黒百合とジョウロ
「実に愉快だね」
永きに渡る時を経て聞いたその声に、私は自然と口角が上がった。
「愉快なのはこちらもですの──エメラナクォーツ」
目の前に立つのは、あらゆる悪魔の中でも最強と言える存在──大悪魔の到達点である『ドゥーム』の一角・〈宝極〉のエメラナクォーツ。
神域にとっては仇敵でも、私にとっては「鍵」ですの。こいつを利用するかしないかで、局面は百八十度変わってきますの!
「しかし見違えた。随分と様変わりしたようだね、プラニカ」
「一万年も経てばこれくらい変わって当然ですの。見てくれなんてどうでもいい、ツキはまだ私にある……!」
まだ私が神としての肉体を持っていた頃、独自調査の一環で偶然この惑星に足を踏み入れた。この、一面が翠玉色の結晶で包まれている超常的な惑星に。
どういう仕組みか知らないし興味も無いけれど、奴の結晶は魔力探知や輝力探知に引っかからないんですの。だから見つけようと思って見つけられる星じゃない。
けれど私だけは意図してここに辿り着ける。一度でも来たことのある場所なら探知の可否に関わらず瞬間移動ができる。
私にのみ与えられた私だけの能力……さすが私ですの。
「で、ここに来た理由は何だい? 君が望んでいたゾフィオスは……というより、セラフィオスはとっくに死んだよ。オリジナルのくせに器に取り込まれてこの世から完全消滅した。知らないのか? 神使だろう今は」
「もちろん知ってますの」
「ふむ、その上で来たわけか」
エメラナクォーツは、どこか見透かしたように翠玉色の顎をさすった。
私が何を求めているかを把握しようしている……わけじゃないんですの、こいつの場合。
こいつと会うのも会話をするのもこれでまだ二度目……けれど、その本質が見抜けない私ではありませんの。
「いいだろう、再び君に力を貸そう」
大悪魔エメラナクォーツには“自分”が無い。
感情はある。
知性もある。
だが“自分”が無い。
私と同等かそれ以上の年月を生きておきながら、虫みたいな思考回路のまま強さだけが増長した化け物……それが、こいつに対する私の分析。
敵として見ればこれほど怖い存在はいないけれども、あくまで「敵対」ではなく「利用」が目的であればこれほど都合の良い存在もいない。
なにしろ「神と悪魔」という根本的な対立概念にも一切抵抗なく「何か面白そう」というだけで力を貸してくれたんですの、昔のこいつは。
「そう言ってくれると思いましたの」
そして案の定、今回も「貸す」と言った。
一万年経ってもまるで成長していない。その見込みもない。
無知な子供がただ大人の言葉を鸚鵡返ししているような感じですの、こいつの場合。
その「大人」にあたる存在こそが噂に聞く……いや、それは私に関係ないからどうでもいいか。
私はもう一度儀式を発動できる力さえ貰えれば、それで……!
「君の今の目的に興味はないが、一つだけ聞いておこう。その身体がどうなろうが構わないな?」
「もちろんですの」
間髪入れず。もはや何も失うものはない。今の私はあらゆる点において無敵ですの。
「ふむ、それでは」
エメラナクォーツは左手を目の前に掲げ、何もない空間を摘むような仕草を見せた。
そして瞬時に生成される翠玉色の結晶──これだ、これこそが私にとって唯一の切り札となる……!
「力は込めた。あとは君の扱う儀式に合わせて変容するだろう」
片手で包めるほどに小さな結晶を受け取りながら、私は小さく笑った。
「察してますの? セラ様亡き後、私が掲げる今の目的を」
「さぁね。まぁ何にせよ、君が何かを成し遂げられる存在であることを示してもらいたいものだ。神王が創った最古の神として」
どこか含みのある言い方だった。こいつが私にさしたる興味を持たないように、私もこいつのバックボーンに興味なんてないですの。ただ、それでも敢えて推測するのであれば……重ねて見ている、というのがしっくり来るか。
「しかし君もよく折れないものだ。その点は素直に称賛すべきだな」
「だって折れる理由がないですの。むしろ、運命は私を贔屓しているとさえ」
「ふ……。そのような大言壮語を素で言える時点で、君は確かに凄い奴だな」
エメラナクォーツは、何の予備動作も無く地面から椅子のような形状の結晶を生やしてストンと座った。隅から隅までこいつの力で埋め尽くされたこの星では、まさしく万能の存在というわけですの。
「狂界が誇る最強部隊『ドゥーム』も、いよいよ僕を含めて二体のみ。もはや部隊と呼ぶのも滑稽な数だ」
……世間話?
まぁいいですの、この肉体では瞬間移動能力がストック制……暇潰しには丁度良い。あわよくば有用な情報が手に入るかもしれませんの。
「あぁ、噂には聞いてますの。神域侵攻を一体で任されたという大悪魔。ハルが無事に地球へ戻ってきたということは、そいつが殺されたんですのね」
「まさかだったな、あの結末は。これまで他の悪魔がどのような結末を迎えようが正味どうでもよかったが、ガルヴェライザだけは別だ。僕にとってもあの御方にとっても間違いなく特別な悪魔だったが……まさか、与えられた使命を全うできずに死ぬことがあろうとは」
……果たして、虫に仲間の死を悼むような思慮深さはあるものだろうか? と私は思案する。
今更こんな奴への認識を改めるなんてしたくない。こいつの価値観や思考回路は良心が欠落したゴミクズじゃなきゃ嫌ですの。なんだか色々と都合が悪いし、腹立たしい。少なくとも私よりは劣った性根であって欲しい。
「弱いから死んだ。悪魔なんてそれが全てでは? そこを看過しないのは違う気がしますの」
「無論、納得はしているとも。ただ、不思議な気分なのだよ。この世に生まれた時から共にいた、弟のような存在だったからかな。後にも先にもこんな気持ちにさせられるのはガルヴェライザだけだろうな」
……弟、ねぇ。
「ふーん、「あの御方」とやらではならないんですの?」
「当然だとも。あの御方は生命としての極致に至った唯一無二の存在なんだ。その死を想像することすら烏滸がましい」
妄信……いや、確信? 少なくとも虚勢じゃない。ここは触れない方が身のためですの。
「残りの一体……確か名前は……シャルミヌート、でしたっけ? そいつは?」
「ほぉ、よく知っている。彼女は無闇に自己紹介などするタイプではないのだがね」
「情報として知ってるだけですの。別に「私」は会ったことも話したこともない。ただ、まぁ……並々ならぬ因縁があるようですの。ハルにも、今の私を構成する魂にも」
「ふむ……それもまた因果なのだろうね」
淡々とした口調でポツリと溢すエメラナクォーツは、何かを俯瞰するような眼差しをしていた。
「彼女もまた特別な才能を持って生まれた者だ。あの御方の言葉を借りるなら、彼女は『天上の命』を持って生まれた存在」
「天上……それはまた、随分と大きく出たものですの」
「しかし過言じゃないんだな、これがまた」
珍しく神妙な声色でそう呟く。こいつ、こんな声が出せるんですの?
「じきに幕が上がる。最後の幕がね。ここから先の舞台は、運命に選ばれた者達しか立ち入ることはできないだろう」
「先の舞台、とは?」
「無論、世界の命運を決める勝負のことさ。それが「勝負」として成立するかはともかく、その舞台に立つことができるのは極々僅かだろうね」
「そこに私はいますの?」
「君が? いるわけないじゃないか」
興味本位で軽く聞いてみただけだったのに、存外哄笑されてむっとした。別に立っていたいとは思ってなかったけれど、それにしても馬鹿にされていたのでむっとした。
「君はもう舞台から降ろされてるんだよ。今の君はみっともなく足掻く地べたの虫だ。とてもファイナルステージに立てる器じゃあない」
「あなたはその器だと?」
嫌味っぽく問いかけると、奴は迷うことなく断言した。
「いや、僕は違う」
てっきり「自分も特別だ」と言うと思っていたから、私は拍子抜けしてしまった。謙遜という言葉すら聞いたことがない生き物だと思っていた。
いや、というよりも、そもそも謙遜してない……?
「言っておくが僕は強いよ。ガルヴェライザを殺したツキノハルにも、僕なら絶対に負けない自信がある。だが違うんだ、そういうことじゃないんだよ」
それはまるで、オーロラのよう。
星中に広がっている結晶の天蓋を、何の感慨も無さそうに見上げるエメラナクォーツ。
その瞳は、遥か彼方のモノを見据えているようだった。
「世界の命運を握る存在というのは、なりたくてなれるものではない。僕はなりたいと思ったこともないしなれないが、中にはなりたくなくてもなってしまう者もいる。運命に選ばれるとはそういうことだ」
「……それは、誰のことを言ってますの?」
「さて、誰だろうね」
肝心のところは誤魔化すのがこいつらしい。
しかし該当人物など聞かなくても分かっていた。だってもうハルしかいませんもの。
分かっていたのに何故聞いたかというと、何故コイツがハルの情報を持っているのか不思議でならなかったから。
ただこれ以上追及したところで口を割ることはないでしょうし……割ったところで何かが好転することもなさそうですの。
「ともあれ、最後の幕が上がる前に君がどう足掻くのか……とくと見せてもらおう」
「精々高みの見物してればいいですの。華々しく散るつもりは毛頭ない……目にものを見せてやりますの」
セラ様がこの世のどこにもいなくなった今、私のやることはたった一つしかない。
それには何の複雑さも、意外性も無いが──それでいい。煩雑なのは嫌いですの。私はいつだってシンプルイズベスト!
──愚かなる神域を、絶対に滅ぼす……!
セラ様に会うための手段に過ぎなかったのが、一万年前。
セラ様がいなくなってなお神域を滅ぼす理由なんて無いだろうって?
いいや、まったくそんなことはない。
今の神域はセラ様が統治していた頃の神域ではなくなってしまっている。
愚弟パルシドが汚泥で塗りたくった紛い物……私はそんな神域を認めない。
セラ様が最初に創った神は、奴ではない──この私ですの。
この崇高なる使命を果たせるのも、この私しかいませんの。
だから、全部滅ぼして……その光景を見せつけながら、最後の最後にパルシドをぶち殺してやる。
奴だけは絶対に許さない……これは復讐ですの。
誰よりも何よりも正当性のある、唯一絶対のこの私だけに許された──完全なる復讐ですの。




