不完全な蕾
「ふおっ」
腑抜けた声と共に目を覚ます。
感傷に浸っている間に居眠りしてたみたいだ。えーと、時間は……。
「おはよう、ハル」
「わっ、セツナ! 帰ってきてたのか……ってもうこんな時間か。おかえり」
「ん、ただいま」
桜色の髪をたなびかせ、にっこりと笑うセツナ。
うん、こうやって挨拶を交わせる相手がいることの何たる幸福なことか。
姉さんや両親を失った俺にとって、セツナこそがただ一人の家族と呼べる存在だ。
「よく寝ていたわね。しかも制服のまま」
「制服……ん? あれ? 何か忘れてるような」
ネクタイを緩めながら、寝惚けた頭で記憶を探る。ええと、そもそもなんで急いで帰って来たんだっけ……?
「あっ! あっ、あーーーーーっ!!!!」
「な、なんなのよ、驚くじゃないの!」
「うわー、やらかしたよ。俺、今日中に課題を提出する約束だったんだ。そのためにダッシュで帰って来たのにすっかり忘れてた」
「そんなことある!? 帰った瞬間目的忘れて寝るなんて幼児でも中々ないわよ!?」
あ、そうか……セツナ視点だと、今の俺はそう捉えられてしまうのか……。
弁解を図りたいところだが、セツナの身の安全のためにもミヌートについて話すことは出来ない。ここは幼児以下の高校生を演じる他ない……。
「家に着いたと思ったら安心して! 安心したら良い気持ちになって! 寝た!!」
「あなたの将来が心配だわ……」
普通に心配される。普通に傷付いた。
「ところでセツナ、今日は何の用事だったんだ?」
「ん、手続きを済ませてきたのよ。何か命令があれば今まで通り従うことを条件に、この星に居てもいいという許可を正式に得たわ」
「……そっか」
「もう少し喜んでもらえると思ったのだけれど」
「いや、もちろん嬉しいよ。というかセツナが居てくれないと、俺は生きていけないしな」
今の俺にとって、セツナは生きる原動力と言って差し支えない。セツナ無しのひとりぼっち生活など、遠回しに死ねと言われているようなものだ。
「負担が増えるんじゃないかと心配なんだよ。セツナ、まだ本調子じゃないんだろ? それなのに神域とここをしょっちゅう往来するってのは……」
「ああ、そこはそんなに心配しなくても大丈夫。ええとね、ハル。実はあたし、もうとっくに本調子なの」
「え? いやいや、そんな馬鹿な……」
ちょっと何を言っているのか分からない。姉さんとの戦いを経て、セツナは視力の低下や輝力含有量の縮小による体調不良など様々な後遺症に悩まされていた。
それがどうして本調子ということに……?
「もう回復の余地はないのよ。現状あたしはこれがベストコンディションってこと。だから、与えられる任務も前よりうんと少なくなるのよ」
「か、回復の余地が無いって……そ、そんな……」
「あまり暗い顔をしないで欲しいわ。あたし、元々死ぬ予定だったのよ? それを考えれば贅沢にも程があるわよ」
実際、セツナは毛ほども落ち込んでいなさそうだった。むしろどことなく喜んでいるような……?
とは言っても、やはり引け目は感じてしまう。何せセツナがこうなった原因は、俺の姉さんに……大悪魔ミラに挑んでくれたからだ。
「ハル……実を言うとね。あ、先に言っておくと幻滅させるかも」
「いやしないから。どうした?」
セツナは珍しくもじもじとしていた。普段の彼女を思えば中々に新鮮である。可愛いらしいったらない。
「あたし、高潔だのなんだの言っていたけれど……そこまで神使の任務が好きではないの」
「あ、そうなんだ」
一世一代の告白レベルにもじもじしていた割にそう驚くことでもなかった。
「か、軽くないかしら!?」
「任務が好きな奴なんて、どんな分野でもそんなに居ないと思うけど。幻滅なんてしないよ」
「そ、そう……」
大人びていて頼り甲斐のあるセツナだが、時折こんな風にどうでも良い事を畏まって言うことがある。変な所で妙に子供っぽいのだ。
「ま、まぁそれでね、任務は好きじゃなかったから、正直嬉しいの。たとえ力が落ちても、あたしはこうしてハルと暮らせる方が良い。だから、別にあなたのワガママを聞いて一緒に居るわけじゃないってこと、覚えていて」
「……ああ。改めて、これからもよろしくな、セツナ」
二人で顔を突き合わせ、朗らかに笑い合う。
セツナの言葉は素直に嬉しかった。少し気恥ずかしいが、誰かから必要とされて嬉しくないわけがない。これから先どんなことが起こっても、きっとセツナだけは俺と仲良くしてくれる。
そう……たとえ、俺が「人間」から逸脱してしまっているとしても──
***
「葉瑠さん、葉瑠さん。葉瑠さん?」
「イヴ……ああ、これ夢か」
「早いですよ! 何ですかその察しの良さ! もうちょっと感傷的になったりしないんですか!?」
「イヴとはもう会話なんてできない、そんなのちゃんと分かってんだよ。つまりこりゃ明晰夢って奴だな。夢だと自覚した夢」
「むむむ……夢の中でもいいから話がしたい、と。そう思っているからこの夢を見ているのでは?」
「……いや、多分違うと思う。うーん……でも、そうだな、確かに分かんないな。現実を受け入れてるはずなのに……どうして夢を……」
「ふん、当ててあげましょう。あなた、私以外の女性に対して物凄く興奮しましたね?」
「!?!? いや、ちが、違う、こここ興奮なんて、おいおいおいおい……」
「分かりやすっ。浮気だ浮気、浮気ですよー」
「あ、あれはっ、不可抗力という奴で、俺は別にっ、なんともなんとも……」
「興奮したから。罪悪感があったから。こうして私を夢に見ちゃってるんですよね? 葉瑠さんは」
「……ぐぬぬ。いや待って、これだけは信じてくれよ。俺が好きなのは今でもイヴだから……」
***
ハッ、と目を覚ます。
はぁ……なんて夢だ。俺はそんなにミヌートのガーターベルトに心を奪われていたっていうのか……?
「ん?」
不意に違和感に気付く。
あれっ、なんかベッド湿ってない? 寝汗…は掻いてないな。別に暑くなかったし……。
あれ? つまり必然的に……?
「っ!?」
ガバッと布団をめくって下半身を確認する。ん? ここでもないのか。てっきり俺は……ごほん、とにかくますます不可解だ。なんで俺のベッドこんなに濡れてんだよ……。
「ハルおはよう。入るわよー」
扉の向こうから聞こえてきた清らかな声に、思わずぎょっとした。まずい、今セツナにこれを見られたら間違いなくおねしょだと誤解されんぞ!?
「ごめんちょっと待ってくれ!? 裸のまま寝てたからまだ全裸なんだ!」
「何よその見え見えの嘘。あなた生粋のパジャマ派じゃないの」
しまった! 焦って墓穴掘った! 俺が裸で寝たりしないことなどセツナはとうに知っている!
「時間もないしもう入るわよ」
いかん! とはいえ逃げ場もない!
反射的に俺は急いで布団を被る。うわっ冷たい! 改めて被るとビッショビショじゃねーか気持ち悪っ!
「あ」
勢い余って布団を蹴飛ばしてしまう。そしてその先にいたのは……。
「わぷっ! ハル、急になんて行儀の悪い……あれ? いやに湿っているわね…」
俺の布団が直撃してしまったセツナは冷静にそれを払いのける。そして数秒首を傾げた後、とんでもなくばつの悪そうな顔をした。
「あっ……そういう……素直に言ってくれれば良かったのに……」
「ちっ、ちが、これは別に……!」
「はいはい、分かってる分かってる。とりあえずシャワー浴びてきて。ここはあたしが片すから」
なおも弁明しようとするが、有無を言わさぬ圧倒的ママ感の前に口をつぐむ。
くそぅ、セツナには俺の恥ずかしいところを色々と見られてきたが、流石におねしょはレベルが違う。いやおねしょではないけども。
「早くお風呂行ってきてちょうだい。今日学校あるでしょ、遅刻するわよ」
「くそぅ、くそぅ……」
半べそをかきながら部屋を出てお風呂へ向かう。何がどうなっているのか自分でも分からなかった。
廊下で立ち止まり、今一度自分の下半身を観察する。うん、パンツは全く湿ってない。
「一体どういうことなんだ……?」
自らの異変に困惑するしかなかった……ん? 異変……?
ふと一つの可能性に行き着いた。昨日、ミヌートが言っていた言葉を思い出す。
──多分明日には目醒めてると思う。わざわざここで言うまでもないって感じ
もしかして、不可解なベッドの湿りがその兆候……?
いや、流石にないか。なんだよそのしょーもない覚醒。
朝から憂鬱な気分を抱えたまま、俺はトボトボと風呂場へ歩いて行くのだった。
***
「いってらっしゃいハル。駆け込み乗車は駄目よ」
「うん、行ってきます」
通学用のリュックサックを背負いながら家を出る。玄関から見送ってくれているセツナに手を振りつつも、モヤモヤとした気分は未だに晴れず胸の内でぐるぐると渦巻いていた。
少し状況を整理してみよう。
俺は仰向けに寝ていた。そしてベッドが濡れていたのは腰より下部分で、上半身はほとんど影響なかった。だからこそ俺はおねしょを疑ったんだ。つまり原因は、局部以外から発生した液体……?
「……手、か?」
手汗が死ぬほど出ていたという可能性……知らぬ間にハイパー手掌多汗症になっていたという可能性だ。脱水症不可避の馬鹿げた考えだが、ポジション的にはバッチリなのである。
試しに手を見つめながら念じてみた。いでよ水。
「むおんっ!?」
出た。
有り体に言ってめっちゃくちゃ噴出した。せっかくシャワーを浴びたばかりだというのに、顔面も制服もびしょ濡れになってしまった。
「……汗? いや、ただの水だこれ。水が出る意味は分からないけど、この現象がミヌートの言ってたアレだよな……」
なんというか、本当に。
いつの間にか、俺は人間をやめていたらしい。




