【行間 四】 祝祭
思考が透き通っている気がする。長年頭の中を覆っていた靄が、少しだけ晴れたような。
「それは君が進化したからさ」
ハッと顔を上げた。目の前には、私とは明らかに次元の違う存在が立っている。それなのに今この瞬間まで気付かなかったという事実に戦慄を覚えた。
「おめでとう、君は晴れて大悪魔になったんだ。僕は『ドゥーム』の……まぁ君の先輩みたいなものだね。具合はどうだい」
「……よくない」
「そうだろうとも。力が急激に増しているからね、その反動だよ。それよりも、まだ記憶はあるのかい?」
私は耳を疑った。
断片的とはいえ、人だった頃の記憶があることなど私しか知らないはず。なんだこの悪魔は、本当に得体が知れない……。
「ふむ、反応を見る限り、全部とまではいかなくても多少は記憶を保持しているようだ。いや、素晴らしい。大悪魔になってもそれほど記憶を保持している事例は非常に珍しいんだよ。君は僕たちと同じステージに上がれるだけの素質がある。このまま君の成長を見守りたい所ではある……が、君には先にやるべきことがあるようだね」
そうだ、その通り。この悪魔と同じステージに立つことなんざ死ぬほどどうでもいい。私は私の目的を達成する。
可愛い可愛いたった一人の家族を……葉瑠くんを幸せにする。
そうだ、私はそのために今日まで歩き続けてきた。
そのためだけに、ずっと。
「君の目的地は……いや、君は元人間だったか。ならば聞くまでもないね。今から地球に行くのかい?」
「そのつもりだ。ようやくまともに口が利けるようになったことだし」
「悪いことは言わない、今はやめておいた方が良い」
「なぜ? 私は一刻も早く……」
「地球の女神クライアは強いよ。大悪魔に成り立ての君ではまず勝てない」
私が反論しようと口を開く前に、謎の悪魔は首を横に振って背を向けた。
「せめてクライアには勝てるよう、力を高めておくことだ。何、君ならそう時間はかからない。それでは僕は失礼するよ」
「待て、お前は一体……」
「それは君が僕達と同等になれた時のお楽しみだ」
瞬きの間に、謎の悪魔は消えた。
一人残された私は静かに思考を張り巡らせる。あの悪魔の言う通りにするのは癪だけど、もしも目的を果たす前にその女神に負ければ今までの苦労が水の泡だ。
絶対に負けないと確信できるほどの強さが必要、か……。
***
とん、と大地を踏みしめて空を仰ぐ。憎らしいほど蒼い空の中、小さな鳥が群れを成して羽ばたいていた。昔散々見たはずの空なのに、どこか新鮮に感じる。
さてと、まず私がすべきことは……。
──ん? 今、何か聞こえた?
辺りを見回す。
声……だとは思う。確信が持てないのは、人でもなければ動物でもない、この星で一度たりとも聞いたことが無い異質さを感じたからだ。
耳を澄ませばやはり聞こえてくる。誘われるように、声の方向へ忍び足で歩いて行く。
『うーん、どうすればまた会えるんでしょう。うーん……』
唖然としてしまった。
悪魔になっておよそ千年、得体の知れない化け物を何度も目にしたけど……今ほど驚いたことはない。
あれは……どう見ても花だ。
人間や他の動物とも異なる『声』を花が発しているとなれば驚くのも当然というものだろう。
花が意思を持っている? そんなことがあり得るの?
少し意識を集中させてみるが、別にあの花からは魔力も輝力も感じない。正真正銘ただの花なのだ。
吸い寄せられるように、自然と花の方へ歩み寄っていた。理由は分からないが、あの花の何かが私を惹きつけてやまない。
「お前……花のクセに心があるのか」
『……え? え? わ、私に話しかけてるんですか?』
「お前以外の花に話しかけるほどメルヘンじゃないんだが」
『えっ、だっ、なっ、私っ、花ですよ?』
「さっきかからそう言ってる。動揺し過ぎだ」
思わず吹き出しそうになった。この花、どうにも空気を和らげることに長けているようだ。花のクセに……いや、花だからこそ?
『私、誰かとお話しするの、初めてなんですよ。凄いですねぇー、こんな感じなんですねぇー』
「お前、生まれた時から意識があったのか」
『たぶん……? 自分ではよく分かりませんけれど』
悪魔と化して雪のように白くなった髪の毛をくるくると指で弄りながら、私は内心度肝を抜かれていた。
この花は……正真正銘、奇跡の産物だ……!
『あの、突然すみません! 私、どうしても誰かに話したいことがあるんです! やっと会話できる相手が見つかって、嬉しくって……よろしいですか!?』
「ん、ああ。とりあえず聞くだけ聞いてやってもいいが」
上の空気味にそう返すと、小さな花はひそひそと囁くように喋り出した。別にデカい声を出しても私以外には聞こえないのに……まぁ指摘するだけ野暮か。
『私、好きな人が出来たんです』
は? マジで?
「確認するが……人、なんだな?」
『はい、人です。くせのある黒髪で、綺麗で深い蒼色の瞳をしてて』
黒髪で、蒼い目……それってまるで……。
『葉瑠さんっていう名前なんです!』
嬉々とした声音から放たれた名前に、今度こそ、私は言葉を失った。
『えと、私が寒くて暗くて死にそうになっていた時に、葉瑠さんが……』
目を見開いたまま立ち尽くす私を余所に、花は熱心な口調で語り出した。
しばらく話を聞いていると、どうやら花と葉瑠くんはごく僅かな触れ合いしかしていないことが分かった。にもかかわらずとてもそうとは思えないほど熱く語る花に、私はいつの間にか口元を緩めていることに気付く。
「その男の子、私の弟だ」
息をするように。
まばたきをするように。
驚くほど自然に、唇が動いていた。
『おとう……と? えっ……えええぇぇぇっ!? あなたは、葉瑠さんのお姉さん!?』
「ああ、そうだ」
笑っていた。私は、その時確かに笑っていたんだ。最後に笑ったのがいつか、もう思い出すことさえ出来なかった私が。
葉瑠くんがいるという事以外に何の価値もないこの星で、奇跡的に心を持って生まれた花。
その花と出会い、救い、好意を抱かれた葉瑠くん。
そして、葉瑠くんを好きになった花と出会った私。
これはもう、運命だ。
奇跡さえ超越した究極の事象だ。
この広い世界の中で、この花と葉瑠くんは間違いなく出会うべくして出会った。これを運命と呼ばずして何と呼ぼう。
「お前は私の弟とどうなりたい?」
『お嫁さんになりたいです!』
食い気味にそう答えた花に、私は満足気な顔で頷いた。
「ああ、いいだろう」
『えっ、いいんですか!? なんか軽くないですか!? 私ほんとの本当になりたいんですけど!』
興奮気味にまくし立てた花は、しかしすぐにしょんぼりと落ち込んでしまった。
『でも、無理ですよ……私、花ですから』
「ああ、私は姉として、弟の幸せを本気で願っている。故にこそ、弟の嫁は人間じゃなければ駄目だ」
『えぇ……酷いですよ、期待させるだけさせておいて……冗談抜きで傷付きましたよ……』
枯れてしまいそうなほど目に見えて落ち込み始める。私はあえて表情を変えることなく滔々と告げた。
「ならお前が人間になればいいんだ。そうすれば何も問題はないだろう」
花だから当然表情は分からないが、明らかにぽかんとしている気配がする。
『ひ、人に……? そ、そんな奇跡みたいな……』
「なれるとも。私の名はミラ。偉大なる…………魔法使い、だからな」
我ながら苦しい方便だとは思った。でもまぁ真実を伝えるのは色々面倒だし、何より知らせる必要がない。この花には葉瑠くんの事だけを考えさせるべきだ。
「お前を人間にする方法は、間違いなくある。そして私なら一〇〇パーセント成功する。あとはお前の選択次第だ」
『も、もちろん、それが本当ならぜひお願いしたいんですが……何か条件が?』
「代償を支払わなくてはならない」
人差し指を立て、一息で告げた。
「私の力だけでは、花を人にするのは無理だ。そもそも生命の理を捻じ曲げること自体が非常に難しいうえに、植物と人間ではあまりにも構造がかけ離れ過ぎているからな。故に莫大な代償を支払って力を上乗せしなければ成功することはない……分かるな?」
『……やはり、無理があります。私、見ての通りその奇跡に値する代償を何も持ち得ていませんもの』
「そんなことは分かってる。別にお前に代償を支払えとは言ってないだろう。代償は私の方で用意するから問題ない」
『えっ!? それじゃ私タダでなれるってことになりますよ!?』
「……いいか、お前が気にするのは代償云々じゃない。そんなことは捨て置け」
きっぱりと言い切り、花の前でしゃがみ込んで。
私は、静かに言葉を紡いだ。
「お前は私の代わりに、弟を必ず幸せにしろ。必ずだ。命が尽き果てるその時まで、全身全霊をもってあの子に尽くすんだ。この言葉を守れなければ……お前を人間にする気はない」
花は全く動じず、一瞬だけきょとんとし、すぐに穏やかな声でこう答えた。
『言われずともそのつもりですよ。私は葉瑠さんのために生まれてきたんですから。葉瑠さんに生涯を捧げることは私の中で決定事項です』
「よし、ならいい」
私もそれ以上の確認はしなかった。必要がないと思った。この花ならばそう言うだろうと確信していたのかもしれない。
「さて、それじゃお前を人間にするが……そのための儀式の準備に数日かかるから、まぁ辛抱しろ。それともう一つ」
『はい?』
「名前が無いと人になった時に困る。私の弟がどう呼べばいいか困ってしまうだろうから、その前にちゃんと考えておけよ」
『名前……、では、あなた様に決めていただきたいです』
「何? 私が?」
『はい、ぜひ』
少し戸惑った。
私が名付け親……なんか変な感じだ。そういうのとは全く縁がなかった。
「そう……だな……うん……じゃあ、『イヴ』だ。私の弟に見合う立派な女になれよ、イヴ」
『はい、ミラ様!』
***
「よし、こんなところかな」
イヴとの出会いから数日が経ち、私は儀式の準備を完了させた。
もう今すぐにでも発動できる状態だ。
しかし儀式の発動をする前にやらなくてはならないことがある。とはいえ、支払う代償はすでに決めているし、そう大した用事でもない。
やらなくてはならないこと……それは二人の人間をこの手で直接殺すこと。
ありえないこととは思うが、もしも。
もしも「万が一」が起きた場合を考えた時、あの二人を殺しておかない理由はない。
***
二人の人間を殺した。何の感慨も湧かなかった。
「さてと、これは適当に処理しておこう」
汚らしい死体を両腕に担ぎ、寝室を後にする。
チラリ、と視線を「別の部屋」に送り──諦めたように首を横に振って家を去った。
さぁ、終幕の時だ。
さぁ、開幕の時だ。
代償となるのは──ただ一人を除く地上の生物共。
奴等の魂をふんだんに使い、葉瑠くんにとって完全無欠の花嫁を完成させる。
あの子にとって余計なモノは全て棄て去った美しい世界で、幸せを謳歌してくれることを、心の底から祈って──
「葉瑠くん、愛してるよ」
そして、世界は闇に包まれた。




