シャルミヌート
時刻は午後四時半。
俺は懸命に走っていた。理由は単純、このままだとマジで怒られるからだ。
具体的に言うと提出物を家に忘れた。延長に延長を重ねてもらった課題の期限が今日だった……が、案の定忘れた。
「ふぅ、ただいまー」
「おかえりー」
玄関の靴を揃え、自分の部屋へ向かって歩き出す。
一刻も早く課題を持って学校に戻らなくては……!
「……ってあれ? 今のセツナの声じゃなくね?」
そもそも、今日は神域でやることがあるから夜まで帰って来れない、と言っていたはずなのだけれど。
焦燥感からスルーしそうになってしまったが、セツナ以外の誰かがこの家にいるとあれば流石にそうもいかない。めっちゃ肝の座った空き巣かもしれん。
声がしたリビングの扉まで戻り、少しだけ覗いてみる。
リビングのソファーには、一人の女性が座っていた。
霞みがかった銀髪……プラチナシルバーとでも言うのだろうか? 魅惑的なゆるいウェーブの長髪をハーフアップにしている。髪を束ねる黒いリボンが印象的だ。
服装は黒いレースのパーティードレス。これまたびっくりするくらい似合っている。胸元の部分もレースで谷間が見え……ってデカくね!? イヴよりデカいだろあれ!
そして何よりも特筆すべきは、とんでもなく美人だということ。見ているだけでぴゅーっと魂が抜けてしまいそうなほどの美貌だ。セツナ一人居るだけでこの家はもう眩し過ぎるくらいなのに……大丈夫かこれ? 爆発とかしないだろうな。
まぁ、とりあえず俺の知り合いでは絶対にない。顔立ちからして日本人じゃないし、俺に外国人の知り合いはいない。流石にイヴのような特例はもうないだろうし、完全に面識ゼロで間違いないはずだ。
となれば、残される選択肢は一つだよな。
「あのー……もしかしてセツナの知り合いの方ですか?」
扉を開き、おずおずと銀髪美人に喋りかけてみた。
この美しさ……セツナの知り合いに違いない。類は友を呼ぶというやつだろう。ていうかそれ以外にこの家に用事があるとは思えない。
「え? 誰それ? 別に違うけど」
かるーく否定された。なんて流暢な日本語……。
しかしセツナの知り合いでもないとすれば、この美人はマジで人ん家でくつろぐ空き巣だということになる。凄まじい胆力……実に見習いたくない。
「私、キミに用があるから来たの」
「えっ!?」
俺かよ!? だとしても不法侵入には変わりないけども!!
「……ど、どこかでお会いしたことありましたっけ」
「ないわね、初対面」
「ですよね」
謎は深まるばかりである。
「ま、座んなさい。この私が話をしに来たのよ?」
ポンポンとソファを叩いて着席を促してくる。一応家主は俺だが……いや、拘泥するのはやめよう。とりあえず只者ではなさそうだ。色々な意味で。
「まずはキミの名前を教えて。表札で名字が月野ってのは分かったんだけど」
「あ、葉瑠です。葉っぱの葉に瑠璃色の瑠で……」
「ふーん、そう。覚えておくわ」
女性は相変わらず軽い口調でふむふむと頷く。なんだか掴み所のない、不思議な人だ。
「あなたは一体……?」
「悪魔よ」
は?
「……あれ、何呆けてるの?」
「えっ、悪魔って、あの悪魔?」
「そう。キミもよく知ってるでしょ、なんたって姉が大悪魔だったんだし」
稲妻のような衝撃が全身に迸る。
俺の姉さんが大悪魔だったことを知っていて、尚且つ「巻き戻し」の影響も受けていない……この女、本当に悪魔かよ……!
しかも、この落ち着き払った振る舞い……どんな悪魔にも必ずあるという殺戮衝動を完璧に抑えている。姉さんと同じく、大悪魔に相当する高位的存在と見て間違いない。
一体何が目的なんだ? 姉さんを……大悪魔ミラという新進気鋭の存在を倒されたことに対する報復とか?
とにかく、この星でまた戦闘が起きることだけは絶対に止めなければ……!
「あらあら怖い顔ね。そう邪険にしないで。悪魔は嫌い?」
「……嫌いとか、好きとかじゃない。そういう問題じゃねーんだよ」
そう言い放ち、銀髪の女を静かに見据えた。
瞬間、ぞくりと肌が粟立つ。
この女の目……悪魔とは思えないほど透き通っていた。美しかった。血に塗れたような濁った色をしていた姉さんの目とは決定的に違う。
まるで恋する乙女のような純粋さを備えた、極限まで澄み切った桃色の瞳。
……これが「本物」か。
「なぁに? 」
ごくりと喉を鳴らす。冷静になれ、臆する必要などどこにもないだろ。あるがまま、俺の本心を言うんだ。たとえ殺されたとしても、それでも俺には譲れないものがあるのだから。
「今、人類が……いや、地上の全ての生物が何事も無かったように日常を送れているのは、俺の大切な人のおかげなんだ。その子が自分自身の存在と引き換えに、この星にもう一度生命をもたらした。俺は、絶対にあの子の行動を無駄にしたくない……でも、アンタに暴れられると、全部それが無駄になってしまう…………頼む、もう帰ってくれ。俺の命くらいならいつでもやるから……だから、他のみんなを殺したりは……」
震えを必死で堪えつつ、あくまでも毅然とした態度で言葉を述べるが、
「……うん、その心意気は見上げたものだけど……ぷぷっ、ふふふふっ、キミ、点で的外れよ?」
え……?
笑いを堪えきれず吹き出す女に、俺はきょとんと目を丸くしてしまう。
「言ったでしょ、私はキミに用があるだけだから。地球なんてもはやどうでもいいし。それなのに早とちりしちゃって……うふふ、カッコ良かったわよ……ぷふっ」
………えっ? ちょっと待って整理させて。
………………はっっっっっず!!!!! やべえよ超恥ずかしい! 早とちりで土下座する寸前だったよ!? うーわ、穴があったら入りたい!!
「………………すんませんでした……的外れで……」
「ま、気にすることないわよ……ぶふっ、顔真っ赤……頭から湯気が出そうね」
この女……。
「さてと。それじゃ今度は早とちりせず、ちゃーんと私の話を聞きなさいね」
ようやく本題に入ってくれるらしい。俺としても、あの失態を無かったことにするためにも早いとこ次の話題に移ってくれるとありがたい。
「まぁ、何のことかは大体察しがついてるわよね。私を見たら分かるでしょ?」
えっ、全然分からん。
とりあえず言われた通り銀髪の女を上から下まで観察してみた。
……むっ、これは。
「どう?」
「エロい」
「ちげーわよバカ。変態」
流石に違ったか。とはいえ他に分かることなんて……ん?
「ちょっと待ってくれ……そこ、金具が付いてないか? ドレスの裾で絶妙に隠れてたからてっきりパンストだと思ってたけど、もしかして……」
「ん? あぁ、ガーターストッキングよこれ」
「ってことはあんた痴女か?」
「はぁ~~~っ!?」
意外にもそういうことを言われ慣れていないのか、銀髪の女は顔を真っ赤にして声を上げた。かと思えば、今度は猛烈な勢いで抗議してくる。
「ちょ、妙な言いがかりはやめてくれる!? ガーターベルトを何だと思ってんのキミは!」
「学校の友達が言ってたぞ。ガーターストッキング、もといガーターベルトを……それも黒を着用してる場合は十中八九痴女だって」
「殺すわよそいつ!」
ぷんすか憤り、おもむろにドレスの裾をたくし上げる銀髪女性。最高級シルクのように白く滑らかな肌が垣間見えてちょっとドキッとした。
「ガーターは別にエロ一辺倒の代物じゃないんだから! 男を誘惑するためだけの物だとでも思ってるわけ!? 使えば分かる、見れば分かるわ! 機能性抜群なのよ!?」
「だ、だからってたくし上げなくても」
「キミが私を痴女扱いするからでしょうに!」
「でも、こうやって見せてくれるあたりやっぱ痴女じゃん」
「分からない人ね!! じゃあいいわよ、機能性の高さをご覧なさいよ! ほらどう!?」
「えっ、ちょっ、何この人! やっぱ痴女じゃん!!」
気でも違えたかのように、一気にババーンと裾を全開にする痴女。そう、この女完全に痴女である。
しかし悲しいかな、俺の視線は釘付けだった。
想像を遥かに超えている……これが本物のガーターベルト……!! 選ばれしガーターベルターの本気ってわけか……!! セクシーさ抜群の黒いパンツと合わさって最強に見える!
「視線がやらしいのよ変態!」
「……」
「なんか言えバカ!」
「言っていいのか? それじゃ言わせてもらっ……!?」
何の脈絡もなく、何故か一瞬にして意識が薄れていく。堪えることもできず、あっさりとソファに倒れ込んでしまった。
「え? あっ、しまった……」
銀髪女の焦った声音を最後に、俺の意識は完全に途切れてしまった。
***
「はっ!」
勢いよく飛び起きる。が、強烈な頭痛に悶絶して再びソファの上に寝転んだ。
「いったぁ……何が起きたんだっけ……」
「ごめんごめん、ちょっとドジっちゃった」
声のする方へ視線を向けると、銀髪女がばつの悪そうな顔で舌を出していた。
「ほんのちょろっとだけ魔力が漏れちゃった。悪かったわね、気絶させて」
「……ちょろっと漏れただけで気絶って……どんだけだよアンタ……」
「褒めてる?」
「褒めてない」
ズキズキと痛む頭を抱えながらなんとか座り直す。深呼吸を何度か繰り返すと、多少はマシになってきた。
「怒ってる?」
「……いいや。俺も悪かったよ。早とちりした恥ずかしさを隠したくて妙なテンションになってたみたいだ。変態みたいな真似させてごめん」
「それは反省してよね、ほんとに。……ま、私も柄にも無く動揺してたからおあいこね」
先程から思っていたが、この女はどうにも悪魔らしくない。まぁ、悪魔には違いないんだろうけど、ともすればまるで人間のようで……あっ、そうか。
「じゃあ気を取り直して本題に入るわよ。私を見て気付くことは何か、と聞いたわね。それは私がエロいだとか痴女だとかじゃなく、キミと同じ地球人の姿をしてるってこと」
俺は静かに頷く。
銀髪女も頷き返しながら話を続けた。
「私はこの地球で生まれ、悪魔への道を歩き始めたのよ。キミの姉がそうだったように」
悪魔というものを姉さん以外見たことがなかったからピンとこなかったが、人の姿をしている悪魔が元人間というのは、確かに真っ先に思い至るべきことだった。
「ある日同僚の悪魔から教えてもらったのよ。元人間の悪魔が凄いスピードで大悪魔になったってね。大悪魔の域に到達した速さだけで言えばこの私と比肩するもんだから、凄いなーと思いつつも、同じ星出身ってことでちょいちょい気に掛けてはいたのよ。元人間の悪魔自体珍しかったしね」
感慨深そうに語る銀髪女に、俺は声をうわずらせながら尋ねてみた。
「……もしかして、姉さんと友情を……?」
「いや、会ったことすらないわ」
「会ったことすら!?」
っつぅ……大声出すと頭痛ぇ……!
「たとえ死の間際でも他人に頼らないのが悪魔よ? 友情なんて生まれるはずもない。気に掛けてたってのは言葉の綾でも何でもなくその通りの意味だからね? 接触したことなんて一度もないわよ」
ふん、と鼻を鳴らしてバッサリ言い捨てる。どうやら姉さんとは友人どころか知り合いですらなかったみたいだ。
「しっかし分からないんだけどさ。姉さんと仲が良かったってわけでもないなら、どうしてわざわざ俺を訪ねてきたんだ?」
「そりゃ単純に好奇心よ。色々噂を聞いて、もう笑っちゃったんだから。どうやら弟のことしか考えてないブラコンっぷりが敗因らしいじゃないの、ミラ」
ニヤリと意味深に笑う銀髪女。馬鹿にしているというよりは、心底愉快で仕方ないという面持ちだった。
「それで、ミラがそんなにご執心だった弟くんは一体どんな人なのかなと気になって来てみたわけよ。まぁただのドスケベヤローだったけど」
「その節は弁解のしようもないけど、アンタも大概だと思う」
「またそーゆうこと言う」
ぷくーと頬を膨らませる銀髪女。なんとも可愛らしいが、いきなりドレスをたくし上げた変態的行動は無かったことにはならない。
あれには本当に度肝を抜かれた……おかげで、さっきからあの光景が頭にチラついてしょうがない。俺がガーターフェチになったらどうしてくれるんだまったく。
「……ああ、でも、そういえば」
ふと、女は神妙な表情を浮かべて呟く。
俺が首を傾げると、なおも表情を変えることなく口を開き、
「キミはただのドスケベヤローじゃなかったわね。とんでもない奇跡を起こしたんだから」
当の俺に全く心当たりがないことを、さも当然のように述べるのだった。
「奇跡……俺が?」
俺なんかとは縁遠い言葉に、首を傾げたまま固まってしまう。
奇跡……俺が起こした奇跡って……?
「あっ、もしかして「巻き戻し」の影響を受けなかったことか? あー、そうだな。それについては確かに奇跡レベルだ。でもそれは、それくらいイヴのことを想ってたということで……」
「ううん、修復に適応出来たのは、それ以前に奇跡を引き起こしたからよ。ねぇ、キミは、どうして記憶を維持できたんだと思う?」
「……何でだろう。深くは考えてなかった」
「そ。まだ自覚もなければ目に見える変化もないってことね。でも、キミは紛れもなく奇跡を引き起こした。きっと世界で唯一無二の存在……」
実にキュートな桃色の瞳をスッと細め、銀髪の女はどこからか水筒を取り出した。
いや、本当に何処から取り出した!? 瞬きの間だぞ!?
「これ、飲んでみて」
そう言って、水筒の中身を注いだカップを差し出してくる。
うわっ、なんじゃこの真っ黒な液体……まさか、ブラックコーヒーじゃないだろうな!? 俺苦いの無理なんだけど!?
「ほら、イッキイッキ!」
「アルハラ……いや、ブコハラ(ブラックコーヒーハラスメントの意)だぞこれは!」
「妙な造語をつくるんじゃねーわよ。ほら早く」
有無を言わさぬ雰囲気を醸し出している。何が何でも飲むまで催促してきそうだ……くっ、分かったよ飲んでやるよ!
カップを手に取り、グイッと一息で呷る。
げっ、超不味い!
「どう? どんな味だった?」
「苦くもなかったし甘くもなかった。ただ超絶不味い」
「そうよねぇ」
うんうんと一人で勝手に納得した様子の銀髪女は、何とも言えない顔で驚くべき言葉を言い放った。
「それ、普通の人間が飲んでも何の味もしないはずなのよね」
……え?
思考が止まった。どう受け止めればいいのか分からなかった。
「ち、ちょっと待ってくれ。その言い方だと、まるで俺が……」
「ミラやクライアに何か言われなかった? これから妙なことになるとか、そういう系の話」
急いであの日の記憶を呼び起こす。無意識のうちに記憶を改竄してしまわないよう、確かな心構えを持って。
「……そうだ。姉さんもクライア様も、これから苦労するだろうけど頑張れ、って……いや、でもあれは別れ際の激励みたいなもんで、別に深い意味は……」
「意味はあるわよ? ミラもクライアもキミの記憶が残ることを知ってたはずだから」
冷たい汗が頬を伝う。
まだ全てを把握したわけではないけれど、とにかく途轍もなく嫌な予感がしてならない。
「俺は……一体、どうなってるんだ……?」
何かが変わっている。その“何か”が分からない。ただただ不気味で仕方がなかった。
「すぐに分かるわよ。本当にすぐ。多分明日には目醒めてると思う。わざわざここで言うまでもないって感じ」
吸い込まれてしまいそうな桃色の瞳としばし無言で見つめ合う。とてもデタラメを言っているようには思えない。
「……一つ聞かせて欲しい。俺の起こした奇跡は…………今、俺の身に起こっていることは、プラスか? マイナスか?」
「キミにとってってこと? それは……まぁ、今日キミと話してみたうえで、率直に言わせてもらうけど……たぶん、キミは喜ばないと思う」
「……そっか。ありがとう、言ってくれて」
ぺこりと軽く頭を下げると、銀髪の女は信じられないものでも見たかのように目を見開いた。
「変な人ね、キミって。どうして御礼なんか言うの?」
「そりゃ、それを聞いてるか聞いてないかで全然違うだろ、心の持ちようとかさ。だからだよ」
すると女は、クスクスと笑いを堪えるように唇を抑えた。何がそんなに面白いのだろうか。
「うふふ! いや、ごめんごめん。ありがとう、なんて言われたのは本当に久しぶりだったから。ついついね」
それを聞いて俺はちょっと安心した。何かまたとんでもない現実を突き付けられたりするのではないかと身構えていたのだ。
それにしても、悪魔ってのは孤独というか孤高というか……そんなんでよく平気で居られるよな。
若手扱いの姉さんが一千歳越えとかいうとんでもない界隈だし、目の前の女も長年孤独に苛まれていたりするのだろうか……。
「なぁ、アンタは……」
「あ、シャルミヌート」
「えっ?」
突然謎の言葉を放った女に、俺はぽかんと口を開けた。
シャルミヌート……? なんだそれ? なんかの合言葉?
「私の名前。シャルミヌートっていうの」
「あ……あぁ、名前か。珍しい名前だな」
「まぁね、本名じゃなくて悪魔名だから。キミの姉も本名はミラじゃないでしょ?」
「それもそうだった」
「でしょ? ま、私のことはミヌートでいいわ。特別に省略して呼ぶことを許してあげる」
そう言って、銀髪の女──ミヌートはにっこりと微笑む。
その笑顔は、凄まじく可憐で。あまりにも可憐過ぎて。
あぁ、本当に綺麗な女性なんだなぁと、もはや小学生みたいな感想しか出てこないほどだった。これでとんでもない力を持った大悪魔だというのだから、世の中は全くもって恐ろしいと思う。
とはいえ、ミヌートが親しみやすい雰囲気をしているのは紛れも無い事実だ。実は悪魔じゃないと白状されればうっかり信じてしまうくらいに。
「俺、ミヌートとは仲良くなれる気がする」
「うわいきなり口説きに来ないでよ」
「そういうのじゃねーよ、友情だよ友情。そもそも俺には心に決めた人が居てだな……」
「でもその子とはもう会えないんでしょ?」
唐突且つあんまりにもストレート過ぎる質問に、俺は一瞬胸が詰まりそうになった。
「……ああ。それでも関係ない」
「健気なのね、キミって。仮にも男子高校生なら、ちゃちゃっと新しい恋でも始めた方が健全だと思うけど」
「いいんだって。もう決めてるんだ」
「そう。つくづく健気な男ね」
呆れた面持ちのミヌートだが、俺自身自らを健気などとは微塵も感じていない。
イヴは本気で俺のことを愛してくれていた。俺も彼女を愛していたし、今でも愛している。それだけの単純な話なんだ。
ミヌートは居心地悪そうに咳払いし、「そろそろ本題に戻るけど」と告げて座り直した。
「ま、友情だろうと愛情だろうと、私に対してそういうのは、普通に無理よ。私、悪魔だもん」
「悪魔とか関係なく、一個人として仲良く出来そうだと思っただけだよ」
「そりゃご立派だこと」
皮肉めいた物言いで俺の言葉を適当に受け流すと、ググーッと大きく背伸びする。
「さて、と。あー、誰かとこんなに話したのは久しぶりだわ。それじゃ私、そろそろ帰るからね」
「あぁ、なんか色々悪かったな」
「ホントよ全くもう。ま、今日のところは良しとしてあげましょう……っと、あと一つ言うことがあったんだった。私がここに来たこと、他言はしない方がいいと思うわよ?」
振り向きざまに、まるで天使のような笑顔を浮かべて悪魔が告げた。
「向かって来るものは容赦無く殺さなきゃならないから。私にも面子ってもんがあるから……ね?」
先程まで軽口を叩き合っていたとは思えないほどの威圧感が、俺の全身に叩き付けられた。俺と彼女の「格」を本能で思い知らされる。
当然だ、彼女は大悪魔なのだ。その気になれば、俺なんか指先一つで殺せてしまうほど他愛のない存在なのだろう。
「……それじゃ、行くから」
しなやかな所作でソファを立ち上がり、扉まで歩いて行くミヌート。俺の体は未だに硬直したままだった。
だけど、それでも。
今、このまま何も言わずに彼女を見送るのは、なんか嫌だった。それがどういう感情なのか、あまりに漠然としていて自分でもよく分からない。
だが、今必要なのは理由ではなく行動だということだけは分かる。理由なんて後からいくらでも考えればいいのだから。
「アンタと話すの、楽しかった。また来てくれ、ミヌート」
既に背を向けていたミヌートがピタリと足を止めた。
ちらりと俺の方を窺い、そのまましばらく沈黙が続く。
「……ふ」
長く、しかし不思議と緊張感の無い沈黙がようやく破られる。
ミヌートは、微かに口元を綻ばせていた。
「ま、気が向いたらね。私、基本的に暇だから」
「やっぱな。そうだと思った」
「ふふっ……うるせーわよ、馬鹿」
ミヌートはそう言って背を向け、片手をひらひらと振りながら部屋を後にした。
「…………ふぅ」
シーン、と部屋が静まり返る。さっきまであんなに騒がしかったのに。
「……一人と二人。たったそれだけでこんなに変わるんだよな」
少しだけ、あの静寂に支配されていた世界を思い出す。あの時の孤独を思い出すと今でも寒気がする。
「ひとりぼっちは、キツイよなぁ…」
ポツリと、心の奥から漏れた感情を口にする。
この世の誰もが。
少なくとも俺にとっては、死よりも辛いことで。
それが本当に平気な奴なんて、きっとどこにも居ないのだと。




