この星に生まれて
閉じていた目を開ける。
なんだか物凄く柔らかい物に包まれている気がする。それにふわりと良い匂いが漂っている。
中々焦点の定まらない瞳を彷徨わせる。
しばらく経って、ようやく自分が置かれている状況を把握することが出来た。
端的に言うと、豊満なおっぱいに埋もれていた。それが誰のおっぱいかなんてすぐに分かる。今現在、この星において豊満なおっぱいの持ち主は一人しかいないのだ。
「ぐすっ……ぐすん……葉瑠さん……」
イヴが仰向けに寝ている俺の頭を抱きしめ、さめざめと涙を流していたのだった。
「ああ……おはようイヴ」
くぐもった声で小さく声を掛けると、イヴの虹色の瞳がぱぁっと煌いた。
「うぅっ……葉瑠さん、良かったですぅ……ぐすっ、ごめんなさい……ごめんなさい葉瑠さん……私は……」
「怪我は無いか?」
「……っ、はいっ……!」
「ん、良かった」
自然と笑みが浮かぶ。そうだ、本当に良かった。あのまま目の前でイヴに死なれるくらいなら足が千切れた方がマシだ……あれ? そういえば足の痛みが全くないぞ?
自分の下半身に視線を送って目を疑う。俺の両足はまったくもって健在だった。
うーん、おかしいな。確かにガッツリ千切れていたはずなんだけど……って、深く考えるまでもないか。こんな芸当が出来る存在は限られている。
「俺の足、治してくれたんだな、イヴ」
「は、はい。私の力を葉瑠さんの体に注ぎ込んだんです。ギリギリでしたけど、なんとか治せました」
「……そっか。なるほど……」
今の「なるほど」に二重の意味が込められていることを、イヴは知る由もないだろう。
「ありがとう、助かったよ」
「や、やめてください。私……あなたからお礼を言われる資格がありません。私はあなたを守るために力を得たのに……守るどころか酷い大怪我を負わせてしまったんですから……」
「いいよ、もう。イヴは助かって、俺も治してもらった。俺達は何も失わなかったんだ。これ以上の結果があるか?」
静かに息を呑む音が聴こえた。そして、イヴは何か言おうと唇を開き──しかし何も言葉にはしなかった。
ゆっくりと瞼を閉じて、また開いて。
はらはらと大粒の涙を零しながら、俺の瞳を覗き込んで優しく微笑む。
「昔も、今も……葉瑠さんは優しいですね。だから……そんなあなただから、私は一生一緒に居たいと願ったんです。ずっと、ずっと、命が続く限りあなたの隣に寄り添っていたいと……そう、願ってしまった……」
消え入りそうな声で言葉を紡ぐと、ぐるりと周囲の景色を見渡した。自分のためにあらゆる生命が失われ、あらゆる建物が破壊された今の景色を。
「この惨状は……私が原因です。こんなことになると分かっていたら、私は決してミラ様に願わなかった……あぁ、けれど、それだと葉瑠さんと話せない……それは嫌ですね……あはは、本当にどうしようもない存在です……私って……あはは……」
俺はむくりと上体を起こし、思い詰めた表情で自嘲するイヴを正面から見据える。
「イヴはあくまでもきっかけだ。原因はイヴじゃない」
「わ、私ですよ……私が身の程を弁えなかったからこんなことに……ふふふ、私の正体を知ったら、葉瑠さんも私がいかに身の程知らずだったかって笑っちゃうと思いますよ?」
「知ってるよ。花だったんだろ?」
淀みない口調で放たれた俺の言葉に、イヴは大きく目を見開く。両手で唇を覆い、今にも倒れてしまいそうなほど震えていた。彼女からすれば、これまで隠し通そうとしてきた秘密をあっさり看破されたのだから当然の反応だろう。
「ど、どうして……?」
「さっきイヴが力を流してくれた時、イヴの記憶が垣間見えたんだ」
綺麗な桜色の唇をパクパクと動かす。しかしもう誤魔化しようがないと判断したのか、俯いてがっくりと肩を落とした。
「………………笑っちゃってください。花なんかが、一丁前に恋をして……き、気持ち悪いですよね……あはは」
「笑わないし、気持ち悪くもない」
俺の言葉に、イヴはゆったりとした動きで顔を上げた。俺が次にどんな発言をするのか、待っているんだ。
だけど、肝心な言葉はまだ浮かんできていなかった。反射的にイヴの物言いを否定したが、頭の中はまだ整理しきれていないのが実情だ。それでも、その不安に染まった顔を少しでも和らげたくて、とにかく穏やかに言葉を選んでいく。
「イヴの視点から見ても周りの植物は本当にただの植物でしかなかった。でもイヴにだけは心があった。見て、聴いて、考える力があった。この世界にもしも奇跡さえ上回る何かがあるとすれば、それはイヴの事だと思う」
そういえば、初めて教会でイヴを見つけた時も同じようなことを思ってたなぁ……なんて考えていると、自然と顔が綻んでしまった。
「……私はそんな大層な存在じゃありませんよ、葉瑠さん」
しかしイヴは、とても哀しそうに笑うばかりだった。
「見てください、この景色。私は……きっと生まれるべきではなかったんです。生まれてきてはいけなかったんです。それに気付かず、私はなんて愚かな……」
「俺はね、イヴ。この世界の全ての命には、何かしら生まれてきた意味があると思ってる」
そう言うと、イヴは目を丸くした。心なしか、少し嬉しそうに。
きっと。
彼女は、心に蓋をしてしまっている。
自らの本音を、心の奥底に閉ざしてしまっているんだ。
分かるよ。
だって俺は、イヴの記憶を見て。
イヴの声を、聴いたんだから。
「あ、あのっ、でもっ……私が花のくせに心を持って生まれたから、世界は……」
「どんな小さな命にも意味があるんだよ。人にも、花にも、俺にも、イヴにも。だからきっと、イヴが心を持って生まれてきたことにも、確かな意味がある」
少しだけ目を伏せ、小さく首を振って。
もう一度だけ虹色の瞳と目を合わせる。
「生まれてきてはいけない命だって、さっき言ったよな? 消えたみんなは、まぁそりゃそう思ってるかもな。何せ死んだんだから」
「………………はい」
「でも、じゃあ、イヴはどうなんだ?」
「………………え? わたし?」
ぽかん、と。
幼さすら感じさせる顔でそう呟いた。
「イヴ自身はさ、この世界に生まれたことを、後悔しているのか?」
イヴは言った。自分はこの世界に生まれてはいけない命だった、と。
その言葉は、消えた生命への罪悪感から出てきたもの。
その言葉は、心を持って生まれた孤独から出てきたもの。
だけど。
「今は……どうなんだ。今、本当は、どう思っているんだよ…………『イヴ』」
そよ風が吹いた。
イヴの柔らかな髪が、ふわりと揺れ動く。
「……わ、私は」
ぐっと、固く拳を握り締めて。
「……私は、この世界に」
下唇を噛み、大粒の涙を溢れさせながら。
「私は……この世界に生まれてこられて……良かったと、思っています……」
……ああ、ようやく、心を開いてくれた。
「こんな世界になっても……たとえ、私は生まれるべきではなかったとしても……それでも私は、生まれてきたことを後悔していません……」
「うん」
「ごめん……なさい、葉瑠さん……私は……葉瑠さんの大切な人達を奪っておいて……まだ生きていたいと思ってしまう……生きていて良かったと、思ってしまう……」
「うん」
泣きじゃくるイヴの頭をそっと撫でた。現実離れした繊細さだった。
「どうして、怒らないんですか……」
「ん? そりゃあ、イヴを責める気も無ければ否定する気も無いから。そもそも俺は、こうなったのがイヴのせいだなんて思ってないよ」
本心だ。イヴを責めたって八つ当たりにしかならないし、そんなことをしても消えたみんなは戻ってこない。そんな見当違いの罪を償わせたくてイヴに真実を伝えたわけじゃないんだから。
「それに、この世に生まれてきたからには……生きたいと思うのは当然だよ。そうだろ? だって、イヴには心があるんだからさ」
「葉瑠さんっ……ぐすっ……うええぇえぇん……」
胸に飛び込んできたイヴを抱きしめて、子供をあやすように何度も撫で続ける。
しばらくして、ようやくイヴの震えが収まってきた。繰り返し背中をさすっていた最中、腕の中のイヴはぽつりと声を漏らす。
「……私がまだ花だった頃に……私も生まれた意味を考えていたんです」
自分自身の頭の中を整理するような、とても静かな口調で彼女は語る。
「考えても考えても分からなくて、けれど誰も答えてはくれなくて。そんな時に現れたのが……葉瑠さんでした」
吸い込まれてしまいそうなほど輝く七色の瞳が、至近距離から上目遣いで覗き込んでくる。異常なまでに綺麗なそれは、どこか艶やかに濡れていて。
「あなたと初めて出会った時、私はこの世に生まれた意味を理解しました。初めて生まれてきて良かったと思いました。初めて……恋をしました」
それは、一寸の揺らぎもなく。
それは、一切の迷いもなく。
呼吸さえ忘れてしまうほど澄みきった、愛の告白だった。
「……イヴは、凄いな」
何のために生まれたのか、というひどく曖昧な疑問に対し、イヴは花の身でありながら納得のいく答えを見つけた。『私はこのために生まれてきたんだ』という確信を持てるだけの答えを見つけていたんだ。
「そっか……そりゃあ、生きたいよな……」
ぼんやりと青空を見上げながら、独り言のように呟いた。
やはり考えずにはいられない。あの日、一夜にして消された全ての命も、もっと生きたいと思っていたんだろうに……。
唇をきつく結び、抱きしめていた腕を静かに引いた。
「……イヴ。この世界にいる人間は、俺とお前の二人しかいないだろ?」
「……はい」
「どうか約束してほしい。この世界には、本当に沢山の命が暮らしていたんだってことを絶対に忘れないでくれ。残された俺達にはそれくらいしか出来ないけど、本当に大切なことだから」
イヴは真剣な表情で大きく頷いた。
「はい、必ず」
凛とした声で力強く答えてくれた少女に、俺は安堵の笑みで応えた。
少しだけ肩の力を抜く。一件落着したわけではないが。多少なりとも肩の荷は軽くなっていた。
しかしそこで、ふと違和感を感じて首を傾げる。
「あれ? そういえば戦いの音が聞こえないな」
「さらに遠くの方へ移動しているみたいですね。あれ以来何かが飛んでくることもありませんでした」
「そう……か」
戦いはまだ終わっていない……しかしそれは、クライア様とセツナが姉さん相手に健闘しているという事だ。
…………よし……!
「万が一ってこともある。イヴは教会の中に避難しておいてくれ。俺は少し用事が……」
「いいえ、教会には入りません」
俺の言葉を遮り、早口で告げられたその内容に思わず目を丸くする。
「なっ、なんで? 危ないぞ?」
「葉瑠さん、私はミラ様にどうしても言わなくてはいけないことがあります。敗北してからではきっと間に合わないでしょう。今すぐ行かなければ」
「つ、つまり助太刀に行くってこと?」
「はい。本当に怖いですが……私もミラ様に立ち向かいます。あのお方に選ばれた最後の生命として」
危ない、やめろ……喉元まで出かかった言葉を必死に呑み込む。
イヴの顔を見た瞬間、何を言っても引き留められないことを悟ってしまったから……。
「心配ありません、覚悟はしています。でなければ、あのお方に立ち向かうなんて、冗談でも口にできませんから」
怖くて仕方ないはずだ。
体の芯まで震えあがっているはずだ。
それでも気丈に振る舞うイヴを見て、俺は自然と彼女の手を握っていた。
「……死んだら駄目だぞ」
もう少しキリッと言えれば良かったんだろうが、情けないことに俺の喉からは消え入りそうな震え声しか出てこなかった。
それでもイヴは、心の底から嬉しそうに頬を染めて、
「はい、葉瑠さん」
いつものように、何度見ても飽きない最高に綺麗な笑顔を咲かせてくれた。
イヴはくるりと踵を返し、俺に背を向ける。
そして、一歩ずつ、緩やかな足取りで遠ざかっていく。
「……あ! 一つ聞きたいことがあるんですけれど、いいですか?」
突然ピタリと足を止め、振り向きざまにそんなことを聞いてきた。
「あぁ、何でも聞いてくれよ」
相変わらず情けない声で、もう手の届かない場所に立つイヴに応じる。
「ねぇ、私が婚約者だと知った時……葉瑠さんはどう思いましたか?」
悪戯っぽく微笑みながら、そんなことを尋ねてくる。
彼女が必ず生きて帰ってくると信じていながら、俺は涙を堪えるのに必死だった。
「……そりゃあ、もう、嬉しかったよ。見た目も、性格も、声も、仕草も、何もかも……イヴの全部が俺の好みどストライクだっつーの!」
どんどん熱くなる目頭の感覚に逆らい、無理矢理笑ってみせた。
「……くすっ、うふふっ。私、幸せです。今日ほど生きていて良かったと思ったことはありませんよ……」
柔らかな陽だまりを思わせる声音で、イヴははっきりとそう口にした。
雪のように白くて滑らかな肌が、熱に浮かされたように真っ赤に色づいていた。
「ふふっ、うふふふふっ……あはぁ…………これ以上そばにいたら、私、動けなくなってしまいそう……」
繊細な指で自身の頬をきゅっとつまみ、ぶんぶんと思考を正すように首を振る。
「それじゃあ行ってきますね、葉瑠さん!」
「ああ、また!」
今度こそ、元気一杯の声をイヴに届けて。
ふわりと宙に浮かび上がり、みるみるうちに蒼穹の空へ溶けていく少女をどこまでも見送っていた。




