなら……」
表情を窺う限り、今即興で決めた、というわけじゃないのは明白だった。とても、とても、決意に満ちた顔付きで……。
「あなた、最近凄く良い笑顔が増えてるわ。学校に行って、友達と話して、触れ合って……やっぱりそういう生活が合ってるのよ、ハルは。ひとりぼっちになったあの世界で何度も泣いていた時とは全然違う。あたし、あなたは絶対にここで暮らすべきだと思う。神域や神様や悪魔、そんなのとは関係のない穏やかな生活を送って欲しいと思う。だから、もう……」
セツナは、やっぱり俺に負い目を感じているんだ。半神使にしてしまって申し訳ない、全部自分の責任だ……と。
そうじゃないんだと何度も言っている。俺が選んだ道なんだとその都度言っている。
けれどセツナは未だに認めていないんだ。何が何でも自分が悪いと思わなければ気が済まないらしい。まったく本当に困った性分である。
「いや、無理しないでくれ。大丈夫だよ、心配しなくても俺から神域に関わることは無いから。だから、わざわざクライア様に話を付けてこなくてもいいんだってば」
「……あなたにその気がなくとも、神域側から干渉してくるに決まっているじゃない。あの時……ハルが「水が出る能力です」って伝えた時のクライア様の目、見た? 『こいつは使える』って目を輝かせていたわよ」
「……でも、どこまでいっても俺は半神使でしかないわけで。クライア様が期待するような戦力にはなりっこないし」
「確かに可能性は低いけれど……一〇〇%じゃない。だったらやっぱり……」
「月野くん」
セツナの声を遮る、誰かの声。
反射的に声のした方向──前方に佇む人物に視線を注ぐ。
「…………黒瀬さん?」
俺の隣の席に陣取る、クラスメイトの黒瀬さんその人であった。




