異変の正体
「ふー、さっぱり。ハルもお風呂入ったら?」
瑞々しい肌をほんのり上気させたセツナは、ソファに体を沈ませて一息つく。夕食も済ませ、あとは寝るだけ。これ以上なくリラックスした状態だ。
「ん、あー、その前に。実は話があるんだ」
俺とて早く新作の入浴剤を堪能したいところではあるが、その前にやらねばならないことがある。
せっかくリラックスしているのに悪いとは思いつつ、それでもこれ以上引き延ばすのは躊躇われた。腹を括って例の話を切り出す。
「今朝、俺のベッド濡れてただろ?」
「そうね。寝る前にトイレ行く習慣を付けなさいね」
「あれさ、別におねしょじゃないんだ。手から出たんだよ」
「何言ってるのよ」
呆れたような目で見られる。今朝の黒瀬さんと似たような視線だったが、心に負うダメージはあの時の比ではなかった。
「誤魔化そうとしてるわけじゃない。そして手汗で濡れていたわけでもない」
そう言って、俺はセツナの目の前に右手を差し出す。
黒瀬さんの時と同じく、実際に水が湧き出るところを見せれば信じてくれるだろう。
「ん、何、こう?」
首を傾げたセツナは、どういうわけか俺の手を握ってきた。わけがわからず俺も首を傾げる。
「……どうした?」
「えっ、手を差し出したから、握手するのかと思って」
きょとんとした顔でそう言うセツナに、俺は我慢できずに吹き出してしまった。
「ははっ、ごめんごめん。そうじゃないんだ。俺の手の平を見ていてくれれば良かったんだよ」
「なっ、何よもう! ちゃんとそう言ってよ! 恥ずかしいじゃないもう!」
顔を赤らめ、慌てて手を引っ込めるセツナ。最近になって握手を覚えた彼女ならではのミスだったようだ。ちょっと和む。
「よし、いいか。見ててくれ」
俺は今度こそ、白銀の瞳の前で、手から透明な水を湧き上がらせた。
「……これは」
延々と溢れ出る水に、セツナは大きく目を見開き、すぐさま顔をしかめた。ある程度、俺の身に何が起きたか把握したのかもしれない。
そして勢い良く俺の手を引き寄せ──何の躊躇もなく口の中に入れた。
「えっ!?」
未知の感覚に全身がぞわぞわと震える。いきなり指を舐められるなど予想だにしていなかった。
「なっ、なっ、何だ!? いきなり!?」
「…………この味は」
「あ、ああ。アルプスの天然水……」
「ばか! 何言ってるのよ! 輝力よこれ!!」
悲痛な声で怒鳴られる。
俺としても、あんぐりと口を開けて硬直せざるを得ない。
輝力……神や神使が扱う特別な力だ。それが俺の水に含まれてるってことは……?
「あなた、結局息切れ一つせずに家に辿り着いたわよね。あたしをおぶったままだったのに」
「……ああ、そうだ」
「今日学校で体育あったわよね? どうだった?」
「ハットトリックを決めた。汗一つかかなかった。ドーピングを疑われた」
ありのままの事実を伝えると、セツナは大きく息を吸い込み、がっくりと肩を落とした。
「…………こんなこと、前代未聞だわ……起きてはいけないことが、起きてしまった……」
「……やっぱヤバいか」
「ヤバいというか、ありえないわ。あなたは……輝力をその身に宿している。微量だけれど、確実に」
「つまり……俺は」
セツナは苦虫を噛み潰したような表情で、重々しく頷いた。
「あなたは……人でありながら神使の特性を有している。言うなれば『半神使』と呼ぶべき存在と化しているのよ。あたしの知る限り、神様の施しも受けず生きたまま神使化するなんて史上初……それも半分だけなんて……」
あまりの衝撃に言葉を失ってしまった。
妙な異変が起きているとは思っていたが、まさか俺なんかが、半分だけとはいえ神使になってるなんて……そんなことがありうるのか……?
「…………確かに……辻褄は合うわね」
セツナは沈痛な面持ちのまま、言葉を絞り出す。
「あたしを見れば分かる通り、神使は「巻き戻し」の影響を受けない。というのも、「巻き戻し」で修復出来るのはあくまでもこの星に属する物質に限られるから。神使とは、星ではなく神域に属する高次元の存在。「巻き戻し」がいくら大規模な修復とはいえ、結局は地球という星一つの範囲でしかない。その修復に記憶や肉体を好き勝手されるようでは、神使は務まらないから。つまり、ハルが半分だけでも神使としての性質を得ていたのなら、神域に属する者として星の枠組みからはみ出ていた可能性が高い。なぜ以前の世界の記憶を残せたのか、という謎もこれで解決するわ。身体能力の劇的な向上についても、半神使化したことを考えれば当然のことだしね」
なるほど……なのか……?
「それじゃ、俺の手から水が出てくるのはなんだ?」
「それは多分あなた固有の力よ。神使は基本的に個々で特殊な力を持っているの。あたしにとっては瞬間移動がそれに相当する。あなたの場合は水を生成する能力らしいわね」
うーん、この程度の水量しか出ないのでは、瞬間移動に比べると凄くしょぼいような……いや、でも水分補給に困らないのは凄いことだし……。
「輝力を含んだ水を生成するなんて、とても凄い力よ。今はしょぼいけれど」
「あ、どうも……」
わざわざフォローを頂いてしまった……。
兎にも角にも、これで大体の説明はつくわけだ。しかし、まだ最大の疑問が残っている。
「なぁ、そもそもどうして俺は半神使に?」
「……それは……きっと、あたしのせいだわ」
お風呂上がりで上気していた顔はすっかり青ざめ、今にも倒れてしまいそうなほど狼狽えていた。
「きっと原因はあの神器……脳に輝力を充満させる、あのヘルメット……」
「ああ、アレか」
姉さんとの決戦で重要な鍵となった、千里眼染みた力を引き出すヘルメット型の神器──『ファラグロンザ』。
俺がセツナから取り上げて装着したアレが原因だったのか……。
「アレを被って半神使化……いや、いや、でもおかしいわよ。おかしいわ、絶対。神域に属する者以外が神器を使用した事例は過去にいくつかある、でも神使化するなんて聞いたことがない、こんなに永い歴史の中で一度たりとも無かったのに……やっぱりありえない…そんな事は起こりうるはずがない……! それなのに……!! どうして、あなたは……!!」
まるで呪いの言葉を呟いているかのように、忙しなく唇を動かすセツナ。
否定と肯定の言葉を繰り返し、何度も首を振ってはまた呟いて。
最終的には頭を抱え、うずくまったまま動かなくなってしまった。
「おい、セツナ。ちょっと落ち着けよ。いくらなんでも動揺し過ぎだ」
俺だってもちろん動揺している。何せ自分自身の事なのだし、それは当然だ。だがあまりにもセツナが狼狽しているために、一周回って妙に落ち着いている自分がいた。
「……あぁ、失敗した。間違えたのね……あの時、あたし……」
「間違い? まさか俺が神器を装着したこととか言うんじゃないだろうな? やめてくれ、どうかしてるよ。アレを被るのは俺の意思で決めたんだ。セツナの失敗なんかじゃない」
セツナは下を向いたまま、俺の方を見ようともしない。俺の声が聞こえているのかどうかさえわからない。
「……あなたが現れた時点で、あたしが死んでいれば良かったんだわ……それならこんなことにはならなかった……神使になんてならなくて済んだのに……苦痛に耐え切れなくなって、あなたに頼るしかなくなって、あたしは…………あなたの人生を、壊してしまった……」
「お前さ。お前が死んで俺が平気だとでも思ってんのか? この俺だぞ? そんな簡単な想像さえできないのか?」
「……でも」
「あー良かった、ヘルメット取り上げといて。あのな、俺はセツナに死なれるくらいなら人間辞めた方がマシなんだよ」
きっぱりと、包み隠さず言い切ってやった。
自分が死んだ方が良かった、なんてふざけた言葉、セツナにだけは言って欲しくなかった。
涙を流す俺に手を差し伸べてくれた、この子にだけは。
セツナは深く俯いていた顔を上げて、なんか変な顔をした。
うん、それ以外どう形容したらいいのか分からない。どういう感情なんだ、これ? 少しぶっきらぼうに言い過ぎてしまっただろうか?
「…………そういう考え方もあるのね」
「そりゃあるだろ」
間髪入れず答えると、セツナはせっかく上げた顔をすぐに俯かせ、両手で顔を覆った。
「……っ、……別に泣いてないわ」
「まだ何も言ってないけど」
「……ねぇ、ハル。あたし、さっきみたいなこと、言われ慣れていないの……ていうか……初めてかも……」
これやっぱ泣いてんじゃねーか?
「セツナ、俺は……」
「ちょっとトイレ。トイレ行くわ。トイレ付近にしばらく近付かないで」
口早にトイレを連呼したかと思えば、一瞬で俺の目の前から消えてしまった。わざわざ瞬間移動を使わなくても……と思ったが、それは野暮というものだろう。
まだまだセツナの中では、人前で泣くのは恥ずかしいこと、という認識があるのかもしれない。全く失礼な話だ、それなら俺は異常者じゃないか。
「…………弱味は見せたって構わないんだ。だって俺達、家族だろ」
トイレに籠るたった一人の家族となった少女に思いを馳せ、独り呟く。
「うぅぅぅう~~……」
「うわ、戻ってきてる!? いつの間に……」
「またトイレぇ~……」
「いいってもう! ここで泣いてくれればいいから! な!?」
「ううぅ~~」
「どうどう」
華奢な背中を何度もさすってなだめる。
まさか俺がこんな風にセツナをあやす日が来るとはなぁ……出会った日からは想像もつかない。
それから十分ほど経って、ようやくセツナは落ち着いたようだった。赤く腫れた目に目薬を一滴差し、大きく息を吐く。
「……じゃあ本題に戻るけど」
「本題?」
「あなたが半神使になったこと!」
「あ、そうか」
「……ねぇ、ハル。神使になることでどんなデメリットがあるか、ちゃんと分かってるの?」
「よく知らないけど。でも半神使なんかが神域の任務とやらに駆り出されるもんなの? 使い物にならないんじゃ……」
「まぁ、任務関係はそうかもしれないわよ? でも他は……決定的に変わるわ」
セツナは目を伏せ、すぅっと静かに息を吸い込んだ。
「完全な神使じゃないから、まだはっきりとは言えないけれど。たぶんあなたは、もう歳をとらなくなるわ」
「…………」
それを聞いた瞬間、俺は全てを察して押し黙ることしか出来なかった。
一千年以上生きていたはずなのに、外見は女子高生そのものだった姉さん。
間違いなくそれ以上の年月を生きていながら瑞々しくて可愛らしいミヌート。
そして一万年という時を過ごして二十歳前後の外見を保っている、目の前のセツナ。
俺も彼女達のように、何年経っても老けなくなるというわけだ。それはきっと、セツナの言う通り、メリットよりも遥かにデメリットの方が大きいと思えた。
「あなたの友達がよぼよぼのお爺さんになる頃にも、あなたは若々しい姿のまま。進み続ける世界の中で、あなたの身体だけは止まったまま。それがどれだけ辛いことか、あたしはよく知っている……いいえ、知っていた。もはや時が経ち過ぎて、どれほど辛かったのかさえ忘れてしまった。きっと居たであろう友人や家族の顔も声も思い出も、何もかも断片さえ覚えていないわ。きっとあなたも、そうなってしまう……神使になるということは、そういうことなのよ」
とてつもなく重い言葉だった。何せ紛うことなき神使であるセツナの体験談だ、説得力が違う。
何年経っても老けない俺を、周りはどう思うだろう?
ちょっとした騒ぎになって、研究材料として捕らえられたりするのだろうか?
定職に就く事も難しいかもしれない。住む場所だってそうだ。怪しまれないように、転々と移動しながら生きていかなければならなくなるのかも。
ちょっと考えただけでもこれだけの懸念材料が出てくる。この世知辛い世の中、きっとまだまだ大変な事が起きたりもするだろう。
だけど。
それら全部を引っくるめても。
「それでも俺は、後悔してないよ。何度あの日をやり直せたとしても、俺は何度でもこの道を選ぶから。だから良いんだよ、セツナ」
たとえこれまでの生活が出来なくなったとしても。
たとえ人間でなくなったとしても。
それでも俺は、セツナが生きていて良かったと思う。この子を死なせずに済んで良かったと思う。
目の前の泣き腫らした少女を見つめ、俺は改めて確信する。
ああ、俺のした事は、決して間違いなんかじゃなかったのだと。
「……あなたは馬鹿だわ。あたしには、そんな価値無いもの」
「それは俺が決めることだろ? 俺には価値があったんだ、それだけなんだって」
セツナは何も答えず、ただただ沈黙していた。
俺はゆっくりと立ち上がり、最後に「おやすみ」とだけ言い残して静かに自室に戻った。
俺の身体の異変、セツナに良い顔をされないことくらい事前に分かってたけど……まさかあんな風に泣かれるなんて……。
でも、きっとその内分かってもらえるはずだ。自分にはそれだけの価値があったんだってこと。俺の行動は別におかしくもなんともないんだってこと。
「どうしてああも卑屈なんだろ。なぁ、イヴ」
窓際の鉢に咲く花に声を掛けた。
当然、返事はない。俺の声も届いていない。心なんてない、ただの綺麗な花だった。
花は、枯れる。
いつか必ず枯れる。この花が枯れてしまえば、もうこの世界のどこにもイヴの痕跡が無くなってしまう。
「……もし……本当に俺が、ずっとずっと生き続けたなら……やっぱり、セツナみたいに、全部忘れるのかな……?」
想像した瞬間、鳥肌が立つ。だが、あくまでも俺の想像に過ぎない。まだ忘れると決まったわけじゃないし、忘れるつもりもない。
「……はは、大丈夫だよな……だって俺は奇跡を起こしたんだ……だから、次も平気さ……そうだろ? イヴ……」
答えは返って来ない。いくら語り掛けても永久に返ってくることはない。
この花は、花でしかないのだから。
弱々しい独り言は、そのまま冷たい静寂に溶けて消えた。




