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世界の片隅より愛をこめて

 息が止まった。これまでになく背筋が凍りつく。


「ま、待ってください。クライア様、どういうことですか。ちゃんと一から説明してください」

「説明が要るようには見えんぞ、ハル。もう気付いているのだろう」

「……っ、違います! 俺の予想なんて当たるわけがないでしょう!! こんな、馬鹿げた予想が……!!」

「……まぁ良い、では話す。この目でイヴを見た瞬間気付いたのだ。地球の生命はまだ間に合う、とな。そこのイヴという女……人ではないな?」

「人です! イヴは人ですよ!」

「今はな。だがその前は違うだろう」


 思わず唇を噛み締めた。

 このやり取りは、先刻に俺とイヴが交わしたものと全く同じだったからだ。


「イヴは元より人ではなく、人にしてもらった何か……つまりは莫大な犠牲を払わなければ人になれないほど微弱な存在だったということだ」


 スラスラと真実を言い当てられる状況に、徐々に首を絞められているような錯覚を覚える。クライア様の自己再生によるものと思われる静電気染みた音が、やけに五月蝿い。耳障りでしょうがない。


「景観を保ったまま一夜にして全滅というのはいくら何でもおかしいと思ったが……やはりそうだ。ミラは直接殺しまくったわけではなく、何らかの儀式によって生物を魂だけの状態にし、それをイヴだった「何か」に注ぎ込んで人に変えたのだ。そして……イヴの中の魂はまだ完全に定着し切っていない。おそらく完全に定着するまであと数時間……それが過ぎれば地球の生命は本当に終わる。もはや一刻の猶予もないのだ……分かるな?」


「肝心なところが分かってないでしょう。あなたにイヴを渡せば、彼女はどうなるんですか」


「余の持つ管轄者権限を駆使し、イヴの中にある膨大な生命の力と、凄まじい完成度の容れ物であるイヴ自身を使()()()一週間前の地球に巻き戻す。言っておくが、死にはしない。元ある姿に戻るだけだ。しかし……まぁ、「巻き戻し」に必要なのは()()()()だ。戻った後は記憶も心も無くなる……とはいえ、これほど大規模な儀式だったのだから、イヴは元々心さえ無い物体だったのだろう?」


「何言ってんだ!! イヴは正真正銘生まれた時から心があった!! そのイヴから心が無くなるって!? そんなの、死ぬのと何が違うってんだよ!!」


 感情を剥き出しにして偉大なる女神を怒鳴りつけた。もうなりふり構っていられない、このままだと間違いなくイヴは消される!


「本当にイヴが必要なのか!? その管轄者権限ってのを使えば、イヴが居なくとも世界は巻き戻せるんじゃないのか!?」

「はぁ……みっともない駄々をこねるな。良いか、「巻き戻し」はイヴありきの方法だ。余だけでは、建物は戻せても生命までは戻せん。溢れんばかりの生命を宿す()を使う以外に道はない」

「さっきから使う使うって……イヴは物じゃない、人間だ!」

「話を逸らすな。あまり余を困らせるんじゃない……そんなにイヴが大切か?」

「当たり前だ!」

「では他の命を消滅させてもいいということだな?」


 あ。

 止まった。この空白はマズイ、一気に畳み掛けられる。

 何か言わなくては……何か……。



 ………………何を?



「全ての人類。全ての動物。罪もない命が消されたまま、何食わぬ顔で生きていけるのだと。さっきからお主が喚き散らしているのはそういうことだ」


 これまでの人生で一度も経験したことがないほど動悸がする。今、自分がどんな表情をしているのかさえおぼつかない。


 あぁ、分かってる。本当は分かってる。

 クライア様は決して悪者ではないし間違ったことを言っているわけでもない。地球の女神として至極真っ当なことをしようとしているだけなのだ。


 明日が来れば結婚式を挙げる夫婦もいただろう。

 明日が来ればこの世に生まれる子供もいただろう。

 明日へ向かって輝かしい努力を重ねてきた人達もいただろう。


 その全ては一瞬にして潰えた。


 地球に暮らしていたみんなは、消されたことにさえ気付けないまま肉体を滅ぼされ、魂を抜き取られた。これ以上無いほどの圧倒的理不尽と言っていい。ただ必死に生きていただけでこんな仕打ちを受けた彼らを完全なる被害者と呼ばずして何と呼ぼう。

 そんな彼らの存在を無かったことにしようなど、馬鹿げている。彼らがこのまま終わって良いはずがない。


 だけど、イヴは? 

 イヴはどうすればいいんだ?


 ようやく……なんだ。

 イヴの人生は、ようやくこれから始まるところだったのに……。


 花として生まれながら、心を持っていて。

 それ故に孤独と無力感に苛まれ、世界を恨んでさえいたこの子が、今……ようやく歩けるようになったんだ!! ようやく話せるようになったんだ!! ようやく……光を見つけたんだよ……!!


 それなのに……それなのに!!

 どうして、世界は!!!!


「考え過ぎるな、ハルよ。これは非常にシンプルな話だ」


 この子は死なせたくない、絶対に死なせたくない!

 でも、この子を助けるためにはみんなを犠牲にしなければならない……逆に、この子を犠牲にしなければみんなは帰ってこない……。


「……矮小わいしょうな命一つと、地球の全生物。天秤にかける必要があるのか?」

「……矮小だろうがなんだろうが、あるに決まってる……あるに決まってるからこそ……俺は……!」




「葉瑠さん」




 泣きそうになるほど優しい声で、俺の名を呼ぶ少女がいた。

 浅く呼吸を繰り返しながら振り返ると、汗でびっしょりした俺の手をやんわりと握り締めて微笑むイヴの姿があった。


「もう、なんて顔してるんですか。ハンサムが台無しです」


 可憐という表現がぴったりの笑顔を咲かせて、俺の頬を細い指先でそっと撫でる。

 ああ……温かい。人だ。もう、この子は紛れもなく人なんだ……それなのに……。

 イヴはにこやかな表情を崩さないまま、宙に浮かぶクライア様へ視線を向けた。



「女神様。私、葉瑠さんにお茶をご馳走したいんです。お時間、頂けますか?」



 ……イヴ?


 クライア様は一瞬目を見開くと、何かを悟ったかのように、慈愛に満ちた眼差しでイヴを見つめた。


「ミラの濃すぎる魔力攻撃を喰らったこの両腕は、もはや再生不可能……よって義手を取り付けなければならん。あとはセツナの状態を確認したり……まぁ、色々と野暮用がある。一旦神域に戻るとしよう。その間二時間程度だが、好きにすると良い」


 そう言ってセツナを見やり、彼女の体をふわりと浮かばせ、何やらブツブツと唱え始めた。すると空間に「穴」が出現し、そのままセツナを連れてその中へ飛び込む。


 残されたのは、俺とイヴ。

 正真正銘、ふたりぼっちの人類。


 あの局面から、クライア様がこうもあっさり引き下がるなんて……それじゃあ……イヴは、もう……。


「さて、それでは行きましょっか。教会までひとっ飛びしちゃいましょう」


 どうしてだよ……イヴ。

 どうしてお前は、この状況で、そんな風に笑っていられるんだよ……。




        ***




「あぁ……やっと、葉瑠さんにお茶をご馳走することが出来ましたね」


 イヴは、にっこりと満面の笑みを浮かべてそう言った。


「どうですか、お味の方は」

「……あぁ、本当に……美味しい」


 手の震えを必死に抑え、俺はそっとティーカップを置いた。本当は味なんて全然分からなかった。


 オレンジ色の夕焼けに染められたこの場所は、教会内のイヴの部屋。ここにあるのは、やたらと高級なベッドと椅子、そしてテーブルだけ。それ以外は何もない。

 最初に足を踏み入れた時は、あまりの殺風景さに言葉が出てこなかった。イヴが人になって、まだ一週間も経っていないという事実にどうしようもなく震えた。

 生きていれば、これからも……この殺風景な部屋も、女の子らしく彩られるかもしれなかったんだ……。


「もう、あまり暗い顔をしないでください。せっかく待ちに待った葉瑠さんとのお茶なのに」

「あ、ああ……ごめん」


 眩い夕陽に照らされ、幼い子供のように頬を膨らませる彼女に、不思議と悲壮感のようなものは感じられなかった。


「葉瑠さん。私はね、元々こうなると分かっていてミラ様を手にかけたんですよ?」

「……え?」


 カップに伏せていた目を向け、イヴの顔を窺う。相変わらず、綺麗な笑みをたたえていた。


「ミラ様に敵意を抱いた瞬間、私の頭の中で真実が湧き上がってきました。その道を選べば私はきっと終わる、私はまだ調整中だ、ミラ様が居なくなったら誰も『それ』を止められない……頭の中で、そういった色々な言葉が強制的に聴こえてきたんです。たぶんミラ様は、私が謀反する可能性を想定して、人にする時に仕組んでいたんでしょうね。私が考え直すための警告として」


「……その事実を知りながら、それでもイヴは剣を取ったのか」

「はい、そうですよ」


 イヴは猫舌なのか、そこまで熱くもない紅茶に何度も息を吹きかけて飲んでいる。

 きっと、まだ俺が知らない一面をこの子は沢山持っていて……それを全部知る時間は、もう……。


「イヴは……どうして、笑っていられるんだよ。もしも俺が同じ立場なら……自らの生まれた意味を知って、念願を叶えられると知っていながらこんな状況になったら……きっと、そんな風には笑えないよ……」

「葉瑠さん。私、今日、分かったことがあるんです。私は、私が思っていた以上に、あなたのことを想っているのだと」


 仄かに頬を染めながら告げてきたイヴに対し、俺は困惑気味に首を傾げることしか出来なかった。


「うふふっ、簡単なことですよ。私はね、ただ、単純に……あなたの悲しい顔が見たくなかっただけなんです」


 全てを見透かすような瞳が、ジッと俺の目を覗き込んでくる。

 おびただしいほどの生命の光に満ち溢れた、真摯な眼差しが。


「あなたがもしも私を選んだとします。魔が差して、星の命よりもこの私を選んでしまったとして。あなたが選択を誤れば、正直言って私は喜びます。そりゃあもう飛び上がって喜びますとも。だって葉瑠さんが私と生涯添い遂げるということですから! ……しかしそれでは駄目なんです。理由は、あなたが一番分かっていますよね?」


 イヴは問い質そうとしているわけではない。ただ、ひたすらに穏やかな口調。だからこそ、その声は俺の心の芯まで届く。



「……………………ああ。俺は、絶対に、みんなの命を消したという事実に耐えられない。耐えられるわけがない」



 ありのままの心情を伝える。

 目の前の少女は美しい髪を揺らして大きく頷いた。


「あなたは、葉瑠さんだから。決して彼らから目を背けることなど出来ないから。仮にあなたがそんな選択をしたところで、私達は絶対に幸せになんてなれない。二人きりの世界で、私の顔を見るたびにあなたは傷付くことになるんですもの」


 それをこうして口にすることが、彼女にとってどれほど辛い事か想像もつかない。だって彼女は、俺という人間に、自身の生まれた意味さえ見出していたんだから。


「でも、だからと言って即決することなんて出来ないくらいに……俺は、イヴを死なせたくない……」


 本心だった。本当に都合が良い考えだとは思うが、やっぱり俺はイヴに死んでほしくない。たとえ不可能だとしても、この気持ちだけは捻じ曲げられない。


「…………その気持ちだけでも、充分です。本当に、本当に……」


 イヴは、屈託のない笑みを浮かべてコクコクと頷く。


「だって、考えてもみてください。口も利けない小さな花だった私が、こうして葉瑠さんと会話をして、一緒にお茶を飲んで、そして……あなたが泣きそうな顔で、私との別れを惜しんでくれているんだもの。こんなに嬉しいことはありません」


 目頭が熱くなる。悔しくて、悲しくて、もうどうにもならない。

 下唇を噛み締めて必死に涙を堪えようとしても、もはや我慢できるはずもなかった。きつく握り締めた拳に、ぽたぽたと涙が落ちていく。


 その手を、確かな命の温かさを持ったイヴの手の平が包み込む。

 そして、こつん、と。

 おでこをくっつけて、唄うように囁いた。


「ありがとう、私なんかのために泣いてくれて」

「……イ、ヴ」

「けれど、葉瑠さんはこれから、またいつもの日常に戻るんですから。だから……ね? 私の事なんて忘れて、笑顔でいてください。私、あなたの笑顔が大好きなんですから。だから、もう……私なんかのために泣くのは……これが最後ですよ?」

「……勝手なこと言うな。イヴのことを忘れたりなんか……」

「いいえ、あなたは私を忘れます。だって、あなたの記憶も巻き戻されますから」


 にこやかな表情のまま。

 おでこをくっつけ合ったまま。

 イヴの頬を、音もなく涙が伝って落ちた。


「……何、言ってんだよ。クライア様は、そんなこと一言も……」

「どうせ忘れるのに、わざわざ言わないでしょう?」


 心臓が止まりそうになった。

 もし……もしも本当に記憶まで巻き戻されるのなら、この星において、一体誰がこの子の存在を思い出してあげられるんだ? 

 この子は……イヴは確かにこの星で生きていたんだという証明を、一体誰が……?


「……ミラ様が私に埋め込んでいた情報によると。神様の「巻き戻し」というのは、何も時間を操ってしまうわけではないようです。星全体を一律に修復し、一週間前の状態を再現することで、あたかも時間が巻き戻ったかのように辻褄を合わせるんです。しかし、建物や生物の肉体は修復出来ても、魂までは戻せないらしくて。そこで私の中の魂をからの肉体に宿らせ、ほぼ完璧な再現へと至る、というわけです……」


「でっ、でも! 俺の肉体は消されたわけじゃないし、魂だってここにある! 俺まで巻き戻す必要はないはずだろ!」

「あなただけを除外するには圧倒的に時間も輝力も足りないんです。ミラ様でさえ儀式に数日掛けたそうですから、女神様が即興でそんな器用な真似をすることは……不可能、です……」


 途方もない虚脱感が体を支配していく。

 姉さんのこと、セツナのこと、イヴのこと。

 俺は全部忘れ去って何も知らないまま、笑って生きていくってことかよ。それじゃ俺は、本当にただの馬鹿みたいだ……そんな結末、絶対に馬鹿げている……。


 ……ああ、そうだ。そんな結末は嫌だ。この子を無かったことになんか絶対にさせない。

 イヴは生きていた……確かに人として生きていたんだよ。

 それならば。

 この子が生きていたことを証明できるのが俺だけならば、選択肢なんて一つしかないんだ。



「俺は、忘れない」



「……え?」

「絶対に忘れないよ、イヴのことを。たとえ世界が巻き戻ったとしても、俺はお前を忘れない」


 神の権能に抗うなど、無謀もいい所だろう。普通なら不可能に決まっている。だが不思議と、俺は何の迷いもなくその言葉を告げることができた。

 俺がイヴやセツナのことを忘れるはずがない。特に根拠はないが、だからと言って切り捨ててしまえるほどいい加減な気持ちでもない。どこか確信めいた自信で心が満ち溢れていた。

 イヴは、今の俺の言葉をどう捉えるだろうか。同情からくる戯言と思うだろうか? 現実を直視できていない妄言だと思うだろうか?


 ……ははっ、いいや、どちらでもなかったみたいだ。




「はいっ、葉瑠さん!」




 一切の疑いを持たない、全幅の信頼を寄せた笑顔で。

 孤独の影など微塵も感じさせない温かな涙を流しながら、イヴは美しく微笑んでいたんだ。


 この笑顔に応えよう。

 この信頼に応えよう。


 そのためなら、きっと何だって出来るはずだ。


「じゃあ、葉瑠さん。最後に一つだけ……お願いしてもいいですか?」

「もちろん。どうした?」


 唇を開き、けれどすぐに躊躇して。それでも意を決したように、イヴは大きく息を吸い込んだ。


「…………何もかも巻き戻されたこの星で……私はただの花となって、元々居た場所に生えていると思います。もう、私は葉瑠さんのことが分からないでしょうけれど……葉瑠さんの姿を認識することさえ出来ないでしょうけれど……」


 イヴは止めどなく溢れる涙を必死に拭いながら、最後の願いを絞り出す。





「どうか……私を見つけてくれませんか……? そして、どうか、もう一度……水をやって……くれませんか……?」





「……っ、ああ、必ず」


 大きく頷き、力強く答えた。俺の顔も涙でくしゃくしゃになっていた。


「えへへ、ホッとしました。ありがとう……葉瑠さん……」


 その時、荘厳な鐘の音が教会中に響き渡った。


「……時間、みたいですね」


 クライア様から与えられた猶予が無くなったことを知らせる鐘だった。あと数分もしないうちにクライア様は神域から舞い戻り、全てを再生するのだろう。


「……あ、葉瑠さん。私ね、そういえば、あなたに一度も言えていないことがあるんです」

「ん?」

「葉瑠さんが好きです」


 時間が止まったのかと思うほどに。

 それはもう自然に、俺は告白された。


「葉瑠さんを愛しています。この世の誰よりも。この世の何よりも。私、あなたのことを愛しているんです」


 呼吸が出来なくなるくらい、真っ直ぐ過ぎる告白。

 あまりに純粋で、あまりに刹那的。

 それ故に、どこか切ない。


「俺もだよ。俺も、イヴのことが好きだ」


 そんなイヴに影響されてか、俺もごく自然と彼女への言葉が出てきた。

 俺にとっては、生まれて初めての愛の告白だった。


 イヴは感慨深そうに、ほぅ、と熱っぽい吐息を漏らして、艶やかに微笑む。




「うふふっ……ふふふ……あぁ……私、本当に、生まれてきて良かった……」




 そして。

 両手でそっと、俺の頬を包み込んで。

 二人にとって最初で最後の、世界で一番優しい口づけを交わした。


 世界の誰からも祝福されず。

 世界の誰からも認知すらされない。


 それでも、決して不幸なんかじゃなかったのだと。自分の生涯に意味はあったのだと。彼女は口づけを通じて、俺にその想いを示してくれたんだ。


 この美しい夕陽に誓おう。

 俺だけは、この子のことを絶対に忘れない。俺を愛してくれたイヴという存在が居たことを、何があっても憶えている。



「ありがとう、あなたに出会えて良かった」

「いいや、こちらこそ」



 どちらからともなく手を繋ぐ。この柔らかな感触も、これで最後だ。


「行きましょう。もう……来ているみたいですから」

「ああ、行こうか」


 そして俺達は、ズラリと並ぶ会衆席と巨大なパイプオルガンが備えられた始まりの場所へと足を踏み入れる。

 オルガンの目の前では、武骨な義手を取り付けたクライア様と、顔面蒼白のセツナが佇んでいた。


「ハ、ハル……ま、巻き戻しの話、あなた、納得してるの……?」


 視力は大分回復したらしく、以前のようなダイヤモンドの如き輝きを放つ瞳を揺らめかせてセツナが尋ねてくる。


「うん。だけど忘れるつもりはさらさらない。セツナのことも、イヴのこともな」

「……そう」


 セツナは深く俯き、ぼそりと呟いた。そんな奇跡は起こるはずがないのだと、そう言いたい気持ちを堪えているようだった。


「さぁ、本当にもう時間が無い。ハル、イヴをこちらに」


 クライア様が早口で催促してくる。だが言葉とは裏腹に、表情は慈愛に満ち溢れていた。

 クライア様なりに、イヴという一つの命に敬意を払っているのだろう。


 イヴがおもむろに俺の手を離し、一歩ずつ前に進んでいく。

 手にはまだ、彼女の温もりが残っていた。



「イヴ」



 少女の名を呼ぶ。

 奇跡さえ脅かすほどの美しさを誇る少女は、緩慢に、名残惜しそうに、こちらへ振り返った。



「さよならは、言わない」


「……はい」


「またな、イヴ」


「……はいっ!」



 最後の最後に、イヴは最高に眩しい笑顔で微笑んでくれた。そして今度は振り返ることなく、クライア様の元へ確かな足取りで歩み寄っていく。



 涙は流さない。今はただ、あの少女の背中をこの目に焼き付けて──。



「……『イヴ』。最後に聞かせてもらおう。お主は、何者だった?」


「私は、かつて花でした。心を持っていただけの、ちっぽけな花。身動きもできなかったし、喋ることも出来なかった……本当に、取るに足らない小さな存在でした。この世に夢も希望も見出せずにいたけれど……こんな私に手を差し伸べ、認め、受け入れ、好きだと言ってくれる人に出会えたんです。だから本当に私は……生まれてきて良かったと……幸せな生涯だったと……心から、申し上げることが出来ます」


 そうして、イヴは一歩前へ進み出る。

 それは、きっと、彼女の人生において最後の歩みとなるだろう。


 クライア様はイヴの意図を汲み取り、大きく頷いた。


「お主の判断に敬意を表する。お主の存在は、我が惑星の誇りであろう。それでは……さらばだ。清廉なる一輪の花よ」


 ゴツゴツとした義手をイヴの胸元に押し当て、呪文のようなものを唱え始めると、イヴの身体が淡い光に包まれた。そして、あっという間に肉体は綻び、巨大な光の塊となって宙に浮かぶ。


 思わず目を逸らしそうになるが、歯を食い縛ってその光を直視し続けた。

 イヴの覚悟……この目で見届けるんだ……。


「ハル。心の準備は良いな? これより地球は一週間前の状態から始まる」

「……はい」

「色々と苦労もあるとは思うが……お主ならば乗り越えられよう」


 クライア様は視線を光の塊へと移し、静かに瞼を閉じた。





「始まりの、その前へ。この星は、再び動き出す……」





 瞬間、爆発的な光が視界を塗り潰し──



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