葉瑠と『イヴ』
ゆっくりと瞼を開いた。
パジャマを脱ぎ捨て、動きやすい服装に着替えると、すぐさま一階のリビングまで歩いて行く。
「起きたか、ハル」
俺が到着した時には、すでにクライア様とセツナが真剣な面持ちで佇んでいた。
「さぁ……いよいよミラとの決戦だ。各々、覚悟は良いな?」
クライア様の静かな呼び掛けに、俺とセツナがゆっくりと頷く。クライア様が放つ凄まじく研ぎ澄まされた威圧感が部屋中に充満している。味方のはずの俺が思わず冷や汗をかいてしまうほどのプレッシャーだ。これが神域の英雄か……!
「セツナ、持ち場へ飛べ。全身全霊で余を援護しろ」
「はい、クライア様」
セツナは数歩歩きつつ、チラリと俺の方に視線を送ってきた。まるで「なんか言うことあるでしょ?」と言わんばかりの、意味ありげな眼差しだ。
そんな目で見なくても、元々言うつもりだったっての。
「頼んだぞ、セツナ」
「……うん、頼まれた」
満足そうに笑いつつ、桜色の髪を翻してセツナの体が消えた。
「ハル、早く教会へ行け。何としてもイヴを留めろ」
「は、はい!」
大きな声で返事をし、勢いよく家を飛び出した。
いよいよ始まるんだ……大悪魔と化した姉さんとの、最初で最後の戦いが。
俺は俺のやるべきことを、しっかりやろう。クライア様とセツナなら、きっと姉さんにも勝てると信じて……!
***
俺は今、教会の壁に手を触れて佇んでいた。一応、結界の対象から外れていることを確認するためだ。
「よし……行こう」
意を決して静寂に包まれた教会の扉を開くと、ズラリと並ぶ会衆席にぽつんとイヴが座っていた。
「あ、葉瑠さん! また会いに来てくれたんですね!」
うーん、相変わらず可愛い笑顔だ。意識が吹き飛びそうになったぞ。
「お、おうイヴ。元気か?」
「はい、元気ですよー」
決戦当日だというのにこのふわふわ感……やはり姉さんからは何も知らされていないのだろうか? だとしたら留めておくのにあまり苦労はかからないかもしれない。
イヴの隣まで歩いて行き、静かに席に座った。
………………本当に静かだな、ここは。
「……イヴは、普段何して過ごしているんだ?」
「葉瑠さんのこと考えてます」
「……」
言葉を失ってしまった。
そういうことさらっと言うのやめてほしい、心臓に悪いから。
ごほん、とわざとらしく咳払いして照れを隠す。
「……あ、飽きるだろ、そんなの」
「飽きませんよ、私」
「……」
やべえ、この子無敵か?
いかん、俺は別にイチャつきに来たわけじゃないのに。セツナ達は命懸けで戦ってんだ、動じてばかりじゃ何にもならないぞ。
「今日は……とにかく話をしよう、イヴ。色々な話、たくさんしよう。俺は、今日、そのために来たんだ」
「えーっ! ほ、ほんとですか!?」
ぱあっと明るい笑顔を見せたかと思えば、
「でっ、でも、それってよく考えたら普通ですよね。だって私と葉瑠さんは……こっ、ここここっ、ここっ……」
ニワトリかな?
「こ、婚約者! なんですから!」
真っ赤な顔で、はぁはぁと肩で息をするくらい大声で叫んだイヴの言葉に、俺も思わず赤面してしまう。互いに頭の上から湯気を立ち昇らせながら、しばし無言で見つめ合った。
「………………婚約者、なんです。私達」
「し、知ってた」
「ふぇ!?」
ただでさえ真っ赤な顔がさらに紅潮していく。ばたっと倒れるんじゃないかと心配になるほどだ。いや、それは俺も同じかもしれんけど。
「なっ、ななんなん……あっ、ミラ様から聞いたんですね!?」
「そ、そう」
「……っもぉ! どうして私より先に言ってるんですかもう!」
頬を膨らませてぷんぷん怒るイヴが可愛くて笑いそうになるが、ここは堪えた。
「葉瑠さんの驚く顔を見るのが楽しみでしたのに、ミラ様にまんまと奪われました……」
「う、いや、欲しがるほどのもんでもないけど」
「またまた」
別に冗談じゃないんだけど。百人に聞けば百人が要らんと言うだろう。
「……うーん、いや、でも、お話くらいしますよね。葉瑠さんとミラ様は姉弟ですものね」
イヴの口から「姉」というワードが出てきたことにドキッとした。そうか、イヴは俺の姉さんがミラだということは知っているんだよな……。
「な、なぁイヴ。ミラとはどんな風に出会ったんだ?」
「んーと……内緒です。葉瑠さんには言わなくていいとのことですし、私もあまり言いたくはないですから」
「……そうか」
こうもはっきり言いたくないと告げられるとは思っていなかった。しかし、姉さんにとって都合が悪いのは分かるにしても、イヴもそうだということは……やっぱり何か重要なことが隠されているんだ。
「それにしても、ミラだなんて。葉瑠さんはミラ様のことを「お姉ちゃん」呼びしていると聞いていたんですが……名前を呼び捨てすることもあるんですね。心境の変化でも?」
「ん……」
俺は言葉を詰まらせた。いや、別に姉さんがしょーもない嘘を吹聴しているからではなく。
前から薄々思っていたが、事情を知っているようでこの子は本当に何も知らない。
どうやら姉さんの本名も知らないみたいだし、人類が消えたことも知らないし、突然特殊な力を与えられて何の疑問も抱いていないところもおかしい。とにかくこの子は無垢を通り越して無知なんだ。
その原因は……まぁ、あの人のせいなんだろうけど。
うーん、質問の仕方をちょっと変えてみようか。
「……イヴは、ミラが怖くないのか? ほ、ほら、凄いデカくなったり黒い鎧纏ったりしてるわけじゃん?」
「怖い? あはは、いえいえ全く怖くありませんよ。ミラ様は私にとって神様みたいなものですから」
「…………神様」
よりにもよって……。
姉さんはイヴからそう思われていることを知っていて何も言わずに今日まで過ごしてきたのか? だとしたら残酷なんてもんじゃない。
「ミラがそう言ったのか?」
「いえ、ミラ様は『魔法使い』と言っていました。確かにそれ以外であの方を言い表すのは難しいですから、私もそう思っていますよ」
神様よりはマシ……とはいえ、結局嘘をついているのは変わらない。
イヴを大切に思っているようなことを言っておきながら、あの人はやはり……決定的に思いやりに欠けている。
このまま姉さんの話題を続けていては頭がどうにかなりそうだった。何か新しい話題を考えないと……。
「あ、そうだ。イヴ、俺とイヴがいつ知り合ったのか教えてくれないか? 大切なことなのに、今まで聞きそびれていたからさ」
「えっ? んんー……い、いえ、やめておきます。これは……知らなくていいことですから。葉瑠さんには今の私を見ていて欲しいんです」
焦っていた。
明らかにこの話題を嫌がっているのが分かる……が、仮にもついさっき婚約者宣言した相手にそれはないだろう、と思わなくもない。
まぁ婚約者云々はこの際いいとして、今の返答を俺が不審に思うのは至極当然というものだろう。
姉さんとの出会いも言えないばかりか、俺との出会いも言えない。ここに隠されている秘密は……おそらく『イヴ』の根幹を揺るがしかねないことに違いない……。
……………………「根幹」?
ああ……そうか、まさにそれだ……!
この前セツナの話を聞いた時、俺は何かを掴みかけていた。
頭を悩ませていたイヴという存在の謎に手が届きそうで届かなかった。
あれ以降、イヴの正体については暇さえあれば考えていた。
朝も、昼も、夜も。
足りない知恵を振り絞りながら、色々と考えて。
そして、今、この瞬間……俺はようやく辿り着いた。
「なぁ、イヴは、元々何だったんだ?」
「…………………え」
今、確かに、歯車の動き出す音が聞こえた。
錆び付いていた運命の音が、ゆっくりと。
「何だった……って……?」
あまりに抽象的な俺の問いに対し、しかしイヴは明らかに引きつった笑みを浮かべた。その心境を表すかのように、大きく見開かれた七色の瞳が不安定に揺れている。
「……な、にを、言っているんですか? 見て……みて、みてくださいよ! ちゃんとみて! わたしを!!」
「ああ、見てる」
「ど、どこからどうみたって、にんげんじゃないですか! なんだったって、なに!? なにをいっているんです!?」
否定するような叫びとは裏腹に、酷く狼狽えている姿には思わず胸が締め付けられた。しかしもう引き下がれない。俺にも背負っているものがあるのだから。
「落ち着いてくれよ、イヴ。俺はイヴとちゃんと話がしたいだけなんだ。嘘偽りのない、真実の話を」
そう、真実。
イヴやセツナ、そして姉さんと交わした会話を頭の中で反芻し──俺は、ついに一つの結論に辿り着いたんだ。
セツナは言った。人に能力を与えただけにしてはあまりにも犠牲になった命が多すぎる、と。
姉さんは言った。人間以外を俺のお嫁さんにはしない、と。そしてこうも言っていた。地上の命を全て犠牲にして、イヴを絶対的な天才に仕立て上げた、と。
そう、『仕立て上げた』。
俺はその言葉を聞いた時、平凡な人に輝かしい才能を授けて究極の天才にしたことを言い表しているんだと思ったが……そうじゃない。それじゃ辻褄が合わない。
つまり、イヴは。
いや、『イヴ』と名付けられた謎の存在は。
大悪魔ミラが無数の命を費やしたことで人へと変貌を遂げた、人ではない別の何かだ。
「……私は、人間です。あなたと同じ。葉瑠さんと同じ」
「今はそうかもしれない。でも、その前は?」
「…………葉瑠さんは、今の私を否定するんですか?」
「まさか。ただ聞いてるだけで否定なんてしてないよ」
「……っ」
ぎゅーっと拳を握り締め、無言のまま目で訴えかけてくる。今にも泣き出しそうなほどに、瞳を潤ませながら。
「どれだけ大切に想っている人にも言えない秘密があるものだ……と」
「……え?」
「それが……それが人間なんだって言っていました。ミラ様が……私に」
「……っ、…………そうか」
小さく、絞り出すようにそう言うしかなかった。
姉さんがどんな感情を抱いてイヴにそう伝えたのか、一度思いを馳せればもう動けなくなりそうで。
「い、いや……あの人がそう言っていたとしても、俺は……」
「私はっ……ようやくあなたとお話が出来たんです。あの日……この場所であなたを抱き締めた時、私がどれだけ嬉しかったか……。お願いです葉瑠さん、今の私を見てください。今の私だけを見て……お願いですから……」
……分かってる。この子にとってどうしても触れてほしくない部分だってことは。イヴのことを慮るのならばこんな話はしない方が良いんだ。
それでも、しなきゃいけない。
この先の未来がどう転んだとしても、これだけは……避けては通れない……!
「……凄く辛いことがあって落ち込んでいた時にさ、友達が家までお見舞いに来てくれたことがあったんだ」
「……え?」
「あいつら、慣れない言葉で必死に励ましてくれた。本当に、大切な友達だった。一週間前、最後に別れた時も、「また明日学校で」って言ってたんだけど……それは叶わなかった」
「葉瑠さん、一体何を……?」
「俺の友達だけじゃない。全ての人間が、この地上で暮らしていた全ての命が、明日を待っていたはずだ。世界中の誰もが皆、明日が来ることを信じて疑っていなかったはずだ」
「地上の……全ての命? それは、どういう……」
「言葉通りの意味なんだ、イヴ」
静かに、だがはっきりと言葉を紡いでいく。
「さっきも言った通り、俺は今のイヴを否定しない。だけどイヴが何も知らないままでいることを見過ごせるほど、大人じゃないんだ。だって……そんなの……あまりにも、消えたみんなが報われない……」
ぐっと瞼を閉じて、もう一度開いた。
目の前のあまりにも美しすぎる存在を、しかと見据えて。
「いいか、イヴ。姉さんは……ミラは決して魔法使いなんかじゃないし、ましてや神でもない。この星からあらゆる生物を消し去った、正真正銘の悪魔なんだ」
何も知らない純真無垢な少女にとって、冷たい残酷な真実を突き付けた。
一切の容赦なく、包み隠さずに。




